実践の重要性

「知ってる」と「できる」は違うよ
というのは強く言いたいところです。
学生達には本当に理解して欲しいところ。
だけど、その本質を知る機会は学校の授業にはほとんどありません。

工業系の学校であれば、授業で、応力計算とか、図面を描くとか、実習で加工するとかがあります。
それらができれば「できる」となるのか。

全く違います。

例えばね、自動車教習所に行くとしましょうか。
で、学科が完璧だったら、それは上手に自動車の運転ができるかというと、決してそんなことはないですね。

なので、実技もあります。
実技が上手にできたら、公道で上手に運転できるでしょうか?
そんなことはありません。
例え路上教習を終えたとしても、実践的な運転のレベルにはほど遠いですよね。

初心者のうちは、操作に意識が集中して考えながらじゃないと操縦できないので、キャパシティがいっぱいいっぱいになっで、気付かないことがあったり、できないことがあったりします。

運転に慣れてくると、操作に意識を使わなくても自然とできるようになります。
その領域になって初めて見えるものとか気付くこと、できることがあります。

まぁ、自動車教習所は、学科と実技と両方あるからまだマシなのですけどね。

では、違う例えを。

空手を通信教育で習ったとしたらどうでしょう?
そんなもん無いとは思いますが。

「型」は、そこそこできるようになるのかな?
でも、それで戦えるかと言ったら、そんなの無理に決まってますよね。

話を戻しましょう。
学校の授業をうまくこなしても、実践的な能力は身に付きません。
誤解の無いように言っておきますが、基本的な知識は大事です。
もちろん色々知っていた方が良いです。

でも、基礎は実際に使うためにあるわけで、実際に使う場合は必ず目的があります。
基礎は目的のためにあるのです。
基礎をつくると目的ができるわけではありません。
目的も無いのに、むやみに基礎を収集していたら、時間がいくらあっても足りません。

エンジニアリングの勉強をするのであれば、目的は「良い製品」をつくることだったりします。
この場合の「良い」とは、お客さんの満足度とか、それによる収益とかだったりします。

であれば、どうやったらお客さんは喜ぶのか?とか、どうやったらコストを削減できるのか?なんてことが重要です。

ということは、品質と性能はもちろん、加工に要する手間とか、それこそ価値の本質は何かとか、マーケティングの知識とか、そういったことが重要です。

そんな細々したものを、いちいち習っていたら時間がいくらあっても足りない?
そうかもしれません。
いちいちやっていたら、教える方も大変かもしれないし、何より、こういうのは聞いて覚えるだけでは不十分で、実際にやってみないとモノにならんのですよ。
空手の通信教育みたいになっちゃいます。

で、上にズラズラ描いた書いたうち、下の方のお客さんに近いところは、こういった分野を学びたいと思った者達の本来望むところなわけで、言ってみればゴールに近いところなわけです。

だったら、早期にゴールに近いところをやってみるのが良いわけです。
もちろんうまくいかないことばかりでしょうけど、魅力あるゴールなら、なぜうまくいかないのかを考えて、工夫する必要性を実感できるでしょう。

なので、何に使うか分からない基礎知識をやる暇があったら、まずは実践的な経験をさせてしまって、知識の重要性を実感したり、自分のゴール到達の道のりを定めることができるようにすべきだと思うのです。

その辺が夢工房の使命の一つなわけです。

ゼロヒャク思考…で良いのか

ゼロヒャク思考見たいな二元論で考えていると、メンタル疾患になりやすいのだそうです。
それはそうだろう。 

世の中の事なんて、大抵はきっちりゼロとかヒャクとかなっていないから。
なので、そのどちらかにしたいなんて希望は叶いません。

学校の教育は、「正解」か「不正解」かで評価します。「できた」か「できない」かです。。
なので当然「正解」を求めるわけで、100点は「完璧」です。

こんなことが生活の中心になれば、当然ながらその他のこともこの価値観に引っ張られるでしょう。
ものごとは「正解」か「不正解」かだ!みたいに。
もちろんそれは、無意識下で。

