安全・安心でいいのかい?

世に「安心・安全」というワードを
よく見るようになってしばらく経ちますね。
「当社は、安心・安全のために~」とかね。
いつ頃から言われ始めたのだろう?

安全というのは危険の無い状態で
それによって安心という気持ちが得られるのですから
本来はこの2つのワードを並べるべきではない気がしますが。
まぁ、揚げ足とりはやめましょう。

恐らくきっかけは
安心や安全に対して十分ではないと感じ始めたから
もしくは
安全であることが付加価値として前面に押し出せるようになってきたこと
そのあたりではないかと思います。

諸々の偽装問題や震災の時の原発事故などがあったり
自動車の衝突安全などの装備の付加などが前面に押し出されてきたり
環境問題なんかもあるでしょうね。

さらに深掘りしても面白いかもしれませんが
ここで言いたいのはタイトルの通りです。

もちろん生活する上で安全・安心は重要です。

もちろん業種や製品によっては
シンプルに
安心を提供する
ということに特化している場合もあるでしょう。

製品開発においては
安心を得られるレベルというのは当然のことで
その先にある付加価値をいかに高めていくか
ということろが勝負でしょう。

「安心」を辞書で引いてみると

心が安らかに落ち着いていること。
不安や心配がないこと。

とあります。

今回は何が言いたいかというと…

学校で、安全だの安心だのをゴールにしてしまうと
面白くないんだよね
ということが言いたいのです。
ワクワクしないんですよ。
やる気が出ない。

もちろん
組織として学生に安心を提供するのは重要なことです。
これを否定する気は毛頭ありません。

ここで言いたいのは
果たして安心を得ることが学生にとってのゴールとなってしまって良いのか?
ということです。

安心をゴールにして
それを得るために努力した場合
うまくいくと安心が得られるわけですよね。
ということは
うまくいかないと安心すら得られないということででしょう?

もちろん安心を求める学生がいても良いと思います。
でも
ワクワクすることをやってくれる学生もいてくれないとつまらないんです。

それに
学生自身にとっても大事だと思うんです。

仮に
「ボクはマトモなところに就職できれば満足(安心)なんです」
とかやられちゃうと
就職がゴールになってしまうわけでしょう?

安心が欲しければ
そのために必要な最低限のことをやるんでしょうけど
仮にそれがうまくいかなかったら
就職すらできないわけでしょう?

ゴールは就職じゃなくその先にあるんじゃないの?
自分が満足すればおしまい?
お客さんは満足させてあげないの?

(自分の)安心を求めてたら
(自分が)安心を得るのは結構難しいかも。

でも
何かワクワクすることにチャレンジしていたら
最低限なんかじゃ満足できないわけで
就職なんてできて当然でしょう。
その先に本当に欲しいことがあるんですから
安心を突き抜けちゃう。

そういうことなんですよ。

でもまぁ、こういうのって「振り子」みたいなもので
そのうち逆側に振れる時期が来るのでしょうけどね。

それを待ってるわけにもいかないな
とね。

幸福の根源は何でしょうね?

今日、大学内をてくてく歩いているときに思いました。
「何で日本は幸福度低いんだろ?」
「そもそも幸福って何なんだ?」

別に何か辛いことがあったわけではないですよ。
ご心配なく。
急に思っちゃったんです。
そういうことありませんか?

幸せって何だろうね?

ってこんなこと急に言い出したら気持ち悪いでしょうか。
気持ち悪いかもね(笑)

でも、何か解決策ないかな
と思っちゃいました。
で、こんなことを考えてました。

お金があったら幸せ?

そんなこと無いですよね。
だって、宝くじで「億」当てた人って
多くが人生破綻しちゃってるんでしょう?

同様に
何かいい物
欲しい物を手に入れる
ってのも違うな。

たぶん
何か「物質」を「もらう」ってことじゃないですね。

じゃ、逆はどうだ
「物質じゃないもの」を「あげる」
だ!

