心の時代がやってくる 3

適切なゴールを設定しないと心は発動しません。ノってこないってヤツです。

心が発動しなければ良い仕事はできず成果が出ない。すると自身の存在価値が高まらず、モチベーションが上がらない。その結果、自信が無いので低いゴールをセットするが、それでは心が発動しない…

結果としてこの下向きのループに入っていくか、それが嫌なら現状維持の水平飛行になる。

これ、全く面白くないどころか、持続不可能だと思っています。

ゴールの設定は、価値の創出のみならず、個人の成長や成功において非常に重要です。
しかし、ただ漠然とした目標を立てるのではなく、「心を動かす」ような適切なゴール設定を行うことが重要です。

そうでないと、自分の心を押し殺して、我慢して継続していくことになるわけで、それでは面白くなくて、気持ちも価値も生産性も高まらず、結果的に持続できなくなると思っています。
皆でそんなことをやったら、自分は良くても社会がもたないかもしれません。

例えば学校において「留年を回避するために60点取る」のようなゴール設定では、高い価値は生み出せません。
留年などの恐怖が動機となっていたら当然で、安心のためのことをやるはずで、高い価値の創造とは違います。

安心のために最大限のことをやるかも?
稀にそんな人もいるかもしれませんが、大抵はそんなことはしません。

それでは自分も周囲も面白くないのはもちろん、一歩踏み外すと留年だという恐怖と戦いながら、面白くもないものを頑張って最低限を狙うという、何だか良く分からないことになっていきます。

やりたいと思って選んだことでも、こんなやり方になっていることがあります。実によくあります。
自分の意思で学校や仕事を選んでも、そうなっちゃうことがありますよね。

何でこんなことになっちゃうのでしょう?

ゴール設定の段階で心が発動していないのが原因の一つではないかと思っています。

ワクワクするようなことに関わったり、自分が関わったものをワクワクするように変えていくという経験が少なくて、指示に従う経験ばかりで、ゴールへの向き合い方が分からないのかも。

でも結局は、どうしたいかという「思い」が重要なのだろうなぁ。心の問題だ。

とはいえこれは、一概に本人に問題があるとは言い切れなくて、むしろ環境とかシステムに原因があるのだろうなぁと思っています。

だって、成長の過程において、ある段階までは本人にはいかんともしがたいでしょう。
でも、ある程度成長したら、そこからは本人の意思次第ですね。

…なのだけど、なかなか思い通りにいかなかったりするのが、難しくも面白いところ。そうそう、そういう変化の過程も楽しまないとね。

つづく

コロナ禍からのリカバリー…は、まだ続く

コロナ禍が一段落してしばらく経ちます。
いまだに感染するケースは続いてはいますが、以前ほど深刻な状態を脱しているのは明確です。

さて、世界規模の疫病に対して、我々は様々な工夫や変化で乗り切りました。
しかし、その前後での変化はどうでしょうか。
喉元過ぎればなんとやらで、以外と意識していなかったりしないでしょうか。

別に、この変化自体に対して良いとか悪いとか、そういう評価をしたいわけではなく、この変化を踏まえて今後の方向性を考える必要はあるだろう、と思っているのです。

とはいえ、そう単純に何かしらの答えを導き出せるとも思っておらず、ブログという性格上、思い付いたり思い出したりする度にボチボチ書いていければ良いかな、なんて思っています。

このブログで記事にするべき内容は、当然ながら学生のことです。
特に彼らの意識の変化なのですが、これは結構厄介です。

なぜかというと、取り上げたいのは「意識の変化」ですが、正確にはそれは「無意識」だからです。
意識せずにやっていること。
習慣というか癖というか、そういうことです。
なので、そんなことは本人に聞いても分かりません。意識していないのだから当然です。

そして、これは事前に明言しなければならないことなのですが、彼らの状態であったり、抱える問題は、環境に影響されて構築されているということです。
これは環境を作った皆の責任であり、偉そうなことを言っている私自身の責任でもあると言うことです。

さて、では思い付いたところからいってみましょうか。

余計なことをしたくない
これはつまり、楽をしたいというのとニアリーイコールなわけですが、コロナ禍以前から多かれ少なかれそういう傾向はありました。
さらに言うなら、いつの世も若者はそんなものでしょう。

ですが!
コロナ感染に対する対応が、これにブーストをかけました。

「余計なことはしたくない」
という従来の若者のデフォルト感覚から
「余計なことはしてはいけない」
となりました。禁止です。

では当時、余計なことをすると何が起きたでしょうか?
もう多少記憶が曖昧になりつつありますが…
まぁ、「怒られる」くらいですかね。程度にもよるでしょうけど。
責任者から怒られる、親から苦情が来るとか。
最悪は、メディアによる吊し上げでしょうか。
いや、本当の最悪は、感染による落命です。

