唯物主義の影響か?
学力偏重の影響か?
理由は良く分からりませんが
最近はコミュニケーション能力が云々など良く耳にしますね。
まぁ、言ったり聞いたり(と、その理解など)
という能力ということですが
そういうのは経験しないとレベルは上がりませんよね。
そういう私も大したことはなくて
まだまだ経験が足りないと自覚しているのですが
そんな私でも気付けることがありましたのでネタにします。
コミュニケーションを構成する
「言う」方のアウトプットは
「良く考えた末の結論を伝える」
そんなものだ
というふうになってきている気がします。
というか
一般的にはそれが当然と思われているかもしれませんし
あながち間違いではないのでしょうが
どうやらそこが落とし穴ではないかと思うのです。
皆さん、子供の頃に言われませんでしたか?
「良く考えてから言いなさい!」って。
私は比較的、考え無しに行動するタイプだったので
恐らく結構な頻度で色んな人にそういうことを言われたはずです。
世代が世代なので、それが原因で
しょっちゅう親や先生に殴られていた気もします。
あまり覚えてはいませんが。
それは、嫌なことはすぐ忘れるたちだからとか
単に脳ミソのメモリーリソースが貧困なことが理由なのであって
決してパンチドランカーではないと信じています。
さて
おかしなことを言わないように
(おかしなことを言って失敗しないように)
前もって良く考えなさい
ってことですが
それをやっちゃうと
どういうことになるかというと
アウトプットは
「良く考えた末の正解に限る」
みたいなことになっちゃって
正解じゃないことは言えなくなるので
「正解」に拘ればこだわるほど
アウトプットの質を磨く機会が減少して
うまくいかなくなる
なんてことにもなりかねません。
で、ここからが大事なのですが
深刻だと思うのは
考える以前の
「思い」
なんてそもそも口に出せなくなるわけです。
これは大問題です。
ヘタをすると
「思い」自体が意識の底の方へ押しやられて
表へ出てこられなくなりはしないでしょうか。
そうなってしまうと
「今の思いを言って欲しい」
と言われても、何も出てこない
なんてことにはなりはしないでしょうか。
「思い」を聞きたいのに
「考え」を答えようとしたりして
そうなったらもちろん
正解を考えつかなければ何も言えない
そうなってしまったら
コミュニケーションもへったくれもありません。
最近では「思い」よりも
理論とか考えとか
定型的なものを重視するように
なっているのだと思うのですが
そもそも定型的なものは
「思い」を実現するためにあるのだと思うわけで
「思い」も無いのに定型的なものを構築していくなんてのは
まさに本末転倒なのではないでしょうか。
「思い」には正解も不正解も無いから
失敗したり不都合なことも
時には起きるでしょうけど
そういう経験こそが自身を磨くチャンスなわけで
それに
自分の思いを伝えられないということになったら…
人は一人では生きていけないし
人は理屈だけでは動きませんから
他者と協力して仕事をするなんてのは難しくなるでしょうし
一体何のために何をすればいいのか分からなくなるでしょう。
「思い」をアウトプットする
最初は難しいかもしれなくて
勇気が要るかもしれません。
でも、それをやらなければ何も叶いません。