やってみなけりゃ分からない…のだが

そりゃそうです。

でも、多くの学生達は悩みます。

「分からないからできない」
と。

今回は、これに関するお話しです。

夢工房の学生達は
毎年クルマを作ります。

燃費を競うとか
速さを競うとか
まぁ、色々ですが。

で、色々考えて決めなきゃいけないのですが
その時に

「今の自分が知っていることや
できること(手段・方法)はこうだから
それでいく」

とすることがあります。

特に理系の、技術系の学生は良くやります。
だって、技術(=手段)好きですから当然です。

これ、一見良さそうだけど
ダメです。

なぜでしょう?

彼らが作るのはコンペティションのためのクルマです。
目的とか目標があります。
つまりプロジェクトのゴールですが。

「今の自分が知っていること(手段・方法)はこうだから
それでいく」

とやると
ゴール到達のための手段を先に決定する
ということになります。

「え?何がダメなの?」
と思うでしょう。

手段を固定してしまうと
それによって得られる結果も固定されます。

その手段が、ゴールに向いていれば良いのですが
大抵はそうではありません。

今現在の自分が知っていることや
できることをやっただけですから。

そのやり方を超ハードにプッシュししても
ゴールには到達できないでしょうし

そのやり方で
数百回繰り返しても
結果はあまり変わりません。

だって、今現在できることを何回繰り返したって
「できること」は大して変わりませんから。

まぁ、そういうのも
やってみれば分かるので
それでもまた勉強ではあると思いますが
時間がもったいないですね。

というか、そんなことしていたら
思考停止するか
心が折れるでしょう。

ビギナーは、とかく経験することが大事なわけですが
その時に大事なのは

今できることをやる
ではなく

ゴール達成のためにチャレンジすることです。

上位概念のゴールを決めて
そのためのコンセプトを決めて
そのための戦略を決めて
用いる手段を決めて…

これらは全て仮定であって
正解ではありません。

だって、まだやっていないのですから。

ともかく
ここまでのワンセットを決めたら
最下層の「手段」をやってみる。

ここで
「やってみなけりゃ分からない」
の発動です。

もちろん、やってみても
望み通りの結果は得られない可能性があるけど
分かることはある。

それによって、必要とあらば
手段を変更したり
上位の方の概念を修正したりする。

その辺のグルグルに手間と時間がかかるので
ビッグなゴールに到達したければ
早く動く必要がある
ってことです。

おっと
その際はアウトプットも忘れないように。

あれは良かったのだろうか? 環境の話

自分が学生の頃
学校ではどうだったんだっけなぁ?
なんてふと思ったのです。

色々あったけど、一言で言うなら
ジャングルで冒険しているみたいな感じだった

どういうことかというと

日々、何があるか分からない

色々やらかす子供だったので
先生に良く怒られてたかな
ってのはあるのですが

友人関係では
やはり強者、弱者がいるわけで
やったり、やられたり

今日はやってやったが
明日はやられるかもしれない

今考えると、しょうもない子供時代だったと思います。

先生からも殴られましたね。
それが普通だった。

そんな環境がどうだったか?
あれは果たして
良かったのか?
悪かったのか?

そんなの分かりません。
何と比べて
ってのもあるでしょうし。

家庭がしょうもなかったから
相対的に学校の印象は良かったのかなぁ
いや、良かったわけではないなぁ

ただ、そんなに不幸な感覚は持っていませんでしたね。
学校では。

結構、好き勝手やってた
というか
好き勝手やってた
と言うべきかな。

やりきった感は無かったけど
そこそこ満足いってたのかもしれない。

いや、どうだろう?
満足はしていなかったかな。

でも、しょうもないことに対しても
面白いことに対しても
そこそこ工夫はしていた…つもり
だったと思う。

今回言いたかったのは…

我々教員は
良かれと思って学生達に教えたり環境を整えたり
しているつもりだけど

それは果たして
彼らにとって良いことなのだろうか?

ということです。

いわゆる恵まれた教育環境で学ぶと
本当に将来は良い事になるのか?

それは大変疑問です。

望む知識・情報が容易に手に入る
余計な問題は起きない
障害に対しては即座に問題解決の手が差し伸べられる
設備は万全に整っている
などなど

可能な限り困難を排除する

そういうのって、一見理想的ですよね。

でも、それによって
彼らは何を得られのだろう。
色んな意味でね。

IT技術やら何やらが発展したお陰だったり
倫理観がどうたらこうたらで
今のようなレベルで困難が排除されたことは
恐らく今まで無かったはずで

そんな環境で人がどのように成長していくのか
なんてのは、誰も経験が無いわけです。

困難の中からしか得られないものはあるわけで
困難が無いから得られないものもあるわけで

環境を作る
と一口に言っても
こりゃ難しいよなぁ
と思ったのでした。



認知能力と被認知能力

「出来は悪いのだけど何とかしたいぞ!」
という工夫を重ねてきた自分としては
以前から記事にしているとおり

いわゆる「お勉強」のような
形式知よりも

やらないと分からない
暗黙知(経験知)に
重きを置く戦略でやってきたわけです。

もちろん、その時は意識的ではありません。
直感です。

これは結構成功したというか
面白かったわけです。

だって、経験しないと分からないことって
最初はうまくいかないことが多いので
皆が敬遠したりして

結構、やってる人は少なかったりすることもあって
その経験自体に希少性が出てきます。
継続すればなおさらです。

そういうのって優位性にしやすいですからね。

希少性や優位性を持てる事自体が
満足感を得られる元になったりもしますし。

さて、形式知とか暗黙知ってのは
要は知識なわけですが

知識は使うためにあるわけで
そのためには「能力」が必要になります。

学校で習得したり、養われるのは
記憶力とか
言語理解力とか
論理的思考力とかですかね。

こういうのを「認知能力」といいます。
知能検査とか学力で測れる「力」ですね。

これらは、授業で教えたりできます。

それに対して「被認知能力」というのがあります。
私の大好きなヤツです。

これは…

人間関係を構築する力とか
自己管理能力とか
責任感や協調性
想像力やモチベーションなんかが含まれます。

ここで言うのは「能力」ですから
知識として理解するこだけではダメで
できないとイカンわけです。

これらは
失敗を恐れずにチャレンジして
うまくいかない失敗から学んだり
諦めずに工夫したりして乗り越えたり
仲間と力を合わせてジタバタしたり
感情を含めたアウトプットに対するフィードバックから学んだり

そんな風に、実体験として経験しながらでないと得られないものばかりで
こういった能力は、授業では養えません。

ですが
こういうのを軽視しすぎではないかな
と思うのです。

これらは言ってみれば
生きるために重要な能力でもありますが

数値化して評価しにくいですから
学校では授業科目にできません。

レベルが上がったところで
お受験には一切役に立ちません。

ところが!

認知能力は大事な能力ですが
そもそも、それを実際に使う際には
被認知能力が必要なのです。

なので、被認知能力が養われていなければ
「知っているけどできない」
ということになる。
そりゃ当然ですね。

逆に
被認知能力ばかりが成長しちゃうとどうなのか?

恐らく、そちらはあまり心配要りません。

なぜかというと
被認知能力が高まると
認知能力が欲しくなるからです。