考えて、決めて、やる

考えて、決めて、やる
人のやることは、基本的にはこうですよね。

でも、便利な世の中では、あまり重視されていない気もしますがどうでしょうか?

あまり考えなくて済む
決める(決断)する必要が無い
あまりヘビーに「やる」必要は無い

でも、便利で快適ってそういうことですよね。
そういう負荷が低減されるのが「楽」ってことですから。
なので「夢が叶って良かったじゃん!」ってなことなのですが、当然ながら「何かが足りない」って感じもするのです。

まぁそりゃそうですよね。
楽ちんってことは、そこに自分の能力や労力とか個性を入れ込む余地は少なくなるわけですから、「誰でもいいじゃん」ってことになるわけで、それがメリットでもあるのです。

世の中には、そのメリットを享受することを追求する人がいる反面、その逆を行く人がいます。

開発の仕事をしたいなんてのは、当然ながら「逆をいく人」であって、便利とか快適とか、価値を作って供給する側の人です。

で、気になるのは、学校での「言われて」「やる」では、社会に出てから必要な、「考えて、決めて、やる」に繋がっていかないのではないかな、ってところです。

だって、「考える」と言ったところで、教科書ベースの理論とか公式とか、すでにやり方が明確化された過去の情報に沿って「やる」わけで、それは考えると言うよりも「作業」に近いのではないかな、と思う。

そしてもちろん何かを自発的に決めているわけではなく、すでにやることは決められていて、「やる」と言っても、それは自発的にやっているわけでも無い。

とはいえ、それらに意味が無いとも言えないので、そうしたい人はそうしたら良いのだけど、リスク覚悟で、自分で考えて、決めて、やってみたいって人にはストレスが溜まるだろうなぁ、と思うのですよ。

ここまで書いてふと思うのは、これは「失敗はネガティブなものである」という価値観で捉えるとそうなっちゃうのかなってことです。

だって、経験も無い者が、チャレンジしたらうまく行かないことがあって当然なのです。
それを避けたいから理論的な裏付けで固めれば、そこには正解しか無いわけで、失敗の経験なんて無くなるよね、とか、効率良いよね、ってこと?

リスクを取ってチャレンジする経験が無いこと自体が失敗ではないかと思うのだけどなぁ。
それに、失敗やら成功やらの中から工夫するとか、色々と幅広い経験をして、一見効率が悪い生き方をしても、最終的にはそれらの経験が活かされるわけだし、だからこそ面白いんじゃないかな。

時代の変化に伴う教育の変化 2

「言われたことを」「やる」で、その時の感情と行動の組み合わせを並べてみましょうか。

ケース1
言われたことをやるのが好きなので(感情・価値観)
言われたことをやる(行動)

何が起きるか
これは想像しやすいかな。いわゆる「良い子」でしょうか。
言われたことをやるのが好きなので、言われたことをやる。
というそのまんまの感情と行動がストレートに結びついています。
これ、一概に悪いことではありません。

でも、違う見方もありますよ。
自分発で考えることができない、もしくはそうしたくないので、言われたことをやる。
そんなこともあるでしょう。

ケース2
言われたことをやるのが好きだけど(感情・価値観)
言われたことをやらない(行動)

「言われたことをやらない」を、単に「行動しない」とするならば
言われたことをやるのが性に合っている。けど、行動はしたくない。
となるかな。
ちょっと訳が分からない感じですが
言われたことをやる方が楽だからそうしたい。でも行動するとなると面倒。
そんなのはありがちではないかな。

「言われたことをやらない」を、「言われた通りのことをやるのは嫌だ」とすると、もうちょっと訳が分からなくなります。
言われたことをやるのが性に合っている。しかし、言われた通りのことはやりたくない。
おかしくないですか?
でもこれは一見おかしいですが、初動のトリガーは人任せだけど、具体的な行動内容や細部にはオリジナリティを入れたいとか、そういうのはあり得ますね。

ケース3
言われたことをやるのは嫌だけれど(感情・価値観)
言われたことをやる(行動)

自律的にやってみたいけど、うまくできない。なので従う。
そんな感じかな。
まぁ、ビギナーにはありがちですね。

ケース4
言われたことをやるのは嫌で(感情・価値観)
言われたことをやらない(行動)

これはもう、「やりたくないならやらなきゃいいじゃん」って感じです。
一見破綻しちゃってますが、あながち無くもない話です。

本当はオリジナリティを発揮して、クリエイティブなことをやりたいのだけど、失敗したくないから動けない
ありえるでしょう?

とまぁ、「言われたことを」「やる」をテーマに、軽く、かつテキトーに考えてみただけでも色んなケースが思い付くわけですが、これらをいっしょくたにして、全員に「言ったことを同じようにやれ」ってな感じで処理しようってのは無理がある気がします。

そして、そのやり方で「高い価値を生み出すために、言われていないことをやる」という方向に向けるのは、さらに無理でしょう。
それはもう、知識量とか学力とか学歴とか、そういう問題ではないから。

続く…かも

時代の変化に伴う教育の変化

学校では、「言って」「やらせる」といったことをしています。
平たく言ったら強制です。
でも、どうやらそれが現在まで続く教育の形のようです。

「教え」「育む」なのだから、それは外部からやってあげることではないか!

うむ。字を読んだらそういうことですね。
であれば、子供達のパフォーマンスアップのためには、「科目を増やして沢山やらせるのだ」とか「とにかく学習の時間を延ばすのだ」とかなるのはごく当たり前ですね。

もちろんそういうのもあって良いと思う。今まで一定の効果があったわけだし。
言われたことをやるのが得意な人もいるから。

けど、一方的に突っ込むだけが教育だというのはどうかと思うし
言われてもいないことができる
とか
言われなくてもやる
とか、そういう付加価値に繋がりそうなことを伸ばす機会はなかなか無かったりします。

そういう状況で、突然「自発的に」とか言われてもね。
でもまぁ、時代が変わりつつあるのだから、そういう矛盾が生じてくるのがこれから、って事なのだとも思います。

さてさて

言われたことをやるのが好きな人
はいます。でも
言われたことをやるのが嫌な人
がいますね。

「言われたことをやるのが好き」
の場合
他者に従うのが好みである
というケースもあるでしょうし
その方が楽だからそうしたい
というケースもあるでしょう。

「言われたことをやるのが嫌」
の場合
単に他者に従うのが嫌
というケースもあるでしょうし
自分のやりたいことをやりたい
というケースもあるでしょう。

そして、「好き」とか「嫌」というだけでなく、これとは別にどのように行動するのかというのもありますね。

言われたことをやる人
がいて
言われたことをやらない人
がいる。

「言われたことをやる人」は
そうすることが好きなケースもあるでしょうし
仕方なかったりするケースもあるでしょう。

「言われたことをやらない人」は
行動しないというケースがあったり
言われたことと異なったことをやるケースがあるでしょう。

この辺を考えてみたら何か見えるかな?と思ったのでした。

続く