やはりスピードかな

良いものを作るには時間がかかるのは当然だ

一理ありますが
何をやるかにもよるし
程度にもよりますね。

というのも
学生がものを作る
こと、コンペティションに向けて作る
なんてことになると
のんびりやっている場合ではないのです。

まず、ライバルも自分達とさほど変わらない年齢なので
スタートのベースラインはさほど変わらないはず。

そういう状態で優位性を作っていくためには
いかに経験の数を増やすか
というのが勝負所になります。

チームとして
とにかく色々経験して
組織としての熟成度を上げる
これも重要ですが

そのためには
チームとして色々やってみる必要があります。

毎日、決まり切った同じことをやっていても
組織としての熟成度は上がりませんから。

この「経験の数を増やす」の中には
とても大事なことが入っています。

それは
やってみて失敗する
ということです。

例えば
ある部品を設計している
として
凄く良いものを作りたい
と思うなら、凄く頑張っちゃうわけですが
頑張ろうと思ったら、どこまでも行けるわけです

しかし、その時に見落としがちなのは
それが果たして
適切なタイムラインに乗っているのか
ということです。

経験が十分でない者が頑張るのですから
やればやるほど発見があって
のめり込んでいく可能性が高くて
周囲が見えななったりします。

しかしその頑張りは
未来のある一点に向けてやっているわけですが
いずれは締め切りがやってきます。

で、それを無視しちゃうと
途端に意味が無くなるのです。

だって、スタートに間に合わない
高性能なレーシングカーを作ったところで
どんな意味があるというのでしょう。

なので、ビギナーが頑張るときは
のめり込みながら成長している状態を
うまくコントロールする必要があります。

言ってみれば妥協です。

これ、難しいことですよ。
やりながら色々分かってきて
色々できるようになってきて
成長曲線が上向いている状態で
セーブを掛けたりしなければならない
ということです。

自分でそのコントロールをしなければ
計画が破綻します。

先生が制御しろって?

まぁ、普通はそうするかもしれませんが
夢工房ではあまりそういうことはやりません。

なぜかって
自分で締切を守れるようにならないと
社会に出て使い物にならないからです。

一番良いのは
実際に破綻して
何をどうすると何が起きるか
という
原因と結果のセットを理解して
自律的に動けるようになることです。

で、その破綻した状態を乗り越える経験をする。

これ、まさに成長そのものなのですが
こんなこと、実際に経験すると
なかなかタフでスリリングですよ。

そういう経験も含めて
もの凄いスピードで経験の数を増やしていけば
素敵なエンジニアの卵の一丁上がり
ってところですね。

こんなことしていると
4年なんてあっという間です。

続 楽ちんと楽しいは似て非なるもの

前回の続きです。

学校という組織に
コロナ禍が及ぼした影響について
考えてはいたけどブログには書かなかったことがあります。
書いても何の足しにもならないと思っていたから。

コロナ禍以前
正直なところ
学校という組織に
夢とか希望とか
そういうものが無くなってきていたのは事実だと思います。

夢のある学生は減ってきていたし
多くが就職するのが目標で
特にやりたいことは無い
という者も多かったと記憶しています。
今ほどではありませんが。

恐らく学校の側も
いかににリスクを減らせるか
いかにクレームを付けられないか
みたいな方向に進んでいたのではないでしょうか。
今ほどでもありませんが。

面倒だけど面白いものは
凄い勢いで姿を消していった気がします。

安心・安全・公平・平等

それらを単品で見る限り
特に悪いことではなく
むしろ好ましいはずなのですが

そんなのが空気のように漂っていて
真綿に締められるように
身動きを取れなくなっている
そんなふうに感じていました。

そういうのばかりが溢れちゃって
なかば脅迫されているような
息苦しさを感じていました。

そこにコロナがストライクです。

今はそれに輪を掛けて
いかにリスクを低減するか
という方向に進んでいますよね。

これは学生とか学校とか
という話ではなく
社会全体が。
まぁ、当然ですが。

正直に言いましょう。

アクティブなことを抑制して
リスク対応ばかりしていると
楽ちんです。
すっごく楽です。
やらない言い訳もしやすいし。

たぶん、簡単にはやめられません。

でもね
心は縮んでしまって

全然楽しくないのですよ。

だからといって
これを大規模に変革することは無理でしょう。

このご時世で
大規模にアクティブなことをやったら
恐らくテロリストみたいな扱いを受けます。

なので、小規模ながら
熱いチームを作って時期を待ち
一点突破で変えていく

そういう戦略が良いのではないか
と思って進んできました。

きっと似たようなことを考えている人達も
あちこちにいると思います。

なので、そのうち面白いことになりますよ。

人は見たいものしか見えない 2

以前こんな記事を書きましたが
続編です。

視野が狭まっている状態というのは
好き好んでそうしているわけでもなかったりします。

大抵は、何か原因があるはず。

多くのケースに共通してみられるのは
「最低限にしたい」という意識じゃないのかな
と思っています。
ほぼ間違いない気もしますが。

これ、「やらされる意識」に基づいていますね。

「面倒くさい」
が潜んでいたり

言われたことをやる
という行動原理が原点にあったり。

「最低限にしたい」という思いの根源は
大抵ソイツらです。

いわゆる一般的に言うところの
真面目とか不真面目
というのは関係ありません。

でも、皮肉なことにソイツに身を任せると
もっと面倒なことが起こります。

どんどん選択肢が無くなっていって
最終的には
どちらも取りたくないけど
どちらかを選ばざるを得ない
いわゆる究極の選択を迫られます。

まぁ、そうなっちゃったらなったで
仕方ないのですけどね。

結局、「自分」が発動していたら
そんなことにはならないのでしょうけど

皮肉なことに
自分の心が発動していない者は
発動していないことが分からないのですね。

なので言っても通じません。
あぁ残念。

何が言いたいかというと
意外とみんな、自分の人生を生きていないんじゃないか
ってことなんです。

というのも
冒頭に言った
「視野が狭い」
というのも
自分で意識してやっていることではないわけで
自然とそうなっちゃっている
というか
自然にそうなるようになってしまった
というべきかな。

意識せずに
気付いたらそうなっちゃったわけで
自分で選んだ結果じゃないでしょう?

本当は
そういうのをどうするかというのは
自分の意思で決めて、行動して良いわけです。
でも、そうはなっていなかったりするでしょう。

成長過程における環境とか
そういうものによって
受動的に形づくられてしまったわけで
自分で考えて決めたわけじゃないのだから
自分の人生じゃない
そんな気がするのです。

こういう理屈が合っているとか間違っているとかはともかく
みんな、もっと自由に考えて行動していいはずですよね。

以前にも書きましたが、自由はFreedomではありません。

「自らに由る(よる)」が自由です。

不自由な状態を真面目とは思いたくないですね。