価値はどこにあるのか その3

価値の高いところには大抵

大変
面倒
難しい
時間が掛かる
高い能力が必要
失敗するかもしれないというリスク
など

そんな
「簡単にはできない理由」
がある。

だったら
自分はそのために
何をどこまで払えるのか?
というのが今回のお話です。

もちろん
お金に限定した話ではありません。

時間を払う
労力を払う
失敗する
恥をかく
悔しい思いをする
精神的にキツい思いをする
肉体的にキツい思いをする

もっと先まで行けば、
命に関わるリスクだってある。

もちろん
苦労すればするほど
価値が高くなる
という話ではない。

でも
苦労を経なければ
生まれない価値はある。

面倒を経験したことがなければ
「この面倒を何とかしたい」
とは思わないでしょう。

失敗したことがなければ
「次はどうする?」
と本気で考える必要はない。

自分の限界まで行ったことがなければ
どこまで行けるのか
それも分からない。

効率化というのは
ある意味では
払わずに済むようにすること
なのだと思う。

でも
払わなくてよくなったものは
経験しなくてもよくなったものでもある。

経験しなくなったものは
もう分からないし
できない。

だから
何でも効率よくやればいい
とも思いません。

特に、自分にとって大切なものに関しては
広い視野を確保するためにも
「効率」はさほど重要ではなかったりする。

では、そのために
何をどこまで払うのか?

心はどこまで払えるか
体はどこまで払えるか
命はどこまで払えるか

心は
キツい経験をしても
そこから再構築できることがある。

それによって
以前より強くなる。
もちろん限度はある。

肉体も
負荷をかければ強くなるし
傷ついても
ある程度は治る。
もちろん、これにも限度はある。

そして命。
これは失ったら戻らない。

どこまで払うか
どこまで守るか

それは
自分で決めるべきこと。

払うこと自体が
偉いわけではないし
無茶をすることに
価値があるわけでもない。

とはいえ
払いたくないものが増えれば
行けないところも増える。

逆に
ここまでは払う
と自分で決めれば
それまで行けなかったところまで
行けるかもしれない。

そして
そこで払ったものは
目的を達成するための
単なるコストではないのかもしれない。

失敗
面倒
苦労
恐怖
悔しさ

そういう経験そのものが
次に価値を生み出すための土台を作る。

だから
価値を作る上で大事なのは
ゴールの設定はもちろんですが
そのために
何をどこまで払うか
それを自分で決めること

だと思うのです。

ただ残念なことに学校では
どんな価値のために
何がどれだけ払われているか
といったことを知る機会が無かったりします。

それじゃぁ何が必要かなんて分からないよね。

価値はどこにあるのか その2

では
高い価値を形づくる
その根底には何があるのか?

有用性
希少性
独自性
そして需要

とまあ
ざっとこんなところでしょうか。

そして、さらにその奥には

大変
面倒
難しい
時間が掛かる
高い能力が必要
失敗するかもしれないというリスク

といった
「簡単にはできない理由」
が潜んでいることが多い。
こちらは、だいたい感情ベースです。

水や空気は
人が生きるために欠かせません。
ものすごく有用で重要です。

でも、豊富にあるところでは
ほとんど価値として意識されません。

逆に、砂漠で水が無くなれば
水中や宇宙空間で空気が無くなれば
その価値は極端に高くなる。

つまり
「役に立つ」
だけでは
高い価値にはならない。

欲しい人がいて、
しかも簡単には手に入らない
そこに価値が生まれる。

もう一つあります。

既存の欲求を満たすこと
これはもちろん価値です。

でも
人がまだ知らなかった
「望ましい状態」を提示する
これも価値で
これはもっと面白い。

自動車が存在しない時代に
「自動車が欲しい」
と思う人はいません。

スマートフォンが存在しない時代に
「スマートフォンが無いから困る」
という人もいません。

存在しなかった価値を作る
とは
問題を解決するだけではなく

「こんな世界があったらいいのにな」
というビジョンを現実にすることです。

ものづくりで大きな価値を生み出そうとするなら
こちらの方が面白いと思っています。

では、どこまでやるのか?
それは次回のお話しで。

価値はどこにあるのか その1

「人は何を守るのか」
なんてことを考えていました。

で、これは同時に
価値の作り方の話でもあるのではないか?
と思いました。
そんなお話です。

このブログでは何度も
価値だの何だの言っていますが
これは単に
「お金儲け」
の話ではありません。

自身や、自分が生み出したものが
他人からどれだけ必要とされるか
ということです。

さて、まずは
労せずして作ったものの価値
について考えてみましょう。

例えば
私がやっている
生成AIを使ってソフトウェアを作る
なんてのは、
そういうものかもしれません。

以前なら、ソフトウェアを作るには
プログラミングの知識や技術が必要でした。

でも今は生成AIに頼めば
かなりのところまで作れてしまう。

大変便利です。

でも、誰でも簡単にできるようになれば
それ自体の価値は低下します。

生成AIによってソフトウェアの価値が無くなった
ということではありません。

「その程度のソフトウェアを作れること」
の希少性がなくなったということで
価値が低下した
ということです。

では
価値はどこへ行ったのか?

一つは上流でしょう。

生成AIを使って
ソフトウェアを作ることよりも
生成AIそのものを作ることへ。

末端のユーザーが
簡単に高機能なものを作れるようになった裏側では
それを可能にするための
途方もない技術開発が行われています。

末端が簡単になった分
価値の源泉が上流へ移動したとも言えます。

AIそのものについても
同様のことが言えます。

ひとたびAIが十分に高度になれば
人間がそれほど手を掛けなくても
AI自身が、さらに高度なAIを作る
そんな状態になる可能性があります。

そうなれば、
今度は別のところに
「簡単にはできないこと」
が生まれるでしょう。

例えば
AIをどう制御し
セキュリティをどう確保するか
(これは今まさに問題になっていますね)
正しい結果なのかをどう判断するか
何をAIに任せて
何を人間が決めるのか
などなど。

簡単になったところから価値が消えるのではなく
価値のある場所が移動する。
そういうことなのでしょうね。

続く