教育における「効率」の功罪

言われたらやる
言われなければやらない

これは大変問題です。
学校はもちろん、社会的にも。
もちろん、本人も。こんなやりかたでハッピーになれるわけはない。
だって存在価値が無くなってしまうから。

当然ながら、これは教育によるところが大きいと思います。
で、なんでこんなことになっちゃうの?というところですが、これは恐らく必然です。

人口が多くて発展する時期ってそういうものではないでしょうか。
高度経済成長とか。
そんな時に重宝されるのは、大量の「言われたことをやる人」でしょう。
そんな人材を効率よく量産するために生み出されたのが、現在まで続く教育システムです。

というわけで今日のネタ、いってみましょう。

この教育システムは、外的動機によって動きます。
本人(学生)の外部(先生)からの指示で、ということです。

そこでは、点数とか単位とかで評価されて、恐怖や報酬が与えられます。
しかし、「なぜ・何のために学ぶのか」は無い。

それ自体が悪いことであるとは思いません。
締切とか、要求レベルのクリアとか、そういったところに外的動機はある程度役に立ちますから。

問題は
外的動機一辺倒である
ということです。

だって、人は成長の度合いやスピードは同じではないし、各人が設定しているゴールも異なるのですから。

つまり、「個人最適」ではなく「集団平均」で設計されているのですね。
これがまさに教育の効率化ではないですかね。

この効率化を達成するためには

  • 同じ内容
  • 同じ時間
  • 同じ方法
  • 同じ評価

が必要です。

で、これをやると最大の敵が現れます。
それは
内的動機
です。

効率の良い教育システムは、内的動機を扱えません。
そんなものは、評価できないし、管理できないから。

外的動機が駆動する環境で、評価不能な内的動機を発動すると、先生を困らせてクラスで浮いてしまうでしょう。
なので、沈黙するのが得策です。
「これは言わない方が良い」と。
これは、学生側の「適応」であり「生存戦略」ですね。

結果として、外的動機一辺倒の環境に長く身を置いた学生は、内的動機を発動しない訓練を受けていると言っても良い状態になります。

そして、社会に出ると(もしくは出る寸前に)

  • 主体性が無い
  • 自分でゴールを設定できない
  • 評価が無いと動けない

などと批判されたりする状態になる。

これは個人の資質ではなく、構造が生んだ結果ですね。

現代教育の問題については、どうも外的動機に矛先を向けたくなってしまうのですが、どうもそのようなゼロヒャクでは無いですね。
動機付けの形式を一つしか持たないことでしょう。

ひょっとしたら、これから重要になってくるのは、自分で内的・外的動機の配分を調整できる仕組みでかもしれません。

夢工房では、メンバー各人の内的動機に依存している部分が大きいです。かなり。
しかし、活動の内容は、締切があったり、目標があったり、そういった外的動機がうまく組み入れられている状況です。
これは意図したものではなく、Formula SAEをやるというのは、そういうことになるのです。
うん、良くできていますね。

ところで、あなたの動機は何ですか?

「言われずともやる」は言うほど簡単ではない

分かっていることをやるのは仕事か?
できることをやるのは仕事か?
言われたことをやるのは仕事か?

それらは重要なことではあるけど、仕事を構成する一部であるのは間違いないでしょう。

例えば
良い仕事をするためには、色々知っている必要はある
それは間違いないでしょう。

でも
色々知っていると良い仕事ができる
というのは間違い。
逆は可ではない。

「知識」の存在そのものには価値は無い。
それをどうのように使うかによって価値は決まる。
行動とセットになって、初めて価値が生まれるということ。

色んなことを知って、色んな事ができるようになる
それは良いこと
知識は時として行動を助ける。

さて、研究開発は、「今は無いけどあってほしいもの」を現実にする仕事なわけです。
なので、今はできないことをやる必要があるし、今は知らないことを知る必要がある。

今はできないことができる、今は知らないことを知ることができる保証はあるのか?
まあ、保証は無いでしょう。
最初からできる保証があるなら、それは研究とか開発と呼べないでしょう。

