たぶんこれが足りない

「こうしたい」と思って、やってみる経験、これは絶対に重要という話です。
特に若いうちにやっておかないと。

外部からの「こうしてほしい」に従う経験は多いのだろうけど、当然ながらそれが続けば「こうしたい」を発動する必要は無くなります。

学校に行って、塾に行って、勉強して、ゲームやって、と色々やっているようだけど、多様性や独自性が無いなら、特に創造性が無いなら、それは「やらされている」ようなもので、「こうしたい」は最小限になりますよね。

その結果、夢が無いなんてことになるのは当然でしょうし、そういった決められていることをやるだけなら、そもそも主体性なんて必要無いわけです。

学校に行っているうちは、決められたことだけをキッチリやっていれば良い評価を得られるでしょう。そして、その後の可能性が大きく開けるようなことが言われます。
でも、そのいわゆる「可能性が開けた」状態で「こうしたい」と思えなければ、それまでの努力はどうなってしまうのでしょう。そうやって手に入れた可能性を十分に活かせるのでしょうか?

学生のうちは「こうしてほしい」に従順に従っていれば済みますし、それに忠実に応えていれば高い評価を得られると思います。
その「こうしてほしい」にはあらかじめ正解があって、それを導き出せれば良いのです。
もちろん、それも能力の一つではあるでしょう。

でも、社会に出てからの「こうしてほしい」には、模範解答が無かったりします。
自らの「こうしたい」をやってみた経験が十分でなければ、そういう場合の「こうしてほしい」を実現するのは大変難しくなると思います。

これは仕事をする上では大問題かもしれませんが、恐らく本人にとっては大した問題にはならないと思います。
「そんなもんだ」と思うでしょうから。

でも、業務としての「こうしてほしい」の本意は伝わらず、言われた当人は「そんなの、どうするか言ってくれないとできない」という噛み合わない状態が延々と続く…といったことになるでしょう。

そうなっちゃった責任は本人には無いのかもしれませんが、誰も責任は取ってくれません。
でも、その状態であり続ける責任は本人にあります。

そうなっちゃってから何とかしようとして、何とかなることもあるでしょうけど、恐らくそれはとても難しいことになります。
だってそれは習慣に組み込まれた価値観の問題で、無意識下での反応になっているから。

これ、仕事を面白くすることができるか否かの大事な要因の一つだと思います。
それは、仕事で成果を出せるか否か、それを継続できるか否か、ということにも直結しますよね。

名古屋で思ったこと

安心・安全で満足いく世の中って、理想なのでしょうけど、どうもそれはそれで危険なのだよなぁ。
最近はそんなことを思っています。

どういうことか説明が必要ですね。

一番簡単なところで言うと、満足いっちゃったら、そこから頑張る必要無いでしょう、ってことなのですよ。
教育を仕事にしているから、そんなことを思うのでしょうけど。

新しいものを作るってのは、現状に対して不満があるってことなんですよね。

それは、理想があって、それと現状のギャップがあって、それを埋めたいという欲求があるってことなのですけど。
そのギャップを埋めたいという気持ちの大きさというか、強さがパッションの大きさになるのでしょうね。
もちろん、それが大きい方が推進力があるわけです。

つまり、不満足な環境の方が、強力な推進力を得やすいということです。

で、この「不満足」というのは、数値化された絶対的なものでは無く、個人がどう思うかって問題なわけです。
なので、各人が自由に決めて良いはず。

ですが、現状はどうでしょう?

どうも自由に決めている人は意外と少なくて、既存の誰かが決めた物差しでものごとを測っているケースが多いのではないでしょうか。
そんなことしちゃうと、結構不満足じゃ無かったりするんですよね。

まぁ、他人と違う物差しを持っていたりすると、怒られたり面倒なことになったりするのでしょう。
で、自然とそうなっちゃうのかなぁ。だとしたら、処世術ってヤツですよね。

こんなに不便が無い世の中なんだから、面倒が無い方が良いよね、ってなったとしても仕方ないのかな。

と、書いてきたのは、単なる個人的な思い込みや勘違いなのかもしれないけど、名古屋に行って色々考えたわけです。特に名古屋ってのは、技術の面で見るとかなり尖っている場所だと思っています。

もちろん、自分が普段いる環境とは色々違います。
町並みも人も。
当然、その「違った人達」は、違ったものを生み出すわけで、違ってるってのは面白いよなぁ、と。

そこそこ安心で安全で満足いっていたら、そこから大きく変えたくは無いでしょうから、それじゃつまんないよなぁ、と。

やっぱり心か?マインドか?
と、そんなことを考えていました。

これからは「変えたくない」っていったところで、世がそれを許さない環境になると思うので、早めに身の振り方を考えてアクションをしておくべきでしょうね。

なので、あちこち行って、色々見たりやったり感じたりすることが重要なのだろうな、と思っています。
立ち止まったらヤバいぞ、と。

今回は名古屋に行けてラッキーでした。

面倒なことを無くしたい…?

最近では、ユーザーの行動や嗜好を元にネットが提案してくれるわけで、自分の楽しみさえシステムが決めてくれるようになってきていると言っても良いでしょう。

余計な手間が省けて、とても楽ちんな時代になってきています。

ネット通販が発達してきたので、わざわざ買い物に出かける必要はないし、店員さんとのやりとりは不要で、色々我慢することもなくなる。ネットでポチればお買い物完了。

ガソリンスタンドはだいぶ以前からセルフ化が進んでいて、最近ではスーパーやホームセンターなどでも無人レジが増えてきました。
会計は自分でやっているにもかかわらず、なぜか楽チンな気がします。気が楽なのでしょうね。
で、それは、消費者側も供給側も同様でしょう。

そんな感じで面倒が減っているように感じます。

果たして「面倒」の正体はなんだったのでしょう?
人間間のやりとり、つまりコミュニケーションだったのでしょうか。
そうかもしれません。

でもこれ、なんか危うい気もします。

どういうことかというと、ものを売ったり買ったりするのは、人間同士の関係だということは会計方法にかかわらず変わらないはずなのですが、売る側、買う側相互に、相手に人としての価値を感じにくくなってしまうのではないかと思うのです。
価値の源泉は「人」のはずなのに。

面倒なことを削減するのが進歩だとしたら、それを追求していったら残るのは何だろう?

多くの場合、というか大抵は「面倒」の中には何かしらの価値が隠されています。
効率化を選択すると、失うのは面倒の中にあった価値なのかもしれません。

そんなことを考えていると、大きな意味での「サービス」は、今後は二極化していくのかなぁ、とか、そのうちお金を払って面倒なことをする時代が来るのかもなぁ、なんて思うのです。