運のお話し その1

ツイているとかツイていないとかありますが、運の善し悪しについては、自分で何とかなる部分が大きいと思っています。
そして、運とはクジみたいに当たるとか当たらないとかのようなものでは無いとも思っています。

運が働く対象となるもの…言うなればチャンスですかね。
チャンスとは一体何かというと、価値のタネみたいなものだと思って良いでしょう。
そのままでは価値は無いけど、それをハンドリングして価値に変えることができるようなもの。
コイツとの関係がどうなっているかがカギです。

まず
チャンスが巡ってくるのか
チャンスをチャンスとして認識できるか
というのが最初の入り口ではないかな。

利己的だったり、失敗を回避することが最優先になっていると、チャンスがチャンスに見えなかったり、そもそもそんなものに遭遇できなかったりします。

というのも、チャンスは自然現象では無く、人によってハンドリングされていて、自分に放ってくれる相手がいるからです。

果たして、自分が得することばかり考えている者にチャンスを放るでしょうか?
「コイツにこんなことをやらせたら面白いことが起きるのではなかろうか」
という期待がチャンスを放らせるのです。

もちろんこの場合の「面白いことが起きる」は、チャンスを受け取った者以外に対してです。
要は、他に対して価値を提供してくれるだろう、という期待です。

ただし、親など家族は別です。
無条件で価値そのものをチャンスとして提供できるのは家族くらいでしょう。
それを他人に求めるのはおかしいです。

そして、リスクを回避して自分が得することを考えていると、どう考えても得するような安直な見た目を持ったものしかチャンスとして認識できないでしょう。
そんなものは滅多にありません。
上述の親からもらえるものくらいかな。

大抵は、一見手強そうなものの陰にチャンスが隠れています。
チャンスは困難という手段を使って自分を成長させてくれます。
だからこそチャンスで、だからこそ価値があるのです。

つまり、利己的で、ノーリスクを求めていて、安直なものが欲しいなら、チャンスはチャンスに見えません。

なので
「自分のところにはチャンスが来ない。自分は運が無い(悪い)」
と思うでしょうね。

対して
「来た球は全部打つ!!」
みたいなやり方をしていると、経験値が増えてチャンスから価値を生み出せるようになります。

それに、チャンスに対するチャレンジは全てがうまく行く保証は無いので、経験知、つまりチャレンジの母数が増えれば、うまくいく経験の数も増えることになります。

それらがちょっとずつ増えていくと、その経験を使って加速度的にパフォーマンスが向上します。
「一を聞いて十を知る」みたいな感じです。
ものごとの本質は共通していることが多いですから。

そんな経験をしていると、一般的にはチャンスに見えないようなことでも、チャンスと認識したり、チャンスに変えていったりできるわけです。

そんな風に考えてみると、運が良くなりたいなら
「四の五の言ってないで、片っ端からやってみたらいいじゃん」
ってことになるのですよ。

続く

なぜ失敗を恐れる 4

なぜ失敗を恐れるかってぇと、そりゃぁ過去の経験からの学習でしょう。
経験による判断ですよね。

好きなことをやってうまくいかなければ、そりゃガッカリもするでしょうけど、好きなことは何とかしたいわけで、それを恐れて避けるというのとはちょっと違うかな。

やはり他からの反応ですよね。

やりたいことをやってみた結果
指示されたことをやった結果
その両方のケースがあると思いますが、その結果に対して怒られたり文句言われたりの外的要因からくるもの。

で、当然ながら怒られないやり方を模索していくわけで。
失敗しない可能性の高さを追求していくと、チャレンジしないことにたどり着きます。
ノートライ・ノーエラーってヤツです。

しかし、変態の馬鹿野郎は怒られてもやめないのですよ。

新しい経験を手に入れて、その結果が意にそぐわないことであった場合、それをどのように受け止めるかが重要なのです。
果たしてその先のチャレンジに役立つ一つの経験として受け入れることができるか否か。

これは、ものごとを考える時間軸をどのくらいの長さで考えるかが効いてくるのではなかろうかと思うのです。

短い時間軸で、「今」を重視するのであれば、失敗して怒られるなんてのは、まさにネガティブな経験でしょう。
短期的にネガティブな刺激を避けたいという価値観だとノートライ・ノーエラーは理想的なのかもしれません。
恐らく本人は損しているなんて感じていなくて、むしろ得しているとすら思っているかもしれません。
もしくは、そういった自己評価を一切していないか。
それもありがちかもしれません。

