仕事の選び方

今年は例年に無く就活のスタートが早いようです。
で、学生達はどうしようかな?と考えるわけですが

ズバリ
好きなことを仕事にすべきだと思います。
何度も言ってますが。

でも、仮に好きな業界や希望した会社に入ったところで
思った通り、希望したとおりにはいきませんけどね。

希望通りの仕事ができるとは限らないし
余計なこともやらなきゃいけない。
能力はもちろん
運(を掴むための考え方と行動)も重要です。

結局は、何をやるにしても
仕事を好きになれないと
何をやってもうまくいかないだろうな
と思うのです。
面白くなるような工夫をするとか。

仮に「面白くないから」って
つまらなさそうにやっていれば
それを見ている人はチャンスを放ってくれるはずはないし
そもそも、そんなやり方で
仕事の成果が良い方に転がるはずは無い。

仕事をしていれば
大抵は壁にぶつかるものだけれど
好きな仕事なら困難にも耐えられるわけで
諦めなければ結局はうまくいったり
その経験が役に立ったりするものです。

そんなことを考えていると
結局は何をやっても良いのだけど
でも、どうせやるなら好きなことから
チャレンジしていくべきではないかな
と思うのです。

もちろん希望する仕事に対しては
相応の努力や準備は必要ですよ。
「手ぶら」では勝負にならんでしょうし
(学力があればそれで良いということではない)
仕事を面白くするための下準備は重要で
学生のうちにできることはいくらでもあるはず。

感覚・思いの言語化は成長のカギ

学生の就活相談なんかを受けているときに思ったことです。

彼らは、自分の何が「売り」になるのか
そんなことに悩みます。

中には、良いものを持っているのに
それを明確化できなくて
自信が持てなくて
困ってしまうことがあります。
これは本当に良くあるケースです。

自信が無かったりするとき
そういうときって
頭の中でグルグル思い悩むことが
ほとんどだと思うのですが
頭の中のものって
ビックリするくらいまとまりません。

でも、それを言語化・視覚化すると
自信が持てることがあります。

なので、グルグル思い悩むときは
とにかく目に見えるようにしてしまう
というのが効果的です。
自己分析などはそうすると良いですね。

ただし、変に脚色したり
悲観的にならずに客観視をする必要はありますが。

見えるようにすると単純に分かりやすいというのはありますが
目に見えるものは関係性が明確化しやすかったり
それぞれの要素の組み合わせがやりやすくなったりします。
なので、そこからの発見があったりもします。

感じていることや思っていることを話すというのも
考えを整理したり確認したりして
自身を持つきっかけになったり
気付きを得たりするきっかけになったりもします。

しかしですよ
こんなことは当たり前で
今さら言われるまでもないことなのかもしれなくて

なんかこう
学生の背負ったカルマというか何というか
変に真面目なのも困っちゃうなぁ
というか、気の毒になっちゃうのは

書くにしても言うにしても
彼らは正しいこと、合っていることしか
アウトプットしてはいけない
なんて思っていることがあったりして

そうなると
整理が付かないから
そのためにアウトプットする必要があるのに
正解かどうか分からないからアウトプットできない
などという訳の分からないジレンマに陥っていたりします。

結果、思い悩むことが増える割に
成長が遅くなってしまう。

まぁでも
そうなっちゃうのは実は本人のせいだけではなく
今まで生きてきた環境のせいだったりすもるのですよね。

そういう意味では先生の責任は重大だよなぁ
なんて思います。

もちろん、そんな状態になっていることを
分かっていながら変えようとしていないなら
本人にも問題はありますが。

この辺を何とかしないと
業務の基本の「報連相」なんてできるわけなくて
どんなに勉強だけできても仕事ができない
なんてのは当たり前なのですよ。

というわけで
成長に必要な習慣とか価値観を身に付けるのも
夢工房の役割だったりするわけです。

クルマにまつわる仕事の話

別に硬いネタではありません。

昔、仕事でレーシングカーの設計をしていたことがあります。
ごく小さなプロジェクトでしたが。

で、ブレーキまわりの設計をしているときに
「このテの部品は量産品を流用したいなぁ」
と思ったのですが
何か良い部品無いかな?と思って
大手のブレーキのメーカーに電話したのです。
「なんか良い部品無いですか?」って。

その時イメージしていたのは
イタリアの某有名ブレーキパーツメーカーのように
単品でエンドユーザーに販売できるような部品が無いかな?
ということでした。

結果…日本には無かった。

なぜかというと
日本製のブレーキ部品は
自動車メーカーからのオーダーによって
車種専用に開発するから
「これは良いブレーキ部品ですよ」
ってお客さんに直接売るような形態になってないのです。
カタログ化されてなかったのですね。

