やはり夢は必要だ

我が国の現状と今後を考えると、主体性を持って新しい価値を生み出していく若者を育成できないと先は無い気がしてならなりません。

で、実践的な内容と主体性は密接な関係です。
何に役立つか良く分からないものに対して、「主体的に取り組む」ってのは無理があるからです。

結局のところ
学校を出た後どうしたい?
とか
将来何をするために学校に行くのか?
というのが重要で、それ無しに主体性とか言っても無理だということ。

良く考えたら、そりゃそうだ!ってことなのですが。
夢とかゴールとか、目標設定ができているか否かが問題ということです。

夢工房の現状を振り返ってみると…

夢工房では何をやっているのか?
その辺をちょっと客観的かつ大雑把に見てみると…

異なる年齢層が一所に集まって、一つのゴールに向けて力を合わせて、主体的に努力している
より高い成果を得るために
継続するために

そんなことをやっています。
これは、彼らが社会に出た後に、絶対に必要になることです。

「学校で」という枠を外して見てみると、会社で仕事をするうえで必要となることそのまんまです。
彼らは、それを日常としてやっています。

やりたいこと

やるべきこと
が一致しているからこそ、日々頑張れるのでしょうね。

やりたいことを気が済むまでできる環境というのは、なかなか無いので貴重でしょうし、そもそも、そういう風にやりたい学生達も貴重です。
そういう環境を許容している学校自体も貴重です。
それらが融合している現状は、奇跡のようだと思います。

私は、こんな学生達の面倒をずーっと見てきました。
気付けば4分の1世紀です。
お陰で色々なことが分かったのですが、問題はそれをうまく言語化できないのです。

もちろんそれは、能力の問題もあるでしょうけど、どうも大事なことは言語や形式の外にある気がしてなりません。
とはいえ、頑張ってそれらを見えるようにしなければ、とも思っています。

寺子屋はどうだったのか?

何となくなのですが、江戸時代の「寺子屋」にヒントがありそうな気がするのです。
江戸時代、庶民の子どもに読み書きを教えた教育機関です。

教科書では
読み・書き・そろばんを教えるところ
くらいしか情報がありませんでしたが…いや、それは私が覚えていないだけ?
ともかく、ちょっと深掘りしてみましょう。

どうやら誰でもウエルカムだったわけではなく、地域・師匠・家業・身分・目的ごとに最適化されていたようです。
つまり、これはどういうことかというと、寺子屋で学んだ後の仕事が明確で、それに合わせて即戦力となるための教育がされていたわけです。

そして、こんな特長も。

  • 年齢でクラス分けはしない
  • 学年は存在しない
  • 同じ教材は使わなかったりする
  • 近所の子が集まる

要は、一つの部屋に色々な子がいたのですね。
そんな環境だから自然と「年上が年下を助ける」なんてことになるようです。
出来の良い弟子が師匠を手伝うとか。

で、師匠は巡回したりして、添削したり口頭で直したりして、できたら次に進ませる、なんて感じだったようです。

  • テストは無い
  • 成績表は無い
  • 競争より習熟
  • 卒業は明確でない

なんて感じだったようです。
というのも、師匠が出来映えを見て、「これなら十分だ」と思えばOKなわけです。
もちろん実践的な能力に対する評価です。

というのも、寺子屋の目的は「立身出世」ではなく

  • ちゃんと奉公できるか
  • 商売を継げるか
  • 近所で信用されるか

が、重要で、評価軸は一貫して
「共同体の中で機能するか」
です。
要は、即戦力となり得るか?です。

もちろんそれは

  • 社会が「できる人」を必要としていた
  • だから子どもは自然に学ぶ理由を持った
  • 教える側も「過剰に教える意味」がなかった

という背景があるわけで。
言ってみれば、主体性が「育てられた」のではなく、主体性が「必要だった」のですね。