つまり「違い」ということですが。
違っているだけでは価値にはならない。
そこには優位性が必要。
概念的には、「優位性」を構成するものの一つに
「違い」があり、それが必要ということ。
なので、優位性のための違いと言うべきですね。
ところが
先の見えない世の中になると
皆が不安な気持ちになるわけで
そういった状態だとリスク回避で妥協したり
同じようなものを求める傾向になります。
違っていることを考えたりするのは面倒だし
それをやったところでうまくいく保証は無いし
誰かが言う、いわゆるセオリー的なものに従っちゃうのが
面倒が無くて確実な気がしますね。
果たしてそれは
リスク回避になっているのでしょうか?
その辺を考えてみましょう。
学校では
「皆同じようにできるようになりなさい」
というやり方です。
そこで
「皆と同じじゃないと不安」
という人間を育てています。
それは学校だけに限らず
社会の傾向だったりするでしょうし
家庭でも、それを望んでいたりするかもしれません。
そこに先の見えない未来への不安がブーストを掛けます。
「いやいや、そうじゃなくて
基本的なことは、皆同じように知っていないと…」
それはそうです。
義務教育では、そういう風にやる必要があるのかもしれません。
でも、義務教育課程を過ぎてからも
そのやり方が固定されているなら
学校を出てからも同じように義務的にやるでしょう。
結局、同じ「型」しか知らなければ
同じようにしかできない。
でも
「基本的なことをしっかり理解したら
その先の応用だってできるのだから」
というのであれば同意できません。
応用というのは
単に「難易度が高い問題」ではなく
現実社会への適用です。
学問レベルの「知る」だけでなく
実際に「やる」ということです。
この二つは大違いです。
大学を出たら社会で仕事をするわけで
そのために必要な準備をする必要があります。
最初は「型」通りでも良いですが
型を破り、独自性を追求する経験も必要でしょう。
皆と同じことをしたい人間が社会に出て
ものを作る仕事をしたら
優位性が無い製品になるのは当然でしょう。
作ったものは、作った人以上にはなりませんから。
そして
優位性の無い製品をお客さんに買って欲しい
というのは無理な話です。
さてさて
あなたはどうしたいですか?
方や、先の見えない状態で
差別化、優位性を求めてチャレンジする
一方は、可能な限りリスクを排除して
周囲の流れに乗る
いずれも保証なんてありません。
自分次第ですから。