従順か…面白くはなさそうだね

よくよく考えてみれば…

「言われたことをやる」
そういう学生、一昔前は「従順な学生」と言われて重宝されていたはずです。
多くがそれを望んでいたのではないでしょうか。
まぁ、そういう時代でしたからね。

で、今はそうではなくなってしまった。
そんなことやっていたら、AIに仕事を奪われてしまう…みたいな感じになってきましたね。

いや、どうかな。
今でも多くの先生は従順な学生を望んでいるかもしれないし、多くの学生は従順であろうとしている気もしますね。

まぁ、何事にも慣性力みたいなものがあって、いつの間にか前の世代のやり方に何の疑いもなく追従していたりするものですよね。
習慣ってそんなものでしょう。

一般的なビジネスであれば、収益上げないと継続ができないので、そのために競争力とか差別化とか、チャレンジしたりするのでしょうけど…

興味深いことに、学校は逆です。
変えることが怖いみたい。
「そんなことやって、もし見込みと外れたらどうするんだ?うまく行く証拠あんのか?」
というのが常道みたいな感じがありませんか?
これはまぁ、私の思い込みによるイメージであって、実際にそんなことを言われたわけではありませんが。
でも、単なる偏見かもしれませんけど、先生だって親御さんだって言いそうじゃありませんか?

まぁ、夢工房にいる連中の家族からは、そんな意見が出るようには思えませんが。

ここまで書いて思ったのですが、なんだかんだ言いながら、昔から言われてもいないことに夢中になる連中ってのは一定数いたわけで、今になってみれば、そういう連中は今でも楽しそうに仕事をしていたりするわけです。

「見える化」とは言うけれど

開発とかやっていれば、お馴染みのワードですが、学生にはあまり馴染みがないでしょうか。学校ではほとんど聞きません。
だって学校では、答えだけ見えれば良くて、それで正解とか不正解とかやりますものね。

「見える化」ってのは、最終的なものでは無く、過程にあるものを見えるようにするってことです。

そんなわけで、学生はプロセスとか現状を見えるようにアウトプットすることには慣れていません。
ペーパーテストの解答を出すのには必死になりますが、自分や組織が抱える問題を解決する術を持ちません。

そもそも明確な最終アウトプットが出る前のプロセスってのは、曖昧だったり、迷走したりしているわけで、そういう状態は学校では点数にカウントされません。
学生からしてみたら、そんなものは点数にもならないし面倒なので、できればアウトプットしたくないってなもんじゃないでしょうか。

でも、プロセスを見えるようにしなければ、本人だって整理が付かないし、周囲からアドバイスだってできません。
なので、とても大事なことなのです。

頭の中のイメージは抽象的で、実に不明瞭です。それを明確なものだと思い込んでいる場合が多かったりするし、そもそも頭の中で多くのアイデアを比較したり、順番を組み立てたり、優先順位を付けたり、そういったことは難しいでしょう。
なので、それを見えるようにしましょうよ。ということです。
見えるようにしちゃえば、簡単に整理が付いたり、順番や構成を変えたり、そんなことも容易になります。

それに、頭の中で処理できることには限度があるので、それを目に見えるようにアウトプットしてしまえば、それは頭の中にキープしておく必要が無くてスペースが空くから、次のことができるよね、ということでもあります。

あとはこういうこともあります。
頭の中だけで処理して、正解だけをアウトプットする癖が身に付いていると、そもそも多くのアイデアを比較することができないので、自ずと狭く浅い選択肢で何とかしようとします。
なので、良いアイデアを出すことが難しくなります。

というか、良かろうが何だろうが、できるだけ少ない手間でできるもの、いわゆる安直な手段で何とかなりそうなものしか選択できない…と言ったら言いすぎでしょうか。
でもたぶん、そういう傾向になります。

私はそもそも頭の記憶容量が大きい方でもなく、書くことも苦手だったのですが、「見える化」というワードのお陰で、その重要性に気付いてずいぶん助かりました。

思ったことを書くってのは、もちろんそれなりに労力を要するのですが、頭の中だけで何とかしようとして、ダサイものを作り続けて成果が上がらない方が、よほど労力が要ると思いませんか。何よりそんなんじゃ面白くならないのですよ。

動機は大事

今の自分にできていないことでも偉そうに語りますよ。
やはり理想が無いとね。

怒られたくない
余計な労力を払いたくない
傷付きたくない
失敗したくない

とか

褒められたい
楽したい
得したい
儲けたい 

書いていませんが、これらの全ての前に「自分が」と付きます。

そんな気持ちは誰でもあるでしょう。
逆に、そんな気持ちは一切無いなんてのは嘘っぽいかもしれません。
本当に一切無かったら、いわゆる聖人君子ってことなのでしょうけど。

こういった気持ちも行動の動機の一つとしてはアリかとは思います。
が、これらが動機のほとんどを占めていたらどうでしょう?

自分はともかく、相手はどう思うでしょう?
ちょっと視座を変えて、その「相手」になってみて、冒頭のような気持ちで頭がパンパンになっちゃって行動してる人を見ているとしたら…どう思いますか?

まぁ、そんなことは聞くまでも無いですね。「自己中」は嫌われます。
これを「利己的」というのですが、あまり周囲の役には立ちません。
だって、自分のためのことばかり考えているのだから当然です。

では「自己中」ではなくて、「相手のために」が動機だったらどうでしょう?
そういうのを「利他的」と言います。

相手のためになることは、当然ながら相手からしたら価値があるので、感謝されます。たぶん。
価値を手渡したら、価値のお返しが来るかもしれませんね。
これ、仕事の本質というか、社会活動の基本というか、そういうものだと思います。

でも、そういうのを分かっていても、なかなか理想的な動機で実践できなかったりします。

なぜ?
たぶん、相手のために行動したところで、それが回りまわって自分の利益となる確証が無いから。損しちゃうかもしれないから。
そんな風に、自分の欲得ベースで判断していたりします。

欲得100%では、考えるまでもなくうまくいきそうも無いので、利己的と利他的の間の、限りなく利己的に近く、なおかつ相手に受け入れられそうな着地点を探すことになったりします。

そんな状態で、ユラユラフラフラしながら、「どうしたらうまくいくのだろうか?」なんて悩んでみたりします。

私もそんな風に考えていましたからよく分かります。
今でも完全に脱したわけでは無く、修行中です。

その辺は、利他の方に振り切っちゃえばきっと相手は喜ぶでしょう。
難しいでしょうけど。

で、こんな話をすると、まるで奴隷的で自分が無いような捉え方をしちゃうかもしれませんが、それではダメです。

この「利他的」の前提として、「自分の好きなことや、得意なことで」が付かないと、力を発揮できませんし、持続できません。

それと、もうひとつ。
利己的な動機って、諦めるのが簡単なんですよ。
自分だけの問題だから、いつやめてもいい。
すぐやめちゃうものって、大きな価値にはなりませんよね。

継続は、価値を形作る重要な構成要素の一つです。
そこも大事なところです。