結果として、身体的なリスクの回避を目的として、それに伴うルールやらマナーやらモラルやら、そういったものが一辺に降りかかってきて、心が萎縮してしまう状態になりました。

これによる変化は、我々日本人にとって、実にクリティカルな変化を及ぼしたと思っているのです。

それは
「言われたことしかやってはいけない」
のような状態になってしまったことです。
正確には、それが強化されたのですが。

そしてそれは、命に関わることが理由なので、それはそれは強力なわけです。

そもそも我々日本人は、ポジティブリストの行動原理を持つものが多い。
つまり、あらかじめ決められたことをやる。言われたことをやるということです。

その状態に「言われたことしかやってはいけない」が付加されたわけです。
それはもう、最低限が極まるでしょう。

これは何も学生達に対してだけ言っているのではありません。
恐らく多くの年長者も同様でしょう。
私自身も多少なりともその方向に変化していることを自覚しています。

この状態から脱するのは、極めて難しいです。
だって、楽な状態から変化する訳ですからね。
そういうのって本能的に難しい。

しかし、言われたことをやる、言われたことしかやらない、となると、クリエイティブな仕事は難しい…というか、無理です。

クリエイティブな仕事は、価値を創造するわけですが、「言われたこと」は最低限なわけで、それでは全く創造的ではありません。

さて、そういった状況下で、我々夢工房のチームはどうしていたでしょう。

もちろんルールを守りました。
全てオンラインに移行していました。
まぁ皆さん同様でしょう。

で、コロナ明けにレーシングカーの大会、Formula SAEのオーストラリア大会に行ったわけです。
我々は技術レベルが低下して、まさにリセットが掛かった状態です。
正確には、知識とかスキルとか、そういったもののレベル低下よりも、マインドのレベルにリセットがかかってしまったのが致命的でした。

対して、現地のチームは思ったよりレベル低下していなかったのです。
一体何が起きていたのでしょうか?
大変興味深かったので、話を聞いてみたところ…

オーストラリアでは、感染防止のためのロックダウンはかなり強力でした。
それこそ、州境は閉鎖されて移動できず、州によっては、よそのお宅にホームパーティーに行ったりすると、一人あたり日本円で5万円程度の罰金が取られるなんてことにもなったようです。

そういった状況で彼らは、ロックダウンが掛かるという情報を聞きつけるやいなや、大学の設備を自宅のガレージに持ち込んだそうです。
そして、密かに開発を続けた、と。

これはモラルに反するどころか、ルール違反のように見えますが、不要な外出を伴わなければ問題無かったのでしょうね。
でも、恐らくは密かにメンバーは各人の家を移動しながらやっていたとは思いますが。
でも、表向きはルールの範囲内ってことだったでしょう。

基本的には、彼らの行動原理であるネガティブリスト、つまり禁止事項を守るのであれば、ゴール達成のためには何でもやるというやり方です。
自由とかガッツとかが行動のベースになっています。その上に、知識やらスキルやらが乗っかっているというカタチですね。

そんな話を聞いて、「あぁ、こりゃ敵わないわ」と思いました。
コロナにやられちゃった我々は、自由のもたらすパワーとかガッツはオマケと言うよりむしろ不要なもので、知識とかスキルがあれば何でもうまくいっちゃうのだ、言われた(最低限の)ことをやるのだ、インプットが全てだという価値観が強化されています。

と、こんなことを書いて、別に泣きを入れて言い訳をして、諦めたいわけではありません。彼らの真似をすれば良いって訳でも無い。
ここまで分かれば、あとは色々と想像して試すだけです。
再起動には手間と時間がかかりますが、ここから上向きに方向転換するのはとても重要で価値のあることですから。

エコラン全国大会 決勝

さて今日は決勝です。
5時に会場入りして準備開始。

今回は特にトラブルらしいトラブル無しで完走しました。

結果は、リッターあたり471km走って大学生クラス15位。
もちろん、あまり良い成績では無かったのですが…

表彰式開始早々デザイン賞なるものを頂きました。全参加車中、最もデザインが良かったそうです。
どうやら我々のマシンは、ホンダの青山本社で10月20日まで展示して下さるそうですので、お暇な方はぜひ見に行ってみて下さい。

これにて今年のエコランは終了です。
そろそろ皆の度肝を抜くようなニューマシンを作らなければ。