成長のための「反省」

「反省」とは何か?

やってしまったことに対して、ガッカリして、落ち込んで、悲しい思いをして下を向くことではない。
まして、謝罪することでもない。

そもそも、他人に言われてやることではない。

学校教育では大抵、「怒られる」がセットになって刷り込まれていて、評価者が望む反応を取ることが習慣となっている。

一般的に評価者が望むのは、当事者をケアしたり、責任を取ったりという、同じ迷惑、面倒を二度と被らないこと。
つまり、評価する側の満足のための行動。

そこで求められるのは、消極的になることだったりする。

「反省」とは
なぜそれが起きたのかを省みること。

なぜ反省が必要か?
それは
起きた出来事と結果
つまり
経験を、より良い未来とするための行動の糧とするため。
つまり、積極的になるための材料として反省を使うべき。

そう考えれば、失敗は恥でもネガティブな経験でもなく、むしろチャレンジのための武器になるのだ。

カンニングで何とかなる教育…でいいの?

知識は大事です。
そして、いつの世も変わらず大事なことでもあります。
それら”だけ”が大事だと思う人がいても良いとも思います。

伝統的な技能・技術を継承する人達とか、各地の先住民など、旧来の文化や暮らしを守り続ける人達に対しては、興味があるどころか大いに敬意を持っています。

まず、これらを最初に言っておきましょう。

しかし、新しいものをつくることを仕事にするなら話はちょっと違ってきます。

どうも最近は、ゼロヒャク思考というか、極端で、学力が高いのが良くて、低いのが悪いとか、多くのものを単一の物差しで測る悪癖が蔓延っている気がします。
いや、昔からか。

これ、結構恐ろしいことですよ。
多様性を失うと、滅んでしまう可能性が高い。

多様性うんぬんとか言うと、移民問題はどうなんだ?みたいな話になりがちですが、その辺も程度問題というか、何のためにどうするのか、といったことを考慮したり試したりすべきで、それが無ければカオスになるでしょう。

おっと、話が冒頭から脱線気味です。
今回のネタはこちら。

ネットのある記事で
とある国では、スマートグラスを使ったカンニングが問題となっている
という記事を見ました。

大学の教員になった20年以上前から思っていることですが…
そもそも、知識がほぼ無料で手に入り、高速なネットワークに繋がり、電子的なストレージに大量に格納できるこのご時世に、「知識をどれくらい覚えているか」という指針で測れる能力“のみ“を、しかもペーパーテスト”だけ“で評価すること自体がナンセンスなのでは?

社会において、そのような能力が必要とされるシーンがどれだけあるのでしょう?
私は思い付きません。

あ、いわゆる「士業」と呼ばれる仕事には必要な能力なのかな。
あとは公務員とか?よく分かりませんが。

学校の先生なんかは、知識の出し入れが仕事なのかもしれません。
提示して、理解させて、覚えさせて、それを吐き出す精度を定量的に評価するだけで良いなら、それは機械にやらせた方が良いと思います。
教育に効率を求めるなら、その方が圧倒的に良いでしょう。

ただ、そういう教育によって育成された人材を労働力として採用するなら、代わりにパソコン買った方が安いし良いよな、となるでしょうけど。

少なくとも、エンジニアをはじめ、クリエイティブな仕事をする人は、そういった知識の出し入れだけでは仕事はできないわけで…
だって、「知識」というのは総じて古いわけで、それを単にアウトプットするだけで、新しいものができることはありませんから。

では、何が「新しいもの」を生み出すのか?

