そしてこれも足りない

果たして自分は追い詰められた状態でどうするのか?

まぁ、何によって、どのように追い詰められるかにもよるとは思いますが、何かをやっていれば、遅かれ早かれそんな状況「逆境」に遭遇したりします。

そういう状況で力が発揮できれば理想的で、それこそが自らの価値となるわけです。
達成感とかやり甲斐って、そういう所から来るものです。

難なくできてしまうことの方が良いんじゃないの?と思うかもしれませんが、難なくできるということは、それはすでに経験済みで、最初からできると分かっていることだったりして、自らの成長には繋がらないので、達成感とかやり甲斐を感じるほどのことではないでしょう。
スポーツなんかをやっている人なら常識的に分かっていることです。

そんなのは自分以外にもできる人はいっぱいいるでしょうし、やっても面白くもなかったりするし、そのうち飽きます。

その「逆境」を乗り越えるための準備としての経験が、社会に出る前にできていると良いですよね。様々なレベルで何度も。
そうしたら、仕事はより楽しめるはずです。

どんなに希望の会社に入っても、希望の職についても、大なり小なり逆境のようなものはあるわけで、そういうのに遭遇するたびに「これは自分には向いていない」なんて思って転職していたらキリがありません。

好きなことをやってみる、好きなことができそうな環境に身を置いてみる、それがすなわちチャンスの始まりなわけです。
だって、好きなことなら逃げたくないから、困難を乗り越える動機になるでしょう。

そんな環境で、追い詰められた状況を経験している人は強いです。

実は、「追い詰められた状況での経験は大事」というのは、私のお師匠様からの受け売りです。
私も経験上、もっともだと思います。

戦中戦後に頑張っていた先人達の強さというのは、絶体絶命の究極にシリアスな状況で、腹を決めてやるしかないという経験をしているところにあるのだろうな、と思うのです。
そんなのはとても真似できませんが、重要性は理解できます。

でも、好き好んで絶体絶命の状況に突っ込んでいく人は少ないでしょうし、むしろそういう状況にならないようにするために勉強してたりするわけですよね。
けど、チャレンジを続けていたら、遅かれ早かれそんな状況になったりするのですけどね。
で、その時君はどうしたいの?ということです。

たぶんこれが足りない

「こうしたい」と思って、やってみる経験、これは絶対に重要という話です。
特に若いうちにやっておかないと。

外部からの「こうしてほしい」に従う経験は多いのだろうけど、当然ながらそれが続けば「こうしたい」を発動する必要は無くなります。

学校に行って、塾に行って、勉強して、ゲームやって、と色々やっているようだけど、多様性や独自性が無いなら、特に創造性が無いなら、それは「やらされている」ようなもので、「こうしたい」は最小限になりますよね。

その結果、夢が無いなんてことになるのは当然でしょうし、そういった決められていることをやるだけなら、そもそも主体性なんて必要無いわけです。

学校に行っているうちは、決められたことだけをキッチリやっていれば良い評価を得られるでしょう。そして、その後の可能性が大きく開けるようなことが言われます。
でも、そのいわゆる「可能性が開けた」状態で「こうしたい」と思えなければ、それまでの努力はどうなってしまうのでしょう。そうやって手に入れた可能性を十分に活かせるのでしょうか?

学生のうちは「こうしてほしい」に従順に従っていれば済みますし、それに忠実に応えていれば高い評価を得られると思います。
その「こうしてほしい」にはあらかじめ正解があって、それを導き出せれば良いのです。
もちろん、それも能力の一つではあるでしょう。

でも、社会に出てからの「こうしてほしい」には、模範解答が無かったりします。
自らの「こうしたい」をやってみた経験が十分でなければ、そういう場合の「こうしてほしい」を実現するのは大変難しくなると思います。

これは仕事をする上では大問題かもしれませんが、恐らく本人にとっては大した問題にはならないと思います。
「そんなもんだ」と思うでしょうから。

でも、業務としての「こうしてほしい」の本意は伝わらず、言われた当人は「そんなの、どうするか言ってくれないとできない」という噛み合わない状態が延々と続く…といったことになるでしょう。

そうなっちゃった責任は本人には無いのかもしれませんが、誰も責任は取ってくれません。
でも、その状態であり続ける責任は本人にあります。

そうなっちゃってから何とかしようとして、何とかなることもあるでしょうけど、恐らくそれはとても難しいことになります。
だってそれは習慣に組み込まれた価値観の問題で、無意識下での反応になっているから。

これ、仕事を面白くすることができるか否かの大事な要因の一つだと思います。
それは、仕事で成果を出せるか否か、それを継続できるか否か、ということにも直結しますよね。

名古屋で思ったこと

安心・安全で満足いく世の中って、理想なのでしょうけど、どうもそれはそれで危険なのだよなぁ。
最近はそんなことを思っています。

どういうことか説明が必要ですね。

一番簡単なところで言うと、満足いっちゃったら、そこから頑張る必要無いでしょう、ってことなのですよ。
教育を仕事にしているから、そんなことを思うのでしょうけど。

新しいものを作るってのは、現状に対して不満があるってことなんですよね。

それは、理想があって、それと現状のギャップがあって、それを埋めたいという欲求があるってことなのですけど。
そのギャップを埋めたいという気持ちの大きさというか、強さがパッションの大きさになるのでしょうね。
もちろん、それが大きい方が推進力があるわけです。

つまり、不満足な環境の方が、強力な推進力を得やすいということです。

で、この「不満足」というのは、数値化された絶対的なものでは無く、個人がどう思うかって問題なわけです。
なので、各人が自由に決めて良いはず。

ですが、現状はどうでしょう?

どうも自由に決めている人は意外と少なくて、既存の誰かが決めた物差しでものごとを測っているケースが多いのではないでしょうか。
そんなことしちゃうと、結構不満足じゃ無かったりするんですよね。

まぁ、他人と違う物差しを持っていたりすると、怒られたり面倒なことになったりするのでしょう。
で、自然とそうなっちゃうのかなぁ。だとしたら、処世術ってヤツですよね。

こんなに不便が無い世の中なんだから、面倒が無い方が良いよね、ってなったとしても仕方ないのかな。

と、書いてきたのは、単なる個人的な思い込みや勘違いなのかもしれないけど、名古屋に行って色々考えたわけです。特に名古屋ってのは、技術の面で見るとかなり尖っている場所だと思っています。

もちろん、自分が普段いる環境とは色々違います。
町並みも人も。
当然、その「違った人達」は、違ったものを生み出すわけで、違ってるってのは面白いよなぁ、と。

そこそこ安心で安全で満足いっていたら、そこから大きく変えたくは無いでしょうから、それじゃつまんないよなぁ、と。

やっぱり心か?マインドか?
と、そんなことを考えていました。

これからは「変えたくない」っていったところで、世がそれを許さない環境になると思うので、早めに身の振り方を考えてアクションをしておくべきでしょうね。

なので、あちこち行って、色々見たりやったり感じたりすることが重要なのだろうな、と思っています。
立ち止まったらヤバいぞ、と。

今回は名古屋に行けてラッキーでした。