さて、失敗を避けてチャレンジしないようになるのは、外的要因によるものだと思うわけですが、難しいのは学校教育を受けているときは、外部からの指示に従って行動するというのが基本になっているわけで、そういう状況ではむやみにチャレンジできません。

では、社会に出たらどうか。
業種や職種によって異なるものの、開発の仕事をしたりするのであれば、仕事の過程において試行錯誤、つまりチャレンジを避けられない場合が多々あります。

というか、私は開発という仕事はリスクを取ってチャレンジするものだと思っていますが。
だって、新しいものを作るなんてのは、やったことがないことをやるのだからまさにチャレンジでしょう?

で、そういった仕事に就いたら突然チャレンジできるようになるのかというと…
なるわけありません。

成長の過程において、学校でどのような教育を受けたか、どのような家庭環境だったか、その辺に原因があろうとなかろうと、誰も責任を取れません。

とまぁ、色々考えておくと、学生のうちにチャレンジしておくというのは、極めて重要なことなのだよなぁ、と思うのです。
後からはどうにもなりませんから。

ただね、若いうちにチャレンジしまくると価値観が変わるというか、人生の基準が変わってしまうので、いわゆる普通のことが全く面白くなくなったりするかもしれません。
人はそれを「面白い人生」と呼ぶのですが。

なぜ失敗を恐れる 3

政治家とか芸能界のスキャンダルが世を賑わせたりしていますね。
詳細は知りません。
そんなニュース、あまり興味が無いので。
だって、今やってることの役に立たないし、時間の無駄ですから。

でも、気になるのは、そういうスキャンダル系のニュースって、当事者はいわゆる「吊し上げ」状態になるわけですよね。
まぁ、それなりのことをやっているのだから仕方ないのかもしれませんが、そういう情報に触れると心が守りに入っちゃいませんか?
そうならないなら良いですけどね。

そういうニュースは、「良くないこと」つまり「失敗」をネタにして吊し上げるわけですが、その報道によって、見ている側がより失敗を恐れて無難なことをするようになるのではないかな?というのが気になるところ。

無難なら結構なことじゃないか
と思うかもしれません。

でも、成長過程の若者だけに限らず、皆が無難を追求して守りに入ってしまったら、実につまらない世の中になります。

一応言っておきますが、悪いことは悪いわけで、行為自体を正当化するつもりはありません。
気持ちが萎縮してしまうことを懸念しているのです。

失敗しないことが成功じゃ無いので、いくら無難なことを積み重ねても、成功しないし面白くならないのですよ。

夢工房で学生達が作るレーシングカーなんかを例に取ると分かりやすいですよ。

とにかく壊れない無難なものを作ろう!
とかやっちゃうとするでしょう。
最初はそういうのをやりがちだと思いますが。

それ、何回繰り返したら勝てるクルマになるのでしょう?
なるわけありませんよね。

性能面だけでなく、気持ちの面も重要です。

守りに入った無難なところからスタートするのは、そうしたい気持ちがあるからです。

守る気持ちは、どれだけ強化したら攻める気持ちに変わるのでしょう?

そうなっちゃう理由はともかく…
そう、「ともかく」です。
原因は大事なのかもしれないけど、それが何であれという話だから。

勝つためのクルマを作るのは、それに必要なマインドがセットされていないと無理なのです。
そこに向かうわけ無いから。
方向が違うのです。
「無難」の先に「勝利」があるわけではない。
それらは同じ軸線上に乗っていないのです。

学校にいると勘違いしがちだと思います。
「できるコ」は「良い子」でしょう?
周囲の手を煩わせないという前提の先に「できる」があったりしますから。

でも、凄いことを思い付いて実行するヤツは、変態の馬鹿野郎だったりするわけですよ。

失敗を恐れずリスクを取って突き進む

勇気が必要です。パワーとスピードも。
親や先生からは嫌われそうですねぇ。

勇気とパワーとスピードを兼ね備えた変態の馬鹿野郎、手に負えませんもの。

ま、キミは何が欲しいんだい?って話なんですけどね。
おっと、キミの正義は何なんだい?ってのも大事ですよ。