依存関係の難しさ

他人から必要とされたい
という感情は誰しも持っているでしょう。
それ、感情なのか?とも思いますが、この際細かい分類はどうでもいいのです。

他人から必要とされたい
というのは、他から依存されたいということでもありますよね。
それが人の価値に繋がるわけで…というか、価値そのものだったりするわけで
集団の中で生きていくための方法の一つでもあるでしょう。
なので、本能的なものなのかもしれません。

結局、我々は大なり小なり他に依存しながら生きているわけで
子は親に、学生は教員に
国民と国家など、個と組織という関係もそうでしょう。
小さいものが大きいものに一方的に依存しているとは限りません。

個が存在しなければ、組織は成立しない訳で、双方向ですよね。
学費を払う学生がいてくれないと、教員の存在意義とか価値なんて無いでしょうし。

依存されていることが単に負荷になっているかというと、確かにそういう側面もあるけれど、全く依存されないと存在意義が感じられなくて寂しいことになります。

依存される方は
「しょうがねぇなぁ」
とか言いながら、期待に応えることにより、自分の存在意義とか価値を感じていたりもするわけです。
いわゆる「頼りにされている」という状態ですね。

なので、単純に依存が良いとか悪いとか、そういう話ではなかったりします。
依存の反対の「自立」は、カッコよくて響きが良いので、「依存ってダメだ」みたいな印象を持たれがちですが。

難しいのは、何をどの程度依存するかによって色々と結果が違ってくるだろうということです。

例えば
親が子のために何でもやってやる
とか
先生が学生のために何でも教えてやる
なんてことをすると、必要なもの、欲しいものを手に入れるための努力や工夫は最低限になって、大げさな言い方かもしれませんが、生きる力というか、生きるための知恵が手に入りません。

「くれ」と言ったらもらえるとか、言わずとも手に入るなら、努力とか工夫なんて必要無いからです。
依存によって求めるものが容易に手に入ることに対して喜びを感じてしまったり、それがデフォルトになっているなら、自分の力で苦労して何かを手に入れる充実感を感じる経験をするのは難しくなるでしょう。

往々にして、単なる依存によって手に入るものって、大したものでは無かったりするのですけどね。

でも、依存によって環境に存在するリソースをうまく使うというのも重要です。
人だったり、ものだったり、情報だったりしますが。
もし、全てを自力で手に入れるなら、我々は原始人からリスタートしなければなりませんから。

なので、何をどれだけ依存するかというのは結構重要なことだと思うのです。

もちろん、その対価として自分は何を提供するのか、というのも同じくらい重要です。

想像力を得るには

これを知っていれば
とか
この資格があれば
とか
それで何とかなる仕事も世の中にはあるのかもしれませんが
開発をはじめとする、創造的な仕事はそういうものではありません。
もちろん、知識とかスキルとか経験は大事なのですけど
創造的な仕事には、想像力が必要です。

昨日の記事で
想像力は大事だよね
という話をしたつもりなのですが、ではその想像力を養うためにはどうしたら良いのでしょう?

そもそも想像力が不十分だとしたら、それはなぜ?

色々と理由はあるでしょうけど、端的に言ってしまうと、今まで想像力を必要としてこなかったからだと思います。想像力があまり必要無い環境で生きてきたとか。
必要の無い能力は、伸ばす理由がありませんから。

例えば、親とか先生がやるべきことを指示して、子供が忠実にそれを実行する
みたいな関係だと、子供は想像力は必要無いですよね。
言われたことをやれば良いだけだから。

言われたことを忠実に実行するなら、その時はとても良い評価を得ると思います。
授業の成績が良かったり、言うことを聞く良い子という評価を得たり。

対して、偉人伝とかにありがちな、不遇な幼少期を過ごしている間、想像の世界に逃げ込むようなストーリーがありますが、何かが不足しているような状態だと、その不足分を想像力で補うようなことをしたりするわけでです。
まぁ、不遇な幼少期なんて例えは極端かもしれませんが。

まぁ、理想と現実のギャップを埋めたいといったような欲求が想像力を育むのではないかな、なんて思うわけです。

なので、理想を想像するのがスタート地点…
なのですが、そもそも想像力が無いとスタートできないってことになっちゃいますね。

どうしたらいいのでしょう?

これといった答えはないのですが、今まで学生達を見てきて気付いたことがあります。

何かしらの自己の欲求を達成したいという欲望というのは誰しも持っていると思います。
これが
言われたことをやる、というか、言われたことをやりたいという欲求と言ったら良いのでしょうか、それに対して優先するタイプは総じて想像力が豊かです。

「やりたい!」「欲しい!」「それが必要だ!」
という気持ちが強ければ、想像せざるを得ませんものね。
まぁ、当たり前と言えば当たり前です。

これはもう、本人の価値観の問題です。
結局、人はなりたいようになっている、ということでしょうか。

テクノロジーの発達と我々の人生

別にそれほど大した話ではありませんが、夢工房では週に一度、皆で色々話し合う機会があります。
今日は、こんな感じの話を学生達としていました。

クルマが自動運転で、しかも空を飛んじゃったり、ロボットが炊事・洗濯・掃除をしてくれたり、わざわざ遠い場所に行かずとも、仮想現実で色々経験できたり。
そんなのが私の子供の頃の典型的な未来の暮らしのビジョンでした。
今もさほど変わらないかもしれませんね。

そもそも多くのテクノロジーは、ユーザーの労力やリスクを低減することが主な目的の一つでしょう。そのために発達してきました。

あなたは、テクノロジーが発達して、色々便利に、楽チンになって、安心安全な暮らしになることが理想ですか?
そして、どこまでも果てしなく、その方向で発展していくのが理想ですか?

余計なことは、可能な限り…いや、一切やらなくて済む未来。
一切の困難や苦痛が無く、自らは何もする必要が無く、与えられる楽しいもの、美味しいもの、快楽を受け取るだけで良い。
それが究極の未来の理想?

そんな極端な状態が手に入れられるか否かは別として、もしそうなったとしたら、それは…
単なる消費マシーンではないですか?
そんな状態で、果たして生きる意味があるのだろうか?
そもそも生きる意味って何なのだろうか?

消費に要する代金を手に入れるために、言われたことを我慢してやって、給料という名の我慢代を受け取る。それが仕事?

果たして自分は、そんな未来を望んでいるのか?
そこまで明確で無いにしても、その方向を向いていないか?
そうでないなら、どんな未来を望んでいるのか?
その未来で、どんな役回りをしたいのか?

この件に関して正解は無いと思います。
自由です。
自分で決められます。

皆さんはどうですか?