何か変だが何とかしましょう

学校という組織における環境と
実社会という環境は
あまりに違いすぎます。

もちろん目的が違うのだから
環境が違うことは当然ではあるのだけど
それにしても、あまりに違いすぎる。

工科系の大学と
エンジニアリングをする会社組織を考えてみると
学校と会社という
目的が違う組織ではあるのだけど
向いている方向は一緒であるべきではないのかな?

やっていることや考えていることは
あまりに違いすぎて
とても同一線上にあって
繋がっていくようには思えない。

もちろんそこにある価値観から違っているから
やること考えることが違ってくるのだろうけど。

価値観が違いすぎていて
共有できるものがほとんど無い。

これで良いのだろうか?

…ダメなんだろうな。

学校では
言われたことをやるトレーニングをして
知識を重視して、人間性というか人間力は軽視して
現物から離れて紙の上、机の上の理論に終始する
そんな方向に突き進んでいるわけですが
これで実社会に出て何とかなるわけないでしょう。

でも、みんながそれを望んでいます。
親も先生も、恐らく政府も。
ひょっとしたら学生本人も。

「勉強できればいいんだ」
「それで大丈夫なんだ」
って信じている。

望んでいないのは
学生達を受け入れる企業だけかもしれません。

なんか変な構図になっていませんか?

でも夢工房はエンジニアリングにおける
恒久的な何かを模索しながら
本質にこだわって行きたいと思っています。

こんな状況も
見ようによっては大きなチャンスなわけで。

色々チャレンジする中から
「こうするといいんだよ」
というヒントが見出せる…といいな。

この問題は深いですよ

情報のソースは明らかにできませんが
やはり学校の目指すところ(それがそもそもあるのかは別として)と
社会からのニーズの乖離が明確になりつつありますね。

私の場合、自動車業界の情報をベースに考えるのですが
自動車産業は日本の屋台骨を支える大きな一部分なので
今後はこの問題が広範囲に波及する気がします。

さて、それは何かというと

やはり「心」の問題です。

パッションがあるかとか
利他心をもっているかとか
仲間で頑張れるかとか
そういう話です。

優れた知識や技術を持っているのであれば
それは大変結構なことなのですが
それだけじゃダメです。
もう社会が耐えられないポイントが近づいていると思います。

話は簡単です。

仕事はお客さんのためにあるのに
自分のために仕事をしたら
顧客のニーズを満たすことなんて
できるわけないし
そもそも、そんな姿勢じゃ仕事にならないでしょう
ということです。

でも、教育側は
皆さんご存じの通り
全く逆方向に行っています。

プログラム教育とか英語教育の低年齢化とか
形式知的な知識の習得は分かりやすい例です。
幼少期から塾で学ばせるなどもしかり。

そういうのをやっても良いとは思うのですが
それ以前にやることがあるでしょう
というのをなおざりにしてきました。

そのツケがきてます。

これは産業とかの限られた領域における問題では無く
我が国の問題になります。

恐らく多くの社会人は気付いていたでしょう。
だいぶ前から。

でも、それに対して手を打とうとする人が
あまりに少なかったのだと思います。

そういうのは
会社の偉い人や政治家や教育機関の仕事だろう
なんて思っていたのかもしれません。

自分の責任じゃないから
誰かが何とかするべきだ
そんな感じだったのかもしれません。

たぶんこれからは
皆で何とかしないと
どうにもならないと思います。

人のせいにして文句を言っている場合ではありません。

今は国際社会が日本に対して
良い意味で幻想を持って勘違いをしてくれているから
まだ何とかなっているけど
この我が国の持つ問題の深部が明らかになったとき
非常にマズイことになる
そんな気がします。

先人達の築いてくれたものによる幻想が
賞味期限切れになる前に何とかしないといけません。

今回も偉そうな御託を並べてしまいましたが
私はこんな危機感を持っています。
単なる馬鹿野郎の勘違いなら良いのですが。

私は特に大した能力や権力は持っていませんが
明るい側を向いて、できるだけ頑張ります。
夢工房の学生達も頑張ってくれています。
皆さん頑張りましょう!

技術継承に思う

昔ながらの職人さんは
弟子に対して手取り足取り教えません。

ではどうしていたかというと
「見て盗め」
です。

これが昔ながらの技術継承です。

対して学校教育は
学ぶべき内容を具体的に示します。

だいぶ違いますね。

双方ともメリットもデメリットもあるとは思います。

でも実際に
「見て盗め」
で素晴らしい職人さんが生まれて
良い仕事を引き継いでいたのは事実です。

何でそんなことができたのでしょうか。
どう思いますか?

もちろんこれは厳しいやり方だと思います。
本当にその仕事をやる決意が無いと続かないでしょう。
なので、本当にやる気のある弟子しか残らないでしょう。

それはそれとして
興味深いのは
「見て盗め」
で何が起きているかです。

以前、昔ながらの日本の刃物は
「鍛接」という技法で
炭素分の多い固い鉄と
炭素分の少ない柔らかい鉄を接合している
という話を記事にしました。
実際に自分でやってみたということも。

この時に改めて思ったのです。

「知ってる」と「できる」は違うぞ
と。

鍛接の方法は、本を読んだりネットで調べたりすると分かります。

で、理屈で知っているとできるかというと
できないのですよ。

知っているけどできない。

刀匠にこの話をしたら
「難しいでしょう」
と笑ってました。

師匠が弟子に技術を継承する際も
似たようなことが起きるではないでしょうか。

言ってもできない
分かっていてもできない
そんなことが。

「見て盗め」では
弟子は必死に師匠を真似る
そのうちに
いわゆるコツを掴んで
できるようになるのでしょうけど

そこで何が起きているかというと
結果として製品の最終形態は似たようなものができているのだけど
実はプロセスに含まれる細かい手法なんかは
多少モディファイされている可能性があって
弟子本人がやりやすいやり方や工夫が含まれているかもしれない。

あえて言わない伝え方だからこそ
継承者による最適化が含まれていって
技術が磨かれて生き残るのではないかな
なんて思うのです。

そして
「知ってる」と「できる」の両方を掴んで
独立していく
と。

その後
知識のみを教えるやり方が発達したり
産業の発展と共に生産技術も発達して
効率の悪い昔ながらの技術継承は無くなってしまって
今のように「知ってる」と「できる」が分離されて
それぞれが専門化していったのでしょう。

でも、これが行きすぎると
「知る」に特化した「専門家」では
やったことがないから分からない世界があるわけで

知識のみに偏ったやり方があってもいいのだろうけど
そればかりになってしまうのは問題で
そういうジレンマにぶち当たっているのが今なのかな。

そもそも理屈というのは
実践から生まれるもので
理屈ありきではなかったりして

理屈で分かっていてもできないことはたくさんあります。

ただし、理屈を知っていれば
色々便利なことがあるわけで
それを活用しないと世代を重ねる上での進歩がなくて
いつになっても石器時代ですね。

何事も極端に走るのではなく
中庸が大事だということでしょうか。