日本の場合は、ブレーキに限らず
他社間での部品の流用はあまり無い気がします。
全く無いわけではありませんが。

欧米では
自動車やオートバイを構成するコンポーネントを開発して
自動車メーカーへはもちろん
エンドユーザーにも供給できるメーカーが結構あります。

ブレーキ部品とかショックアブソーバーとかシートとか
それこそ、部品に限らず外観のデザインを専門にやる会社とかもあるし。

今でこそ、日本にもそういう部品メーカーがボチボチありますが
昔はあまりありませんでした。

なんでそういうビジネスの形態の違いができたかというと
自動車の成り立ちからの歴史を持っているか否か
の違いが大きいのではないかと思います。

そもそもの自動車はどんな物だったかというと
やはり車輪が着いていて走るものですから
馬車の技術が用いられていたわけです。

車輪なんかは木でできていて
その外側に鉄の輪っかをはめた物です。

それを木でできたフレーム(車台)に取り付ければ
荷車の形になります。

それぞれの要素は結構異なる作り方だったりするので
それぞれの要素を作る専門の職人がいたり組織があったでしょうね。
車台やさんとか車輪やさんとか。

ちなみに
私の母方の先祖は
城下町の興行師から
大八車(荷車)の車輪職人に職替えしたそうです。
どうでも良い話ですが。

そして、荷車のままではカッコ悪くて
貴族やお姫様には相応しくないので
いわゆる上物(うわもの)を載せるのです。

カッコイイ箱状のボディです。
ついでに御者のシートとか各種の飾りとか。

そうしてできた四輪のカッコイイ馬車を
coach(コーチ)
といいます。

なので、そんなふうに馬車をカッコよく仕立てる職業を
coach builder(コーチ・ビルダー)
と呼びます。
イタリア語では
carrozzeria(カロッツエリア)
です。

もちろんヨーロッパにおいて
カッコイイ自動車を作り始めたのも彼らであって
当初はお客さんの注文に応じて
馬車にカッコイイボディを載せる仕事でしたが

自動車誕生後は
メーカーが作った車体(むしろ車台か)に
特注のボディを載せる仕事になっていくわけです。

現在もそういう会社は残っています。
デザインスタジオとしても有名な
ベルトーネとかピニンファリーナとかイタルデザインなどです。

かの有名なフェラーリも
当初はカロッツエリアとしてのスタートだったのではないかな。

ずいぶん長い前置きになってしまいましたが
そういうスタイルで仕事をすると
カロッツエリアが適切な各要素部品なんかを専門の会社にオーダーして
それらを車体に組み込むことになります。

なので、ブレーキとかショックアブソーバーとかシートとか
専門の会社が腕を競って部品を開発して
カタログ化された自社製品を
売り込むというような構造になるのでしょうね。

日本の場合は特注の自動車と言えば
貨物とか作業用の自動車だったりするので
トラックメーカーから出荷された車体に
箱状の荷室とか各種装置を取り付けたりする
専門の会社があります。
そういう作業を
「架装(かそう)」
といいます。

トラックをよーく見ると
「ナントカボデー」
とかステッカーが貼ってあったりしますが
アレがその会社、架装メーカーです。

今回のお話しの本体はここまでなのですが
書く途中で色々調べて
そこで分かった衝撃的な話があります。
事の次第はこうです。

car(カー)と言う言葉の語源は何だろう?
と調べたら、ラテン語のcarrusからきているということがわかりました。

エレベーターの人が乗る「箱」もcarなのね。

で、豪華な馬車はcarriage(キャリッジ)でいいのだったかな?
とか調べると
四輪の馬車を初めて作ったのはイギリスで
1820年代初頭…意外と新しいな。
それまでは二輪だったわけか。
ほうほう。

あれ?シンデレラのカボチャの馬車はどんなんだっけな?
おお、四輪の馬車だ!
時代考証はどうなってんのかな?
グリム童話は1812年~1815年なのでちょっと怪しい。
四輪の馬車は存在して…
あら、オリジナルにはカボチャの馬車は登場しない?
しかも内容がグロい。

姉たちは王子の持つ靴にサイズを合わせるために
つま先やかかとをナイフで切って…
挙げ句、鳩に目をくりぬかれて
足を切り落とされて…
うーん、読みたくない。

驚きはそれに留まらず
なんと
「おしん」ってシンデレラの翻訳版??
しかも漢字で書くと「お辛」
そんなひどい名前アリなのか?

興味のある方はWikipediaを見て下さい。