尖っているかい?

何かしら特徴がある状態を「尖った」と言いますね。
個性だったり能力だったりしますが。

それにより、差別化を図ったり、優位性の獲得ができたりします。

しかし!
「目立つことはリスクである」という価値観を身に付けてしまうと、「尖った」特性こそがリスクの根源となります。

学校で、できるだけ目立たないように、と他と同化する習慣を身に付けてしまうのはよくある話ですが、就活直前になって武器がないことに気付くのもよくある話。

そこで、資格とか学歴とかを積み重ねるのは結構ですが、残念ながら同じことを考えているライバルは山ほどいるわけで…
そして、採用する方は、資格とか学歴とか、そんな記号的なもので合否を決めているわけではありません。

かつて採用する側に立った身として思うのは…

尖ったものを掴もうとする資質というか、そういったところに可能性を感じるわけで。
他と違うことができなければ、他と違う競争力のある魅力的な製品は作れないわけですから。
やはり尖った何かを持っている者には魅力があります。

では、「尖った」状態となるためにはどうしたら良いでしょうか?

リソースの集中投下が必要でしょう。

この場合のリソースの内容には制限無しです。
時間、お金、労力…何でもありですし、何をどのように使うかは工夫次第。
というか、周囲を見渡して、他と同じようなことをやっていたら意味がなくなるので、その点は注意。

もし、決断に勇気が必要なシーンがあったら、それこそが「価値」の大きさのサインかもしれません。

そして、何にリソースを投入するか。
これが一番大きな問題かもしれませんね。

自分にできそうなことを探す?
すでにできることから選ぶ?

それは楽で良いかもしれませんが、きっと誰でもできることでしょう。
あまり意味が無いのでやめておきましょう。

この「何にリソースを投入するか」というのは難しい問題かもしれません。
正解は無いし。

うまくいかなかったらどうしよう
失敗したらどうしよう

と思うでしょう。

だからこそ
です。

だからこそ、そこにリソースを投入するのです。
うまくいかなかったら、うまく行くまでトコトンやればいいのです。

それでもうまくいかなかったら?

そんなこともあるでしょう。
でも、そこまでの経験は、何一つ無駄にはなりません。

さて、リソースの集中投下をするということは、本来他のことに使えたはずのリソースを消費するということです。

その結果として、能力の偏重が起きる可能性が高いですね。
というか、そこにトレードオフが発生するのは必然です。
それがまさに「尖った」状態ですから。

問題は、それを許容・理解できるのか?です。
それは、自分が、親が、先生が、友人が、世間が…
まぁつまり、尖るためには環境も大事だということです。
もちろん、自ら環境を作るのもありですね。

あとは価値観。
自分にとって大事なのは何か?というところでしょう。
これが一番大事だと思います。

そもそも「理系」「機械系」など、専門領域を決めることはもちろん、かつては大学に行く事自体が、そして大学院への進学が「尖った」に繋がっていたのですが、それがスタンダードとなりつつある現状においては、より先鋭化する必要があるということです。
もちろん、皆がやっているからではなく、誰かも言われたからでもなく、主体的に、です。

そうしないと埋没してしまうし、ヘタすれば沈没します。

変わることの難しさ

「言って」「やらせる」の反対は何か?

  • 委ねる・任せる
  • 待つ

ですかね。
ただ、放任ではなく、評価は必要でしょう。
ただ、成績表にあるような、数値的な評価は難しいし
どのタイミングで何を評価するかも難しいですが。

ともかく、教員側に求められことは

  • 教えること
  • 指導すること

ではなく
「踏み込みたい衝動」を抑えること
です。
となると、初期段階では、こうなります。

  • それは違う、と言いたくなる
  • 先に答えが見えてしまう
  • 時間がもったいないと思う

この瞬間に介入すると、主体性は一瞬で消えてしまいます

効率を求めたりすると、失敗して欲しくない
と思うでしょうし
教えたいという衝動にも駆られます。

学生達が

  • 与えられた課題をこなしている
  • 隠された正解を探している

という感覚になったら主体性は発動しません。

と、そんなことを考えていると、やはりFormula SAEは良くできたイベントだなぁ、と思うのです。

学生達が、自身でゴールを決めて、戦略や達成のための手段を考え、最終的にはイベントの成績という、厳然たる結果に向きあうことになる。

このプロセスを回して継続していけば、主体性が成長すること間違い無し。

なのですが、一つ前提条件があって
それは

自分が本当にやりたいことである

ということ。
そうでないと継続は難しいでしょう。

自分が本当にやりたいことをやる
学生が本当にやりたいことを認め・任せてみる

主体的にそうなることこそが、今一番難しい変化なのかもしれません。

何を変えるのか

主体性は、価値創出の出発点です。
では、主体性が無いとどうなるでしょう。

当然、外部からの指示や情報によって動くことになるわけで、最終的には消費されて終わることになります。
学校にいる学生も同様で、主体性が無ければ、教育・学校という名のビジネスの単なる消費者になります。

学費を払う - 授業で先生から情報がアウトプットされる - それをインプットする

多くは、そのインプットされた情報を使う経験もなく終える構造を望んでいたりします。
評価としてペーパーテストがあったりしますが、その結果は、そのまま社会で通用するわけではありません。

主体的な行動による経験は、価値として蓄積されます。
いわゆる「引き出し」も、その一つです。
単なる「知識」と「引き出し」の違いは、経験に裏付けされたものか否かという違いもありますが、自らがそれを使うことを前提にしているか否かという側面が大きいでしょう。
主体的な行動において知識や経験を利用するか否か、ということです。

主体性は「人格論」でも「精神論」でもなく、価値を生むための構造的な必要条件です。

現在のやり方が時流に合っていないのであれば変える必要はあるでしょう。
しかし、それは「全部」ではありません。

まず明確にしておくべきことは、プロイセン型構造を全否定する必要はないという点です。
基礎知識の習得や安全教育などは、一斉・規律・評価型の教育との親和性が高く、今も有効だし、今後も必要でしょう。

変えるべきものは何か?

まず
教育は「教える」ものである / 「教わる」ものである
「言って」「やらせる」ものである / 言われたことをやるのだ
それしかないのだ / それだけでいいのだ
そこから先は、社会で何とかするのだ / してもらうのだ

という固定概念があるのだとしたら、それを何とかすることでしょう。
その前提に従うほど主体性は必要無くなるからです。

さて、一体どうしたものやら。