これ、当たってるかも!
いえね、最近改めて試してみたことがあるんですよ。
お店に行ったときに

挨拶して
ありがとうございます
って言うのを
改めてちゃんとやってみてるんです。

子供が元気よく言うように
バーン!!って言う訳じゃないけどね(笑)
いや、いずれそうやった方がいいのか?

飲食店ではずっと前からやってました。
相手が
日本人でも台湾人でもパキスタン人でもネパール人でも中国人でも。

それを
コンビニとかスーパーに行ったとき
もっとちゃんとやるように拡張しました。
前からもやってましたけど
それをもっとちゃんとやるようにしました。

するとね
やっぱり、お店の人嬉しそうなんですよね。
そりゃそうだよね。

ウチの工房の学生達と食事に行くと
奴らは帰りがけにお店の人に言います。
当たり前のように

「ごちそうさまでした!おいしかったです!」

やっぱりお店の人は嬉しそうですね。
そりゃそうでしょう。

で、お店の人はその後どうするでしょう。
きっと元気になって頑張ってくれると思うんですよ。

我々が次回行ったときにサービスしてくれることもあるけど
別にそれは期待してたわけじゃありません(笑)

元気になって頑張るお店の人にサービスを受けた
他のお客さんも喜べば…
おぉ、これは価値が循環しているってことだぞ!

この場合の価値は
相手の存在意義、存在価値です。

価値を認められたときって幸せですよね。

だとすると
そうか!
ひょっとすると
価値の根源は
幸福の根源は

ありがとう!か!
ありがとうって言うことか!

ってことに気付いてきました。

でも
こういうこと考えてる人
いっぱいいるんだと思います。
そんなこと当たり前だろう!
っていう人、いっぱいいるでしょうね。
そんなことないですか?
私は今頃気付いちゃいましたよ。

ところで
幸福感が高いと
誰かのためのことをやろうとするでしょう?

幸福感が低いと
誰かのためのことなんてやろうと思わないですよね。

じゃ、幸福感が高まるまで
人のためのことをやろうとしないの?
誰かが幸福感をくれるとか
そのうち幸福感に満ちあふれてくるとか
そうなるまで待ってるの?

それは待ってても来ませんよね。
やろうとしなければできるようにならない
けど
やろうと思ったらいつでもできる。

できるようになったらやろうなんて
思ったりするけど
そんなことはありえない!

面倒でもいいからやろうぜ!

ダメでもいいからやろうぜ!

だって、やらないとできるようにならないんだよ。
裏を返せば
やってれば、できるようになっちゃうんだよ。

とかね。

こういうの、ある程度歳いってから気付くんだな。
「あー、もっと早く気付いていれば
もうちょっとマシな人間になっていたかもしれん!」
とか思ったりもするけど
そんなことはあり得ない。
だって、気付くまで経験を積むプロセスが必要だったから。

なので、こういう話を若い世代に伝えているけど
100%伝わるとは思っていない。
そもそも彼ら
そういうことを本当に必要と思っていないかもしれないもんね。
せいぜい
「無くても困らないけど、あるとちょっぴり得する情報」
みたいな感じ?

でも、それでもいいんです。
話したことの1%でも伝わって
そのうちいつか、それを思い出したりして
で、試しにちょっとだけやってみたりして
それで彼らが
誰かをほんのちょっとだけでもハッピーにしてくれたら目的達成だ!

ほんとはみんながいっぱいやってくれると嬉しいんだけどね。

仕事のお話@学校

大学にいると
就職に直面した学生にも接するわけで
色々考えるわけですよ。

そもそも不思議なのは
仕事って他人のためにやるものなのだ
とか
人を喜ばせてナンボだ
という本質的なことは
不思議なことに学校では教わりませんよね
ってこと。

ですよね?
教えてるところもあるかもしれませんけどね。
でも、ほとんどの学校ではそんなこと教えないのでは?

