バカになれるかい?

たまに聞くことありませんか?
「バカになれ」
とか。

これね、意外と深いですよ。
「バカ」ってどういうことなのか?というところがポイントなのですけどね。

「バカになれ」という字面を見て浅く捉えるなら、いわゆる馬鹿げたことができるか?面白いことをして周囲を楽しませることができるか?みたいな感じに捉えられるでしょう。
そういうのも大事ですけどね。

戦略的な捉え方もできます。
本当に大事なもののために、優先順位の低いものを切り捨てるという捉え方です。

人の力には限界があるので、色んなものに労力をかけたら、それぞれのレベルは上げられません。
本当に優秀な人は、そういうことができちゃうのかもしれませんが。

でも、誰しも一点突破で力を集中したら、結構なことができるはずなのですよ。
トレードオフが発生して、本当に重要なことを掴める可能性が高くなります。

学校や家庭で「あれもこれもできるように」と教育されているので、あれもこれもやらなければいけないと思い込んでしまいます。

それに、基本的に人は何かを手放すのは怖い。
特に多くの人が「普通に大事にしていること」を手放したりするのは勇気が要ることで、普通の人からそれを見たらバカみたいに見えるかもしれません。
やらないことを決めるのも戦略上大事なことです。

それができるなら、大きな強みになると思いませんか?

大抵の人はそれができないのですよ。
だからこそ「普通」なのですけどね。

そして、その普通の状態から脱するのは勇気が要ることです。

「普通」をキープしたまま「何か特別なことはできないかな」「特別なことをするにはどうしたらいいのかな」なんて思ったりしがちなのですけど、それは普通じゃない「バカ」から見たらバカなことなのかもしれません。

ダライラマの言葉

何を思ったか、ダライラマ法王14世の著書を読んでいます。
正確には、ジャーナリストの池上彰氏との共著ですが。

「これからの日本、経済よりも大切なこと」

というタイトルです。

約10年前に書かれた本ですが、タイトルからして今の日本に必要そうじゃありませんか?
もちろん大事なことが書いてありますが、特に難しい内容ではなく、文字も大きく読みやすいです。
恐らく1日で読み終わっちゃうと思いますので、興味がある方はぜひ読んでみてください。

で、この本の冒頭にあるダライラマ法王の言葉があまりに印象的だったので紹介させてもらいます。

一私たちの世代の矛盾一

大きな家に住めるようになったのに、家族は減ってしまった。
便利にはなったけれど、時間に追われている。
立派な学位を持てても、分別を失い、
知識は増えても、判断力は鈍ってしまった。
専門家と呼ばれる人は多くても、問題は増え続け
薬はたくさんできたのに、不健康になっている。

月に行くことができるようになっても、
通りを渡って新しい隣人に挨拶することには苦労している。

情報を集積するコンピュータを大量に生産し、
製品を沢山作ることはできても、コミュニケーションはうまくとれない。
大量の商品を作ることができても、品質は下がる一方だ。

ファーストフードで時間を節約しても、消化する力は衰え、
立派な身体であっても、心は貧しい。
急激な利益を得ても、うわべだけの人間関係になってしまった。

外から見ると豊かであっても、中身は空っぽ。
そんな時代である。

ダライ・ラマ法王14世

どうですか?
なるほど、その通り…と思いませんか?
どうやら我々は大事なことを忘れてしまっていそうです。

これからどうしたら良いのか、それを考える際には、現状を評価する必要がありますが、なかなかそういった機会は無いものです。

いつも通りの環境で、いつも通りの価値観に囲まれていたら、現状評価なんてできません。
視座や価値観が異なる人からの評価はとても参考になりますね。

技術って何だ

あまり大層なことではありませんが、私ごときでも分かることや気付いたことを記事にしてみます。

昨日の記事では、専門家の出現によって技術レベルが向上したという話をしました。
これはつまり、専門家を養うだけどの余裕を作れる社会で技術は発達し、それによって生まれた余裕によって、さらに技術は発達するということを示します。

仕事は、何かしらの方法を用いて価値を生み出すわけですが、人力では限界があるので、利用できるリソースは大きいに越したことはありません。

例えば、仕事の動力源です。

そもそもは、全て人力なので、いかにその効率を向上させるかという手段として技術が発達しました。農業では、鍬とか鋤とかの道具の誕生です。
この場合、仕事量の限界は人間の体力です。

その後、人間以外の動力としての動物の利用が始まります。
しかし、動物では話が通じないし、繊細な作業ができないので、より使い勝手の良い動力源である人間(つまり奴隷)の大量利用を経て、自然エネルギーである水力や風力の利用、蒸気機関をはじめとする人工動力が発明されます。

で、それら全てに技術が用いられているというか、それらこそが目的を達するための「技術」と呼ばれる「手段」です。人類は、それによって生産性を向上して、余裕を増大し、それによって技術を向上するというサイクルを回してきたのです。

そんなふうに、技術の誕生の経緯などは大変興味深いのですが、農業の誕生以前はどうなのでしょうか。
実は、そこには衝撃的な技術がありました。

それは「土器」です。

これは衝撃的なテクノロジーです。
現代で、土器の誕生に匹敵するテクノロジーがあるのか?と問われたら、答えに窮します。
それくらい凄い。まさにゲームチェンジャーです。
…と、そう思っています。

何が凄いって、土器の誕生以前は、煮炊きができなかったのです。
これ、どういうことか分かりますか?

土器が誕生する前は、穀物は食べられるものとしてカウントされていなかったはずで、それが食料に変わったということです。
そして穀物は保存が利きます。
ということは大幅に、というか爆発的に食料の面での余裕が生まれたはずです。
もちろん調理することによって栄養価が上がったりもしたでしょう。

食料は人間のエネルギー源ですので、当然ながらアウトプットの量、つまり仕事の量が増大して、余裕が生まれます。
そしてその余裕が技術の発展に繋がったことは間違いないはず。

世界最古の土器は縄文時代のものだと言われています。
確かに縄文の土器は凄いです。現物を見ると分かりますが、想像以上に精巧で緻密で、工夫がされています。
あんなものは暇がないと作れない…というのは言い方が悪いですが、生活に余裕がないと作れないはずです。
土器の誕生によってできた余裕は、あの複雑な土器の製作などに充てられていたのかもしれません。

しかし、徐々にその余裕は他のことに使われるようになっていく。

1万5千年も続いた縄文時代には戦争がなくて、稲作が本格化して土器の形状が簡素化した弥生時代には戦争の痕跡があるのはそういうことかもしれません。

何事もトレードオフがあるってことですね。