感性と価値観

ものを作るとき
知識とかスキルとかは
その出来映えに大きな影響をもたらすのは当然ですが
「感性」とか「センス」を忘れてはいけません。
これらはオマケではないのです。

そもそも「感性」とは何か?
ものごとを感じ取るセンシング能力ですね。

経験に基づく基準があって
それに対してセンシングしている対象の位置付けを評価する能力
というところまで含んでいる場合もあるでしょう。

そもそもセンシングするだけなら
経験に基づく基準は要らないのかもしれなくて
対象に興味を持てるか否かが大事なのだろうな。
とも思いました。

興味の無いものはセンシングの対象にならないし
評価もできないでしょうから
単にセンシングしているだけじゃ
それは感性とは呼べないでしょうね。

いわゆる「センス」は、ほぼ同じ意味ですが
「センス」は表現されるアウトプットの結果まで含むこともありますね。
なので、センスが良いとか悪いとかいう話になる。

さてさて
感性が評価する基準は
「価値観」ということになるでしょう。

これに基づいてセンシングの対象を
選別したり評価したりしているはず。
当然、興味のないことは対象にならない。

ものづくりに重要な感性を磨くには
当然ながら経験の数とか質が大事になってきます。
五感を使って実際に「やる」ということです。

これは感覚的なことだから
そもそも言葉や文字にして伝えるのは難しくて
定義すること自体が難しい。
もちろん授業では伝えられない
やらないと分からない世界。

もちろん若い方が感性は豊かで敏感なので
始めるのは早い方が良い。

年齢を重ねてから感性を磨くのは…
絶対に無理ではないだろうけど難しい。

特に手を使ってものを作っていくことは
癖が影響するだろうから。

癖は無意識に発動するフィルターだったりもするから
癖が付いてしまってからでは見えなくなるし、分からなくなる。

品質とか美しさは今の授業では学べません。
それを達成するため必要な考え方とか
努力のしかたも分からないでしょう。

下地が無いままで社会に出て
時を逸した後に学んでも限界があるだろうから
大学を出てからでは、色んな意味で無理があるでしょうね。
価値観が固まってしまってからでは遅いのです。

何とかしないとね。

何か変だが何とかしましょう

学校という組織における環境と
実社会という環境は
あまりに違いすぎます。

もちろん目的が違うのだから
環境が違うことは当然ではあるのだけど
それにしても、あまりに違いすぎる。

工科系の大学と
エンジニアリングをする会社組織を考えてみると
学校と会社という
目的が違う組織ではあるのだけど
向いている方向は一緒であるべきではないのかな?

やっていることや考えていることは
あまりに違いすぎて
とても同一線上にあって
繋がっていくようには思えない。

もちろんそこにある価値観から違っているから
やること考えることが違ってくるのだろうけど。

価値観が違いすぎていて
共有できるものがほとんど無い。

これで良いのだろうか?

…ダメなんだろうな。

学校では
言われたことをやるトレーニングをして
知識を重視して、人間性というか人間力は軽視して
現物から離れて紙の上、机の上の理論に終始する
そんな方向に突き進んでいるわけですが
これで実社会に出て何とかなるわけないでしょう。

でも、みんながそれを望んでいます。
親も先生も、恐らく政府も。
ひょっとしたら学生本人も。

「勉強できればいいんだ」
「それで大丈夫なんだ」
って信じている。

望んでいないのは
学生達を受け入れる企業だけかもしれません。

なんか変な構図になっていませんか?

でも夢工房はエンジニアリングにおける
恒久的な何かを模索しながら
本質にこだわって行きたいと思っています。

こんな状況も
見ようによっては大きなチャンスなわけで。

色々チャレンジする中から
「こうするといいんだよ」
というヒントが見出せる…といいな。

仕事の本質 2

何度も記事にしているネタですが
大事なことだから思うたびに記事にします。
毎回、ちょっとした気付きを加えて
ブラッシュアップしているつもりです。

さて
相手のことを考えられない人っていますよね。
私も人のことは言えないのかもしれませんが(笑)
でも言います。
そういう人、大抵は良い仕事はできません。

だって、仕事は相手のためにやるのだから。

「良い仕事」とは価値のある仕事ですが
「何を」「いつまでに」「どのように」やるか
など、いわゆる5W1Hで考えれば分かりやすいでしょうね。
5W1Hに入っていない「何のために」が最重要だったりしますが。

多くの人は、仕事は自分のためにやるものだと思っている。
たぶん8割くらいはそう思っているのではないかな。
「自分が食うために(仕方なく)やる」って。
「自分が儲けるためにやる」って。
私もそう思っていた頃がありました。

でも、良く考えてみて下さい。

他人が自分のためにやってくれた仕事は嬉しいでしょう?

対価は、それに対するお返しです。

それが理解できれば
良い仕事をするにはどうすべきかは明かでしょう。

自分のために自分一人でやっていきたいなら
石器時代に逆戻りです。

いや、石器時代だって相手(仲間)のために仕事をしていたはず。
狩りをしたり石斧を作ったり
それらは誰でもができることではなかったでしょうから
得意な人が皆のためにやっていたはずです。

なぜ仲間のためにやるかというと
最初は単に、仕事の効率を上げることによって
集団の生存の確率を向上させるためだったり
そんな理由でしょうけど。

こんな例があります。
日本の場合は鏃(やじり)に黒曜石を使うケースが多かったようですが
この黒曜石は日本ならどこでも手に入るわけではありません。
ほんの一部の地域です。
海を渡った離島だったりもします。
でも、それが日本中から出土しています。
翡翠の勾玉なんかも同様ですね。

これらは、かなりの労力を掛けて
相手が必要とするものを入手して運ぶわけで
まさに相手のためですね。
だからこそ
そこで価値のある取り引きが成立して
双方の暮らしが向上していたのでしょう。

仕事の本質に迫る言葉としては
近江商人の「三方良し」などがありますね。
稲盛和夫さんの説いていた「利他の精神」も同様です。

民度がどうとか言われることがありますが
それはまさに相手のことを考えた行動が取れるか
道徳観を持っているかどうか
ということでもあるでしょう。

民度が低いところでは
仕事や経済は持続的に回らなくなって
いずれは崩れていくでしょう。

そういう意味では
学力が高ければ良いのだという
今の教育の在り方は非常に心配ではあります。

まぁ、そのやり方で長年やってきて
現状と今後の方向性を考えると
十中八九ダメな気がしますけど。

何が相手のためになるのだ?
というのがそもそも難しい問題だったりするのですが
そこに技術とかスキルとかを結びつけて
価値を生み出していく
それこそがアイデアの本質なのかもしれません。

この先どうしたら良いか?
答えが見えていでも
今の進行方向から外れるのは勇気が要ります。

それが正解かどうかが分からないから。

正解かどうか分からないことをやると怒られる社会で
チャレンジしろといっても、そりゃ難しいでしょうね。

せめて夢工房では
自分以外のために勇気を持ってチャレンジできる
そんな学生を育てたいものです。

そこで生まれた価値は
巡り巡って自分に返ってくるのですから
最終的には皆がハッピーになれるはず。