違いにこそ価値がある

今夜は、お師匠様の佐野先生とともに、現役学生や卒業生にお誕生日会を祝ってもらっちゃったりしたのですが…

彼らを見て思うのは、個性って大事だよなぁ
ってことです。
楽しいのはもちろん、単純に、そこには価値を感じられますもの。

対して、皆と違うことを恐れ
皆と同じようになろうとする
といった風潮もあるのが残念でなりません。

気持ちは分かるのですけどね。

ですが、これは恐ろしいことです。
違いにこそ価値があるのに
そんなことをしたら
無価値になってしまう。

何でも 違っていれば良いのかというと、そんなことは無いのですが、せめて自分が力を入れていることとか、勝負をかけることとか、そんなところには違いを作り出して欲しい。

だって、違いにこそ価値があるのですよ。
皆が同じように持っているものには価値が無いでしょう。
そんなことは皆分かっているはず。

というか、そんなことは子供でも分かっている
いや、子供の方が直感的に分かっているかもしれない。

でも、いつの間にか間違った価値観に改造されてしまうのですよね。

「学生の本分は勉強だ」
よく聞くセリフですが
これが「皆と同じように同じようなことをできなければならない」だとしたら、致命的です。

なんか歳をとるほどそういったことが見えてくる気がします。
それもまた興味深く面白いことです。

君はできるぞ!

我が国においては、仕事に対する満足度とか、いわゆる仕事に対する熱意とか、そういったものが他国に比較してかなり低いのだそうですよ。

そして最近良く耳にするのが「すぐ辞めちゃう」です。

ひょっとして、仕事から得られるやり甲斐とか面白さとか、そういったものって、「もらえるもの」とか「受け取るもの」って感覚になっていませんか?

自分で変えていくとか、自分で作っていくという感覚を持てていますか?

まぁ、そういうのって最近に限った話ではないですけどね。

会社とか上司とか他部署とかの文句を言う人って、大抵は環境に対して受け身になっていますよね。
「俺のせいじゃねぇ」
って。

それはつまり
「会社は(上司などの他人は)俺様に、愉快で楽チンで儲かる仕事を与えるべきなのである」
って思っているってことですよね。

興味深いのは、そういうメンタリティを持っている人って、仕事を面白く変えていこうとはしないですね。
だから「自分に合っていない」とかいう理由で辞めちゃったり、簡単にブラック企業とか言えたりするわけです。

もっとも、そもそも自分に合っている仕事なんて無いでしょう。
自分が合わせるか、仕事を変えていくしかないのではないかな。

それに、何の不自由も困難も無い仕事を言われるままにやり続けるなんて、そんなの耐えられそうなもないな、なんて思っちゃいますけどね。

さてさて、こんなことを書いてると、現状に対して愚痴を言っているように見えますか?
そうでしょうね。

でも、違うのです。
愚痴を言って終わりにしたって、何も面白くないでしょう?

「俺のせいじゃねぇ」
では何も変わりませんので
「俺のせいだ」
では悲観的すぎるので
「俺にできることがある」
ではどうですかね?
そうやって、仕事の内容や環境を、より面白く変えていくのはどうですか?

直接的に相手を変えたくなったりしますか?
でも、それは難しいというか、無理ですからやめておきましょう。

変えるのは自身で、やるのも自身です。
変化を及ぼす対象は、仕事であり環境です。

その結果、間接的に人が変わっていく…というのはあり得るでしょうね。

未来予測に思うこと

これから我々はどうなるのか?
そんなことを想像するのは楽しくないですか?

未来を想像しておけば、そのための準備をしておけたりしますから、色々メリットがありそうですものね。
というか、我々は未来のために学んだり準備したりして日々を過ごしているといっても過言ではないわけで、日々のこと、手元のことを頑張るのは重要ですが、それは全て未来に繋がることだってことは忘れてはいけません。

なので、ゴールだのなんだのをしきりに言っているわけです。
そういうのを戦略的思考といいます。

さて、その未来予測なのですが、それこそ人によって考え方やアプローチは様々なのですが、過去の事例を元に「今はこうだから、以前のようにこうなる可能性がある」のような考え方は有効な気がしますね。
ただ、それを考える上で、環境条件とかがどのように異なっているかなんてことも考慮に入れないとですが。

今回、ブログのネタにこんなことを選んだのは、以前担当していた授業のネタがたまたま目にとまってしまって、それを再整理したからなのです。

その授業は、新技術が登場する背景とか、技術が停滞する理由などを、紀元前3000年以上前から近代までの長きに渡って解説するものでした。

そういった授業なものだから、資料は年表のようになっているわけですよ。
昔々、いつごろこんなことが起きた、なんて感じに。

それを見ていると、あぁ、我々人類は、似たようなことを繰り返しながら発展してるんだなぁ…なんてことが分かるわけですが、そのうちハッとするのです。

「あれ?今のこの問題って、かつて通った道か!?」

となると、今現在問題と感じていることに対する解決法とか、それによって起きることって、ある程度分かっちゃう。

あと、その今現在の問題ってのも、原因が分かっているようで分かっていなかったりもするわけで、その辺はある程度見通せる気がします。

とか、そんな記事を書きながら
「そうだよなぁ、大事なのは年号を覚えることじゃなくて、この出来事の流れとか中身なんだよなぁ。で、その知識をどう使うかってのが最も重要だったんじゃないの?」
と思うのですよ。

そう、知識って道具なんですよね。
何のためにどう使うか、それによって何を起こすか。
それで意味や価値が決まるのですよ。

持ってるだけじゃ何も起きません。