ポジティブとネガティブ

性格だから消極的なのは仕方ない
とか
経験とか実績が無いから消極的なのは仕方ない
というように
性格とか経験とか、そういったところに関連付けて
「仕方ない」ということにしたくなったりしませんか?
気持ちは分かります。

でもそんな時に望んでいるものは何でしょう?
どうしたいのでしょうか?

きっと「うまくいくといいな」
と思っているのではないでしょうか?
まぁ、大抵はそうですよね。

じゃぁ、そのためにはどうしたら良いでしょう?

まぁ、色々あるでしょうけど
心構えとしてシンプルなのは…

積極的であること

その結果としては色々起きるでしょうけど
これは絶対です。

バットは振らなきゃ当たりません。

積極的な気持ちでバットを振り続けていれば
いつか必ず当たります。

フォアボールやデッドボールが良いのだ
というなら話は別ですが。

ちなみに英語では
積極的なことをポジティブと言います
消極的なことはネガティブです。

思考により結果は決まるわけで
「うまくいくといいな」
と思うなら
そのための心構えはシンプルなのです。

え?ビギナーなのに空振りしたくない?
それは非現実的ですね。

価値の本質 その3

人の価値とか、ものの価値については色々考えます。

だって
「ものをつくる人」をつくる
それが仕事だから。

でも、人の心は外部から手を入れて、ものを作るようにこねくり回せないので
偉そうに「つくる」とか言ったところで
直接的にどうこうできるわけではないのが難しいところですけどね。

大学で学ぶのは、社会に出た後に仕事をするため。

とはいえ
仕事って何だ?
ってのが大事なところで
どうせなら良い仕事ができるようになって欲しいですね。

となると、「良い仕事」って何だ?ということになるのですが

それは、高度な知識や技術やスキルを使って
高い価値を持った成果を作る…

と言いたいところですが
実は大事なのは、その成果の働きによって何が起きれば良いのか
というところで

それは
どれだけ相手の心を動かせるか
というところに尽きるのだと思います。

相手の心が、どのくらい
多く、大きく、長く動くか

価値の大きさは、それで決まります。

近年、「ユーザー体験」という言葉を使うようになったのは
まぁそういうことなのでしょうね。

どんなに高度な知識や技術やスキルを使っても
人の心が動かなければ
作り手の自己満足に過ぎません。

立派な手段を使っても
高い価値を生み出せるとは限らない
ってことですね。

学校では、この手段とか、目的とかの関係は明確にしません。
手段を得ることが目的化されているからでしょうね。

ややこしいですか?
そうですね。

ものづくり教育はどこへ?

我が国では、20年ちょっと前に、ものづくり教育が盛んになりました。
それ以前は「ものづくり」というワード自体、あまり耳にすることが無かった気がします。
なので、急にそんなことを言い出したことに違和感を感じた覚えがあります。

恐らく当時、日本のお家芸たる「ものづくり」が衰退する兆しが見えたのでしょうね。
で、これは何とかせねば!ということだったのでしょう。
日本のチームがFormula SAEに出場し始めたのもその頃です。

そして今はどうなっているでしょう?

PC上でのデジタルモデリングや、3Dプリンティングなどの手早く造形が可能な、いわゆるラピッドモデリングの技術は確実に進んでいると思います。

今やアマチュアでもデジタルの3Dモデリングをしますし、そのデータを元に3Dプリンターで造形できますものね。
学校によっては、そういうのを授業に取り入れたりもしているでしょう。

反面、工作機械を使ってゴリゴリ加工するようなシーンは、かなり減った気がします。
それはちょっと寂しいかな。

まぁ、そんなこんなありながら、教育としてのものづくりは、正直なところ全体的には衰退していると思います。
学校には、プロとしてものを作った経験がある人が少ないので、まぁしょうがないかな、という気もします。
しょうがないじゃ済まないのだけど。

それよりも問題だと思うのは…
学校って、知識とかスキルとかの上流にあるべき思想とかが欠落してるんですよね。
別に難しいことじゃなくて、何のために作るかって部分がすっぽり抜け落ちてるのです。

「何のために?」が決まらなければ、「どうしたら良いか」「どうすべきか」は決まらないはずで、それが決まらなければ、どういう知識やスキルを適用すべきかは決まらないはずです。
で、学校で教えているのは、知識とかスキルなので、そういったことを知っているけど、使い道が分からないということになります。

ちょっと分かりにくいですかね。

誰をどのくらい喜ばせるためにとか、何のために、どんなものを作るかを考えると、品質やら性能やら製造方法やら、どうやって何を作るかが決まるわけです。

ゴールを決めたら、それに準じた手段を決める、といったようなことです。

そういうの、学校じゃ教えないのですよね。
手段たる知識・技術しか教えません。

言われたことをやるだけの人を教育するならそれで良いのでしょうけど、それでいて「主体性が」とか「自主性が」とか言うのはおかしいです。

主体性とか自主異性とか、ついでに言うなら、批判的思考だってコミュニケーション能力だって、目的があって初めて必要となることです。
「黙って授業聞いとけ」というやり方では全く必要無いことです。

まして、知識を覚えれば点数がもらえるのに、なんでそんな余計な能力を磨く労力を払わなければならんのよ?ってなところでしょうね。

まぁその辺が、社会のニーズと学校での学びの内容の食い違いが生じている原因なのでしょうけど、なかなか埋まらないでしょうね。

というわけで、長い前置きになりましたが、やはり目的を明確化したものづくりの経験ってのは超重要で、コンペティションなんかはうってつけなのですよ。

我が国は今後、より付加価値の高いものづくりにシフトしていく必要があるわけでしょう?
だったら色々やらないとね。