で、そのための行動が仕事になるわけですが、大事なことを忘れてはいけません。
そういったトレーニングは学校ではなされていないということです。

学校における知識の獲得は外的動機によるものです。
「やれ」と言われて、やる
ということです。

そこには隠された「答え」がすでにあります。
なので「今は無いけど」ではありません。

「今は知らないけど」の対象となる知識も、一時的に隠されているだけです。
そしてそれは「大事だから覚えなさい」と外部からインプットされます。

そして
知識と行動を絡めてカタチにする
というトレーニングもほとんどされていません。

知識やスキルを外的動機によって手に入れて
それを用いる経験も十分で無ければ…

上司:「これできるか?(やってみるか?)」
部下:「いえ、やったことがないのでできません」

という、よく聞くパターンの発生は避けられないでしょう。

これ、正確には
「やったことがないことは、やりたくありません」
ということだと思います。
感情の発露ってヤツです。
重傷です。

いや、しかし、ヘタすると
やったこともないことを、やらせようとする会社はブラック
ということになったりして。
いや、すでになっていたりして。

これをいわゆる「教育」で修正するのは困難です。
というか、無理です。

いわゆる「教育」は、「言って」「やらせる」だからです。
やればやるほど強化されてしまいます。

「言われないでもやれよ!」
と言って、「やらせる」ことになります。
漫才みたいな状態になります。

とまぁ、ここまで偉そうなことを言ったところで
じゃぁどうすんの?
となるわけで。
そこが一番大事で難しくて、それこそ答えなんて無いのかもしれないけど。
それを試行錯誤して解決していくのがこれからの教育の課題となるのでしょうね。

ただ、夢工房においては、かなり良い方向を向いているのは間違い無いと思っているのです。

価値を生むもの

当然のことながら、「価値を有するもの」は、時代によって異なります。

就職活動をする学生達は、現在のトレンド(現在価値あるもの)にフォーカスして、知識や技術を習得したり、仕事を選んだりします。

これまた当然ながら、現在価値あるものは、過去においては価値が無かった、もしくは存在しなかったものです。

ついでに言うなら、現在価値あるものが、未来においても価値があるという保証はありません。
それを信じて未来を決定するのはギャンブルです。
一般的にそういう進路選定を「低リスクで安定したもの」とされるのは実に皮肉ですね。

つまり、どういう選択をするにせよ、リスクゼロなどというものは無いのです。

私が興味があるのは「価値を生み出す者」です。
そうなるためには何が必要なのか。

知識を伝授する場である学校においては

学業成績が優秀な者
高い学歴を有する者

が高い価値を生み出すと考えられています。
明確に言われることが無いにせよ、そういった価値基準を持っています。
現状は、です。

もっとも、そういう価値の元でないと、今の学業は成立しないでしょう。

確かに高い価値を生み出すために、そういった人材必要でしょう。
でも、そういった人材高い価値を生み出すのかというと、必ずしもそうは言い切れない。

既存の学校の「ものさし」に従うなら、最高学府において成績最高の者が、最大の価値を生み出すはずですが、決してそういうことにはなっていない。
クラスの成績順に高い価値を生み出せるかというと、決してそんなことは無いのです。
そんなことは誰でも分かっているでしょう。

何か凄い矛盾をはらんだまま、モヤモヤ進んでいるのが現状ではないでしょうか?

単に知識の質や量が価値を生み出すのであれば、AIが良いに決まっています。

生成AIが出現し発展する今後においては、知識の質や量の持つ価値は、これまでに対して大幅に低下するのはほぼ確定路線でしょう。

本当に価値を生み出す根源にあるのもは何なのだ?
という問題に対して真剣に考えるべき時が来ていると思います。

その辺を掘っていって、形にしていくのが今年のテーマです。