正解を追求するのは立派なことかもしれませんが、世の中に完璧なものなんて無いと言い切っても良いほど存在しません。

成長においても同様で、ゼロの状態から一気にヒャクにはなりません。
ちょっとずつの変化を繰り返して、徐々に成長していきます。

ゼロヒャク思考でいくと、毎日徐々に成長していても、「まだ完璧じゃない」が繰り返されます。
やってもやってもまだ完璧にはなれない。

そして、その不十分なところにフォーカスし続けていると、「できない感」が習慣として定着してしまう。
それによって「どうせ…」となってしまうこともあります。

ところが、やる気があって頑張る者の心にも影響が及んでいることがあります。

何かをやるときに、ゼロの状態からいきなりヒャクを目指すなんてのがありがちな話です。
当然、そんな方法は思い付かないので考えるわけですが、考えたって無理なものは無理なわけで、どこまでも考えて考えて…時間切れとなりがち。
それによって「やる」経験をすることができずに、知識も経験も得られない。
当然自信も身に付かないので、次のゴール設定は「最低限」を狙うようになったりします。

それを何とかするために、あまり高いところを狙わずに、基本的なことをコツコツと…?

惜しい!

ゴールは高い方が良いのです。
じゃないと、そもそもモチベーションが上がらない。

問題は、その高いゴールに達成するために、まずやることは何か?というところまでのブレークダウンができないことです。

そのために必要なのは、想像力とか経験とか、やはりチャレンジする勇気だったりします。

よく「小さな成功体験を」とか言いますが、いつまでも小さい事ばかりやりなさいということではありません。
デッカイゴールのために、小さい成功からスタートして、継続しましょうよ、ってことです。
やめなければ失敗ではありません。
続けられるようにする工夫も大事ですね。

効率を上げるなら「単能」だが、ジェネラリストも必要だ

我々日本人は色々できなければならない。
なので、効率は低い。というか効率を上げにくい。

なので先進各国の中でも生産性が低い、ということになるのでしょうね。

ただ、その反面メリットもある。
色々分かったりできたりする…こともある。ということ。

ただ、これは難しいことでもある。
色々やって、多くをそれなりのレベルにするというのは大変だから。

生産性を向上したいなら、単能にすれば良い。
何かに特化すれば効率を上げやすい。

指示された少ないことを徹底的にやれば効率を上げることができる。
能力が低い者でも単能でやれば、その分野では能力が向上して効率を上げられる。

と、少々聞こえの悪い表現をしてしまったけど、こんな言い方もできる。

何かに集中して特化すれば、当然ながらリソースを集中して成果を上げやすくなる。
その結果、スペシャリストとして成果を出せる可能性も高まる。

欧米諸国は、社会が二極化していて、その割りに生産性が高いというのもこういうことが理由でしょう。

つまり、能力が高かろうが低かろうが、単能化して何かに特化することによって、効率を向上して成果を上げられるということ。

多岐に渡る分野それぞれのスペシャリストが集まって力を合わせることができれば、全体的な生産性を向上できる。
となれば、それらをまとめ上げるジェネラリストが必要になりますね。

そしてこれは、すでに問題化しているとも聞きます。
今までは、スペシャリスト上がりの有能な人が全体の取りまとめをするようなやり方で来たのだけど、これからはそれではうまくいかない気がします。

だって、ジェネラリストを育成するような教育はされていないから。
日本の教育って、上の学校に上がって行くにしたがって、どんどん細分化して専門化していきます。
そんな環境で成長したら、細かい物しか見られない、小さな事しか考えられない、ってことになります。

よって今後は、ジェネラリストをどのように育成するかが重要になりそうです。

今うまくいっていないのは、各分野が細分化して、より狭く深くなっているとか、現場・現実・現物から離れているとか、若い頃から限定された領域で成長するからとか、色んな理由があるでしょう。

さて、どうしましょうか?

こういうのって、これといった正解は無いとは思いますが、とりあえず「知っているだけの人」ではダメです。
現場・現実・現物を知らなかったりして、相手の心を動かせないから。

やはり手を使ってモノを触りながら、実体験を積んで成長する必要があるのではないでしょうか。それがチームで経験できればベストです。

モノに関わる仕事であれば、本質はモノの中にしか無いわけで、理屈よりも実体、要素よりも全体を捉えることができる教育が必要かと思います。
チームで何かを作り上げる経験も欠かせません。

そして、成長中は暗中模索なので色々試す必要があるわけで、その時期の効率は悪い。
というか、効率の良い学びなんてのは、最低限で安全な領域しか知ることができないので、ある程度悪い方が良いはずなのですけどね。

チームを取りまとめるジェネラリストは、労力も能力も必要だし責任はあるしで、なかなかタフな仕事ですが、最もダイナミックで満足感を得られる仕事でもあります。
そういったことを学生のうちから経験できたら最高でしょうね。