守りと攻めのお話し

何をすべきかを決められなくて
どうしたらいいか分からないので
立ち止まって守りに入る
受け身になる

真面目だろうが不真面目だろうが
ゴール設定をしないと
そういう状態にハマります。

環境の影響を受けて流されるままになり
降ってくるものを受け止めて処理しているうちに
時間は刻々と過ぎ
自分が選んでいない
しかも望んでもいない出来事に対処するしか無くなり
消去法によって行動を決定したり
いわゆる「究極の選択」にたどり着くことも多い。

いわゆる守りの姿勢です。

成長過程であれば

「だって経験の無いことに直面してるんだから
しょうがないじゃん」

というのも理解できなくも無いですが
この守りの姿勢
一見、守っているようで、実は守れていない。
なぜなら、自分で選んでいない現実に
対処し続けるだけになるからです。

その状態では、不安が消えません。
なぜなら、その状態での出来事は
自分で選んだものではないから。
次に何が来るかは分からない。
だから不安や不満が溜まる。
他人のせいにしたくなる。
でも自分で動いていないので変えられない。
結果として、無力感とかストレスが蓄積する。

一方、自分で選んでチャレンジすると
当然失敗します。

なのですが
その失敗は自分の選択の結果なので、学びに変えやすい。

受け身の姿勢の場合
「降ってくるもの」は
他人が考えたものなので
何のためなのかは分かりません。

何のためなのかが分からなければ
どうすべきかも決められません。

正解を捜す旅で遭難するのがオチです。

というわけで
受け身の姿勢だと
「ノートライ・ノーエラー」になりがちで
一見安全に見えても成長は止まります。

自らの意思でのチャレンジであれば
何のために何をしたのか
その結果どうなったのかという
思考と行動と結果のプロセスが全て掴めている。
なので「次はどうするか」を自分で決められる。

攻めの姿勢はリスクがありそうです。
が!
そのリスクを自分でコントロールできます。

守りの姿勢はリスクが低いように見えます。
が!
自分でコントロールできませんし
できるようにもなりません。

本当の失敗は、失敗を恐れてやらないこと。
チャレンジを続ける限りは成長は止まりません。

ダメでもいいからやってみる
ってのは、とてもとても大事なのです。

壺に入るな

領域を狭めて何かに特化するのは
戦略として必要なことです。

人類の発展の歴史も
人々が、様々なタスクに特化して
専門化したからこそ成し遂げられたこと。

それぞれが何かに特化して強みを作る
皆がそうしている状態を俯瞰して全体を見ると
総合的にレベルが上がっている
ということです。

大学で「文系」とか「理系」に分かれて学ぶのも
要はそういうことです。

美味しいパンが食べられるのは
パン屋さんが頑張ってくれているからです。

でも
「別に言われたからやってるだけで
最小限、最低限でいいじゃねぇか」
と思い始めるとどうなるでしょうね。

領域を狭めるのは
専門化して、何かに特化して
強みを作るのでは無く

単にタイパの良い仕事にして
負荷を低減して楽したい
単に効率を向上するのが目的
となっているとしたら…

余計なことをしたくないから
専門化しているとしたら…

それは全くハッピーではありません。

確かに専門家は増えるかもしれませんが
余計なことをしたくないという動機での専門化は
狭い領域に閉じこもり
自分の専門外には手を出さなくなるでしょう。

タイパだのコスパだのを向上させる
つまり単に効率を向上させるため
広い領域を見られる人が減るはずです。

※この場合の「専門家」は、別にエンジニアとか学者さんとかの特定の職業を指すのでは無く、各人が「特定の自分の仕事を持っている状態」を言っています。

システムは、個別の要素でできています。
国家というシステムは国民で
マシンというシステムは部品で構成されている。

まず個別の要素を作って
それらを集合させて
全体ができあがる…
ではありません。

完成した部品を使って
クルマなどを組み上げるプロセスを見ると
その通りに見えるのだけど
構想段階では全く逆のことをやっています。

まずは全体の構想です。
単品は、それによって決まる。
たぶん、多くの人がこれを誤解しています。

「個」の状態でゴールが無く
狭い領域しか考えない

これはいわゆる「タコツボ」状態です。

皮肉なことに
タコツボ化していると
タコツボ状態になっていることには気付けません。

壺の中にいるタコは周りが見えないのだから
現状と比べようが無いのだから。

それに、その状態が理想だったりするから。

であれば
気付けないし変われない。
気付きたくないし、変わりたくないのかも。

さて、長くなりましたが
ここまでが問題提起みたいなものです。

皆が限られた領域に閉じこもるなら
「間を繋ぐ者」がいなくなります。
「全体を見られる者」がいなくなる。

ということは
そういうニーズがあるということです。
色々分かる・できる人がいないと
システムは構成できませんから。

間を繋ぐためには
全体を見るためには
色々経験しておく必要があります。

深けりゃ良いってものではありません。
というより
狭いだけではよろしくない。

さらに言うなら
専門領域をやるにしても
全体が分かっていれば
何をどうすべきかを考えられます。

もちろん専門家は必要なのですが
それだけじゃダメってことです。

特等席は空席だ

学校教育では
問題が与えられる
条件も与えられる
解くべき範囲も決まっている
そして、ほとんどの場合、正解も存在して
リスクも排除されている。

何のために?
とか
なぜ?
は無くて
正解・不正解のみが存在する。

そんなプロセスしか経験しておらず
そんな環境で過ごしていれば

ゼロヒャク思考とか
正解を追求してチャレンジできないとか
そういう極端なことになってしまうのは当然かもしれません。

そんな環境から社会に出ると…

正解はありません。
ヘタすりゃ問題も明確になっていません。
それらは自分で想像(創造)して追求するものだから。
でも、責任はあります。

今まで
主体性は必要無く
環境から様々なリスクを排除されて
責任も問われず
メンタルタフネスが向上する理由も無いとしたら

ハラスメントなどに敏感になるとか
「ブラック企業」とかのワードがが容易に出てくるとか
その辺も理解できます。

自分を守ることが行動の中心になるのは当然かもしれません。

しかし!

自分を守る
これは、自分以外
誰も喜びません。
家族は別でしょうけど。

つまり
価値が最小限になるのです。
そこにゴールをセットするのはいかがなものか。

この風潮は必ず行き詰まります。
だって、価値を生まない価値観で
このまま未来永劫継続できるはずは無いから。
必ず何かが、誰かが行き詰まります。

ではどうしましょう?

近年学校で言われる

主体的に…
とか
答えが無い問題を…
とか

それらがヒントなのですが
それ、凄く分かりにくいでしょう?
一体何をしたらいいの?
ってなるでしょう。

たぶん、具体的に言いにくいのですよ。
授業と矛盾するから。

自らリスクを取ってコントロールする経験
やらないと分からない事をやる経験
つまりチャレンジ
ですが

そういったことで得られること、分かること
そういったことが凄く重要になります。

これ、予想じゃ無くて
当たり前だと思ってます。

だって
そういうことは誰かがやってくれないと困るのですけど
ニーズを満たす人材が少なすぎるのです。
それらの素地を身に付ける機会も環境も無さ過ぎます。

高い価値を創造するには
リスクもチャレンジも欠かせませないのに
そこを目指す人が少なすぎる。

多くは
リスクを取らずに
チャレンジなんかせずに
失敗せずに確実に
と思っている。

ということは…
それはチャンスです!
特等席が空席です!

さあ
頑張って探すか
自ら作るか
自力で何とかしましょう。

すぐにです。

これを誰かに探してもらうとか
「後で」「そのうち」「できるなら」
となると本末転倒なので要注意。