因果関係の話

「因果」とかいうと、どうも仏教関係の用語っぽいですね。
因果応報とか言いますから。

因果応報とは
過去および前世の行為の善悪に応じて現在の幸・不幸の果報があり、現在の行為に応じて未来の果報が生ずること。
ですって。

今回言いたいのは「前世」ではなく、単に「過去」です。
原因と結果の話です。

現状は、過去の思考とか行為によってつくられています。
当然です。

この過去のものが「原因」です。
それによって現状、つまり「結果」が決まります。
原因を変えたら結果が変わります。
当然です。

なので、現状に満足いっていなければ、原因を変えれば良いのです。
タイムマシンに乗って過去には行けないので、今現在の考え方ややり方を変えれば、未来は変わります。
あら簡単。

しかしながら、我々人間は、大変皮肉な特性を持っています。
「変化を嫌う」という。

これは大変厄介です。

何が厄介かというと、変化を嫌うのは本能的で無意識下で発動しているということです。
なので、変化を嫌っている自分を感知できなかったりします。

困りましたね。
でも、無意識なら分からなくても仕方ないのですよ。
「無意識なのか。へー」くらいにしておきましょう。

しかし、変化はキツイです。
今までの習慣と異なることを意識的にやる必要があるので面倒だし、今までと違うことをやって、必ずうまく行く保証は無いので、これはチャレンジです。
ダメかもしれないけどやる
というリスクを取る勇気とか労力が必要です。

でも、やってみたら良いと思います。
で、未来がどのように変わるか確認してみたら良いと思います。
そして、それを楽しめたら最高でですね。

ものごとは受け止め方次第なので、仮にうまく行かなくても、それは新たな経験とか知識を得たわけで、そりゃ結構なことじゃないですか。

と、こんなことを考えていると、「未来は自分でつくれる」というのが理解できると思います。
そういうことをあまり考えなければ、「こうなっちゃった」みたいな「出来なり」になってしまうのですけどね。

人は意外と自身に対する「コントロール権」を行使していなかったりするのですよ。
そういうのを楽しめたら良いですね。

試行錯誤できてるかい?

最近めっきり聞かなくなった気がしますが、試行錯誤という言葉がありますね。
いわゆるトライ・アンド・エラーです。

想像したり仮定したりして試してみて、その結果で評価・判断して、次のトライに繋げていき、ゴールに到達するといったような、プロセスを表す言葉です。

学校の学習では、正しい答えを求めるものであって、あまり試行錯誤を要するものではありません。
トライ・アンド・エラーの「エラー」はダメなことです。
正解のみが評価されるので、プロセスは関係ありませんから。

でも、プロセスは考え方なわけで、そうなってくると考え方を構築できないってことになっちゃいますね。

トライ・アンド・エラーができない環境で過ごしていれば、「正解は何か?」という考え方になるわけで、そうなって当然です。
最適化とか、現状ベストとか、開発する上で必須の考え方も身に付けるのは難しいでしょうね。
そして当然ながら答えが出ればOKなので、改善といった概念は不要です。

むしろ、正解を出せばOKな世界なら、最適化とか改善とか、そんな面倒なことをやりたいとは思えないでしょう。

そんな事を考えていると、夢工房の環境は貴重だよなぁ、なんて思うのです。
実績で考えるなら、まだまだ改善の余地はあるのですけどね。
そう、環境自体を試行錯誤しながら改善する日々。
これを止めないことが大事なのです。

能力ありきではないのです

よく勘違いされがちなのは、能力によって何ができるか、何をすべきかが決まると思われがちです。

でもこれは間違い。
特に学生のような成長段階の場合ですが。

というのも、成長段階での能力なんてたかがしれているわけですよ。
学生同士で比較して、高いだの低いだの言ったところで、学生という枠を外して見てみると、誤差みたいな違いだったりします。
もちろんそうでないこともありますけどね。

さらに勘違いされがちなのは、基礎学力と呼ばれる知識が能力であるという誤解。
能力ってのは実行する力ですから、知っていることではありません。

知っていることも大事ですが、実行する上で知識が足りなければ知れば良いだけです。

知っているなら実行できるだろう、と思われがちですが、そうでもありません。
そもそも、基礎学力・知識を実行してみろ、と言われても、一体何をしたら良いものやら。

さてさて、「能力があるからやる(あるならやる)」というのは一見説得力がありそうです。
ですが、その能力が身に付くまではどうするのですか?
能力が身に付くまでは「できない状態」なのですよね。
では、一生できないままではないですか。
この理屈は破綻している気がします。

何ができるようになるかは、何をしたいかによって決まるのです。
当たり前でしょう。

それによって、必要なことが明らかになり、その行動に自らのリソースをどれだけ投入するかによって、何ができるようになるかが確定する。

ありたい姿、目標によって行動が決まり、その結果能力が手に入る
ってことですね。

結局「思い」が大事で、どれだけ行動が伴うかってところなのでしょうね。
言うのは簡単ですが、実にシンプルなことです。
シンプルなだけに難しかったりもします。