安全率のお話し 人生編

昨日に続き安全率のお話しです。

この安全率を人生に適用…と言ったら大げさですが
物事への取り組み方に適用した場合の、一つのアイデアをお話しします。

学校にいると
「赤点はイヤだけど、良い点数取るほど頑張る気にもなれない」
ということになりませんか?

分かります。
私もそうでした。

なぜ勉強を頑張るのがイヤかというと
それがなぜ必要なのか分からない上に
色んな科目、全方位で良い点を取らないとイカンからです。

学校では
「色んな科目ができていないと将来仕事できないよ」
のような雰囲気を感じるのです。

が、どうもそれは嘘っぽい気がしていました。
というか、嘘だと思いたかった。
だって、大して勉強できなかったから。

まぁ、実際のところ嘘なわけですが。
正確には
勉強ができるイコール仕事できる
ではないってことですけどね。

正直なところ、意味を感じないことをやらされるのはウンザリだったし
好きなこと一点で勝負したいとも思っていたわけです。
そういう者に「全方位」は荷が重い。

まぁ、勉強したくなかった言い訳はこの辺にして
ちょっぴり人生の役に立つ安全率のお話しにしましょうか。

「赤点はイヤだけど、良い点数取るほど頑張る気にもなれない」

実はこれ、凄く難しいことをしようとしてるんですよ。

つまり、赤点の領域に入らないギリギリの線に着地したいわけでしょう?
そういう状態を安全率1(イチ)と言います。
余裕はないけど不足もない。

そこを狙うのは凄く難しいと思います。
超高精度です。

でも、学校で言われたことを全方位でやらされるような状況になっちゃうと
そこを狙いたくなるのはよく分かる。

社会に出たら、エンジニアに限らず
仕事をするってことは、自分以外に価値を提供するわけですが
相手が喜んでくれれば、それは価値があるってことで
ここで話した

相手の心を、どれだけ大きく動かせるか
相手の心を、どれだけ長く動かし続けるか
どれだけ多くの人の心を動かせるのか

のそれぞれを、安全率1狙いでやっちゃうのもアリかと思うのですが
どれかを、ピンポイントで高めたら武器になります。

ヘタしたら、ピンポイントで狙ったもの以外は
安全率1を切っていてもアリかもしれません。

学校は、そういうのもアリ
という思考ができる状態ではないのが残念です。

なので、仕方ない部分もあるのですが
可能であれば学校にいるうちから
そういうピンポイント戦略をやっておくのが良いと思います。

普通なんて面白くないから。

それは自分にとっても相手にとっても。

あ、でも、学校で安全率1を切っちゃうと卒業できないからヤバイですね。
うまいことやりましょう。

価値の話

価値とはなんぞや?
これについて思うところを書いてみます。

それは「お金」である。
という人もいるでしょう。

でもお金は、価値を見える化したものに過ぎません。
発信した価値の対価であって、価値そのものではありません。

ものをつくるのであれば、その「もの」が価値を発揮することとなります。

その根源は、つくる者の思いと考えと行動でしょう。

なので結局のところ、価値は人から発生するものです。

価値の大きさは、渡す相手の心をどれだけ動かせるかによって決まると思っています。

相手の心を、どれだけ大きく動かせるか
相手の心を、どれだけ長く動かし続けるか
どれだけ多くの人の心を動かせるのか

そんなことで価値の大きさが決まるのではないかな。
つまり、受け取る側の喜びの大きさと言って良いかと思います。

もちろん、上の3つ全てを満足させても良いのですが、戦略的には、どれかをピンポイントで高めるというのもアリですね。

そして、発信した大きな価値が認められたなら、それは自分の価値が認められたということです。

相手が求めるものだったり、相手が喜ぶことだったり、つまり未来を想像したりできなければ、大きな価値は作れない。
しかも未来は不確定なのだから、チャレンジ無しにはありえません。

さて、ではどうしましょうね?

つくるか受け取るか

今の世の中便利で結構なのですが、価値を生み出す者と、受け取る者の二分化が、二極化に向かうのは避けられない構造になってるんだろうなぁ、なんてことを思ったという話です。

人は誰しも、何かを発して、何かを受け取ります。
完全に発する側に徹するとか、受け取る側に徹するなんてことはできないでしょう。

面倒なこととか、難しいこととか、勇気が必要なこととか、危ないこととか…
便利な世の中というのは、ユーザーがそういったリスクを背負わなくても良い世の中だったりします。

でもそれは、リスクが消滅したわけではなく、誰かが代わりに背負っているのです。
リスクが必要なことは、大抵価値があります。だから仕事になり得るわけです。

皆が価値を作り出して、互いがそれを交換して、我々の生活が成り立っている
…のですが!

便利な世の中は、価値を生み出すシステムが、より巨大化していって、大量の価値を生み出します。

それに対して受け取って消費する側は、より消費専門になっていって、消費するために仕事をする…みたいな傾向が強化されている気がします。

価値を生み出すのは限られた人間。
彼らは価値を生み出すためにリスクを背負って、やりたいこと、やるべきことをやる。

一方、消費する側は可能な限りリスクを避けて、消費に徹する。
そのための原資は、言われたことを我慢してやって、報酬として得る。

価値を生み出す側と消費する側の数のバランスが、大きく消費側によっているのが今の消費社会ってことでしょう。

世の中には、この2種類の人間しかいないわけでもなく、それぞれの役回りが生活上の何事にも適用されているわけでもありません。
なので今回の話は極端な表現になっていますが、大筋ではこんな傾向が強まってきたような気がします。

これが極端な状況が進んで行けば、少数の者が多くを持つ、富の集中が起きるのは当然です。

そんなことを考えていると
学校で「言われて、やる」「与えられて、受け取る」という姿勢を強化しているとしたら、これはマズイことだぞ。
と思うのです。

だって、自ら価値を創り出せなければ、欲しいものを受け取るために、言われたことをやる意外に選択肢は無いのですから。

ものをつくるってのは良いことです。
価値をつくり出す基本的なマインドの構築に繋がりますから。

見た目上で「つくってるかどうか」というだけの話では無いのです。