結果、学生達は
「どんなことをしたら(自分が)儲かるか」
とか
「(自分が)就職するためにはどうしたら良いんだろう」
ってことを考えている。


「これからの仕事のトレンドは何だろう?」
(そして「それは自分にできるだろうか」と続く)
とか
「資格を持っていたら就職に有利かなぁ」
(そして「何も資格がない自分は大丈夫かなぁ」と続く)
とか思い悩む訳なんですね。

就職を前にして考えていることは
心配ごとばっかりな訳ですよ。
そりゃうまくいかねぇだろうなぁ
と思います。

だってそうでしょ?
仮に就活で面接したって
自分が儲かることばかり考えてたり
心配で心配でしょうがない
そんなの(っていったら失礼ですが)を採用したくはないでしょう。

まぁ、うまいこと演技して会社入っちゃうこともあるかもしれないけど
(大抵はバレますが)
問題はその先ですよね。

でも
そうなっちゃうのは当然といえば当然で
仕事の本質
というか
構造みたいなものを
ちゃんと学校でちゃんと理解させているかといえば
そんなことはないですよね。

とここまで書いて思い出しました。

確か社会の授業かなんかで
「労働の提供と対価」とか何とかやりましたわ。やった!
ちっとも理解してなかったけど。
ということは
今もきっとやってるんでしょうね。
でも、本質が理解されてるかは疑問です。

「労働の提供と対価」
かぁ
この表現良くないなぁ。
仕事って、やらされるもんだ
っていう空気感に満ちてませんか?
「食うために仕方ないから我慢してやるもんだ」
という。

じゃぁ、収入って「我慢代」か。
大学出て40年以上我慢し続けて人生終えるのか。
そりゃぁ大変だなぁ。

何のためにどのように仕事をしようと
それは人の勝手といえば勝手ですが。

「労働の提供と対価」
じゃなくて
「価値の提供と対価」
の方がすっきり理解できそうな気がしますね。

仕事って
「相手が喜んでくれる価値を提供して、それに対する対価を受け取る」
ってことでしょう?
それが本質でしょう?

嫌々我慢して生み出した何かに対価を払う
って誰もやりたくないでしょ。

食うために仕方ないから仕事する
ということが仕方ない場合もあります。時として。
それは実体験もあるので良く理解できる。
色んな仕事したから。
無職も数回やったし。

でも、そういう姿勢で仕事の成果を生み出すと
その価値は最小限になっちゃうよね
ということが言いたいのですよ。

同じやるなら
パッションでしょ!
お客さん喜ばせちゃうぞー!
という。
それこそが価値の最大化の根源ではないかな。

基本的には
どんな仕事でもそうでしょう?

まぁ、好き好んで大学に行ってるわけだから
自分が好きな分野でそれができたら最高だよね!
ということですよ。

なので
何度も言ってる気がしますが
好きなことを仕事にすべきです。
困難があっても諦めずに頑張れるからね。

好きなことを仕事にするからこそ
人のために頑張って成果を出せる。

「じゃぁ、お前は好きなことを仕事にしたのか?」

と聞かれると困っちゃいますね。
なんせ「学校」って最も嫌いな組織でしたから(笑)

でも、大学に呼んでくれた人は、1960年代ホンダF1の開発者の佐野彰一先生
私にとっては神様みたいな人ですよ。
断れるわけないじゃないですか。
いくら学校が嫌いだからって行きますよ!

で、来てみたら
頑張る学生がレーシングカーとか惑星探査機とか作るわけですよ。
勝つぞ!
って。

大学は「技術は人なり」とか「実学尊重」とか
本質を突いたことを看板にしてるし。

そんな環境で頑張ってやらんわけにはいかんでしょう。

このところ
コロナで自粛でしょう?
にもかかわらず、1年生なんかはオンラインでガツガツやってます。
日々、感動と発見の連続ですよ!

そう
好きじゃない仕事でも
好きになっちゃうという方法もあるのですよ。