思いは実現する 4

このシリーズ、なぜかほぼ1年おきの投稿になってます。
別に意図したわけではありませんが、そんなタイミングでこういうことを考えるきっかけがあるのかもしれません。

この「思いは実現する」ですが、本質的な部分は1回目の記事を見て下さい。

自己啓発本などにも度々登場するこのワード、一見怪しくて、「本当かよ」と言いたくなったりもするのですが、実はごく当たり前のことを言っています。

我々はものを作る人なので、これは実に分かりやすい。
そして「そりゃそうだよね」とも思うのです。

それはなぜか?

周囲を見渡してみましょう。

なにかしら物があると思います。
それはボールペンでも、クルマでも、家でも何でも良いのですが。

それらは全て人が作ったものです。
当然ながら、作る前には存在しなかったものです。

作る前には考えたはずです。
「こんなのあったらいいな」
と。

これ、単なる「思い」ですよね。
でも全てはここからスタートです。

もちろん思っただけでは無く、考えてチャレンジしたはずです。
最初はうまくいかなくて、リファインを繰り返しながら。

よく聞く話ではありますが、世界中の人が瞬時に意思疎通できるネットワーク、多くの人が数時間で他国に移動できる手段、そんなものは100年前の人からしたら、夢どころか、全く想像もできなくて、妄想にもならなかったかもしれません。

先人達は、そんな状態から
「こんなのあったらいいな」
という夢をひとつずつ実現してきたのです。

我々の周囲の物は、全て先人達が「かつて見た未来」です。

実現するまでは妄想です。
成功するまでは失敗です。

その段階では色んな人が言うでしょう。
「そんなことできるわけないだろ」
「ほら、うまくいかないだろ」
と。

妄想なんて実現するはずはないし
失敗することなんてうまくいくはずない
そういうことにしたいのでしょうかね。

もう一度言います。

実現するまでは妄想です。
成功するまでは失敗です。

「できる人」がやったからできたのではなく
できたから「できる人」と呼ばれるのです。

きっとできると信じる心とか、うまくいくまで諦めない気持ちとか、それらが最終的な結果を決めるのです。

自利利他という言葉

学校は、社会で役立つ人材を育成する「公器」とも言える機関なわけですが、同時に将来に対しての夢を叶えるために必要なものを身に付けるための場所でもあるわけです。

社会で役に立つ…これは、世のため人のためということになるのでしょう。
一方、夢を叶えるというのは自らのため。

この二つが相反しているようでは、恐らくうまくいきません。

そんな時にちょうど良い言葉があります。

自利利他(じりりた)

仏教用語です。
大乗仏教の理想だそうです。

かつて読んだ、京セラ創業者の故稲盛和夫氏の著書に「利他の精神」というワードが出てきて、「あぁそうか!それなら仕事がうまくいくのは当然だ!!」と膝を打った私は大層利己的だったのかもしれません。
それはそうと、それは自利利他から来ていたわけです。

我々が忘れがちなのは、他者の利益のために仕事をしないと、仕事自体が成立しないということです。
そんなことは当たり前なのに、学校ではそのシステムを教えません。

なので、好きなことをやるのか、好きでもない仕事をやるのか、なんておかしな二択になったりするのです。
そんなマインドで仕事をしたら、いずれにしても利他にはなりそうもありませんよね。

さて、自利利他の解説です。

自利、これは、自ら利益を得る、というと聞こえが悪いかもしれませんが、徳を積むというようなことです。

利他、これはもちろん他を利すること。他人の利益のための行いです。
仏教では、他者の救済ということになります。

なので、自利利他というと、自ら徳を積むことと、他者を利することを両立させるというということです。
もちろん、自ら積んだ徳で他者を救済するということになるわけで、この辺が大乗仏教の中核を為すところなのでしょうかね。
個人の解脱を目指す小乗仏教とは異なるところです。

我々は解脱を目指す修行僧ではありませんので、自分の好きなことや得意なことを「為すべきこと」として頑張って、それで他者を利する、つまりお客さんに喜んでもらうといったことを目指すべき。
そう思うのです。

強みを伸ばすか弱みを消すか

これは成長過程において凄く重要なことの一つです。
自身の価値をどこに置くのかという問題でもあります。

ご存じの通り、日本の教育の場合は弱みを消して、全体的にレベルを上げていくようなやり方です。
なので、学んでいる多くの科目の総得点が高い方が優秀とされます。
何か一つが突出していてもダメだし、他人にできないことができたとしても評価されません。

言われたことをキッチリやるならそれが良いのかもしれません。
実際、高度経済成長の頃は、そういったキャラクターが重宝されたのだと思います。

対して、弱みにフォーカスせずに、強みとか好きなことににフォーカスして、それらを伸ばす教育をとる国もあります。
まぁ全員に対してということでは無かったりするでしょうが。

それらの多くは先進国で欧米が中心だと思いますが、最近では中国などもそういった傾向にシフトし始めているという話も聞きます。

まぁそれは当然な話で、大量生産による薄利多売は、人口が多くて人件費が安いなら成立するでしょうけど、人口減少とか人件費が高くなってしまうとそうはいきません。

他との差別化を図って、高付加価値で利益率を上げていかないと成立しません。
大量の「普通」ではダメで、少数の「凄い」で行く必要があるのでしょうね。

とまぁ、そんなことは皆さんご存じでしょうからこの辺にしておきましょう。

問題は、弱みを消そうとするやり方は、当然ながら弱みにフォーカス必要があるわけです。
我が国では、それが真面目とか言われちゃったりするのですが、そういうやり方はいい加減にしておかないと、行き先が暗いのではないかと思うのです。

だって人である以上、弱みが無くなることは無いからです。

そして、弱みがあるから強みに自信を持てない場合が多い。
そもそも成長過程における強みなんてのは、本当に強みとして認識できそうなものなんてあまり無いでしょう。だって経験が少ないのだから。

せいぜい、強みの「気配」くらいのものだったり、大して強みになんてならなくて、単に好きなだけだったりもします。

そういったことを強みとして信じること自体、難しくてリスクがあるでしょう。
「強みじゃなかったらどうしよう」
って。

そういう状態って、やはり弱みにフォーカスしているから自信が持てなかったりすることもあると思うのですよ。

でも本当は、自身を持って進んじゃって良いと思うのです。
それで失うことはありませんし、思い込みだろうが勘違いだろうが、それに夢中になるからこそ強みが形づくられるのは事実なのですから。