未来予測に思うこと

これから我々はどうなるのか?
そんなことを想像するのは楽しくないですか?

未来を想像しておけば、そのための準備をしておけたりしますから、色々メリットがありそうですものね。
というか、我々は未来のために学んだり準備したりして日々を過ごしているといっても過言ではないわけで、日々のこと、手元のことを頑張るのは重要ですが、それは全て未来に繋がることだってことは忘れてはいけません。

なので、ゴールだのなんだのをしきりに言っているわけです。
そういうのを戦略的思考といいます。

さて、その未来予測なのですが、それこそ人によって考え方やアプローチは様々なのですが、過去の事例を元に「今はこうだから、以前のようにこうなる可能性がある」のような考え方は有効な気がしますね。
ただ、それを考える上で、環境条件とかがどのように異なっているかなんてことも考慮に入れないとですが。

今回、ブログのネタにこんなことを選んだのは、以前担当していた授業のネタがたまたま目にとまってしまって、それを再整理したからなのです。

その授業は、新技術が登場する背景とか、技術が停滞する理由などを、紀元前3000年以上前から近代までの長きに渡って解説するものでした。

そういった授業なものだから、資料は年表のようになっているわけですよ。
昔々、いつごろこんなことが起きた、なんて感じに。

それを見ていると、あぁ、我々人類は、似たようなことを繰り返しながら発展してるんだなぁ…なんてことが分かるわけですが、そのうちハッとするのです。

「あれ?今のこの問題って、かつて通った道か!?」

となると、今現在問題と感じていることに対する解決法とか、それによって起きることって、ある程度分かっちゃう。

あと、その今現在の問題ってのも、原因が分かっているようで分かっていなかったりもするわけで、その辺はある程度見通せる気がします。

とか、そんな記事を書きながら
「そうだよなぁ、大事なのは年号を覚えることじゃなくて、この出来事の流れとか中身なんだよなぁ。で、その知識をどう使うかってのが最も重要だったんじゃないの?」
と思うのですよ。

そう、知識って道具なんですよね。
何のためにどう使うか、それによって何を起こすか。
それで意味や価値が決まるのですよ。

持ってるだけじゃ何も起きません。

仕事をする上での優秀さ

いわゆる勉強ができる学歴的な優秀さと、仕事をする上での優秀さってのは、一体何が違うのでしょうね?というお話しをしてみましょう。
別に私が優秀なエンジニアであったという話ではないのですが、恐らくエンジニアとしてある程度のキャリアも持つ人なら常識的に理解している内容だと思います。
で、これは多分、大学生にも参考になるのではないかな。

勉強ができるってのは、「論理的思考力」と「知識の修得力」という2つの能力が優れているということだそうです。
これらは、いわゆる定型的な知識のハンドリングですね。それらを「知ってる」「覚えてる」とか、「理解できるか」「覚えられるか」ってことです。

対して、仕事をする上での優秀さってのは、「直観的判断力」と「智恵の修得力」において優れていることだそうです。
これらは、経験に基づく勘とか、知識の活用とか、「やる」ことに大きく関係していて、文字とかにしにくいものです。なので、教科書とかマニュアルにできません。

恐らく学校では、前者を基礎とか基本、後者を応用と呼んだりするのではないかな?
そして、基礎がしっかりできていれば、応用はできるはずだ、みたいなことになっている気がしますが、どうでしょう?

それらの能力、全く違いますよ。

後者は「やる」ことでしか身に付きません。
そして、何も考えずにやっていてもダメで、困難の壁にぶつかったり乗り越えたりすると磨かれます。
さらに言うなら、諦めない事も優秀さとしては重要な事でしょう。

やはりその辺は、好きな事を一所懸命やるとか、のめり込んで何かをやる経験が効いてきますね。

心の時代がやってくる 3

適切なゴールを設定しないと心は発動しません。ノってこないってヤツです。

心が発動しなければ良い仕事はできず成果が出ない。すると自身の存在価値が高まらず、モチベーションが上がらない。その結果、自信が無いので低いゴールをセットするが、それでは心が発動しない…

結果としてこの下向きのループに入っていくか、それが嫌なら現状維持の水平飛行になる。

これ、全く面白くないどころか、持続不可能だと思っています。

ゴールの設定は、価値の創出のみならず、個人の成長や成功において非常に重要です。
しかし、ただ漠然とした目標を立てるのではなく、「心を動かす」ような適切なゴール設定を行うことが重要です。

そうでないと、自分の心を押し殺して、我慢して継続していくことになるわけで、それでは面白くなくて、気持ちも価値も生産性も高まらず、結果的に持続できなくなると思っています。
皆でそんなことをやったら、自分は良くても社会がもたないかもしれません。

例えば学校において「留年を回避するために60点取る」のようなゴール設定では、高い価値は生み出せません。
留年などの恐怖が動機となっていたら当然で、安心のためのことをやるはずで、高い価値の創造とは違います。

安心のために最大限のことをやるかも?
稀にそんな人もいるかもしれませんが、大抵はそんなことはしません。

それでは自分も周囲も面白くないのはもちろん、一歩踏み外すと留年だという恐怖と戦いながら、面白くもないものを頑張って最低限を狙うという、何だか良く分からないことになっていきます。

やりたいと思って選んだことでも、こんなやり方になっていることがあります。実によくあります。
自分の意思で学校や仕事を選んでも、そうなっちゃうことがありますよね。

何でこんなことになっちゃうのでしょう?

ゴール設定の段階で心が発動していないのが原因の一つではないかと思っています。

ワクワクするようなことに関わったり、自分が関わったものをワクワクするように変えていくという経験が少なくて、指示に従う経験ばかりで、ゴールへの向き合い方が分からないのかも。

でも結局は、どうしたいかという「思い」が重要なのだろうなぁ。心の問題だ。

とはいえこれは、一概に本人に問題があるとは言い切れなくて、むしろ環境とかシステムに原因があるのだろうなぁと思っています。

だって、成長の過程において、ある段階までは本人にはいかんともしがたいでしょう。
でも、ある程度成長したら、そこからは本人の意思次第ですね。

…なのだけど、なかなか思い通りにいかなかったりするのが、難しくも面白いところ。そうそう、そういう変化の過程も楽しまないとね。

つづく