それが簡単に分かったら、教育について悩むことなんてないでしょうし、そもそも時代の流れと共に変化するものなのかもしれません。
が、少なくとも「知る」だけではありません。
「やる」から分かることが重要。

そもそも、「新しいもの」を生み出すためにはチャレンジが必要なのですが、その教育課程でチャレンジが無いってのは矛盾ではないかと思うのです。
そして、不確定な未来、つまり正解が無い世界で、「やる」の結果を定量的に評価するなんて土台無理な話です。
ということを考えると、学校におけるゴールが、定量的な評価(点数)であること自体が問題ではなかろうか?とも思います。

知識の価値が低下しているということであれば、我々はその先に行かなければなりません。
それが何かというのは、チャレンジしながら模索する必要がある。
もちろんそれは、教える方も、教わる方も。
そういう教育が必要です。

でも、それは簡単には実現しません。
我が国の場合、うまくいくエビデンス(証拠)とか保証が無いとシステムの変更はしないでしょう。

「新しい教育」にチャレンジしようとき、当然ながらそれは新しいわけで、うまくいく証拠も保証も無いのです。
なので、保護者も教員も、学生自身も、多くは同意しないでしょう。
そして、現状を維持することになる。
せいぜいできるのは、授業の科目を換えたり増やしたり「手段」の変更くらい。

知識はいつの世も重要。
しかし、もっと重要なのは
何のために、それをどう使うか。
知識は使うためにあるのだから。

本質的な部分の変化が必要な時代がやってくる気がします。

「安定」は危険 ストレスは「敵」ではない その2

成長するにはストレスは欠かせない、重要な要素なのですよ
というのが今回のお話し。

「ストレスフリーな社会を…」
とか聞いたことありませんか?

ストレスなく、安定した社会を目指したところで
必ず「想定外」がやってきます。
そんなのは歴史を紐解いても簡単に分かることです。

仮に我々の社会が理想の状態になったとしても
いつかは自然災害や、何かしらの外乱にさらされます。

その時に何とかする力が無ければお終いです。

その「力」は、ストレスフリーで安定した環境で、どうやって手に入れるのでしょう?

たぶん無理です。
だって「想定外」だから。
事前に想定できないのが「想定外」で、想定できないものに対しては準備なんてできません。

後になって、ああだこうだ言うことはできます。
「あの時、こうしておけば良かったのだ!」
なんて。

「反脆弱性」に、分かりやすい事例が提示されています。
※以下も原文ママではありません。要約です。

タイタニックは沈没した。
しかし、そこから得られた知見によって、船はより安全になった。

今まで何機もの航空機が墜落している。
しかし、それによって航空機はより安全になっている。

こういった事故によって多くが犠牲になったが、そこで得た経験によって、その何倍もの人を救っているといえる。

なるほど。これは分かりやすい。
それぞれの事例では何が起きているかというと…

  • 巨大で豪華な旅客船「タイタニック」を作って運用してみた
  • 空飛ぶ機械「飛行機」を作って、沢山の人を乗せて飛んでみた

というチャレンジをした。
当然、作って運用する段階で、そんなトラブルが起きるなんて想定していなかった。
そして、「想定外」が発生した。
起きたことは、外部から見れば「失敗」ということ。
これがストレスです。

そこでの知見を使って、より安全な構造の実現や運用が可能になる。
そうやって、進化、成長、強化されていく。

しかし、いつか必ず新たな「想定外」という名のストレスが発生する。
しかし、ストレスに抗って対応する度に成長する。

大事なのは、発生するストレスが、母体を崩壊させるほどのインパクトを持たないようにしていくことでしょう。

すぐに対処せず放置すると、ストレスは長期的に蓄積して解決不可能となり、より大きなものを破壊して崩壊してしまいます。
なので「先送り」(すぐやらない)は、想像以上に破壊力を持っています。

例えば、事故後に対処しなければ
飛行機や船なんて、何が起きるか分からないのだから、運用すべきでない
とかなりますよね。

うん。乗り物の例は分かりやすいですね。
いつの世も、クルマも飛行機も船も、絶対安全で完璧なものなんて無いのです。
常にストレスと対峙して成長してきました。

大事なのは、チャレンジして、失敗して、その経験を活かすループを回し続けること。

失敗もストレスも、決して悪いものでは無く、成長のためには欠かせない要素です。
チャレンジの際のリスクは、排除するのではなく、対処可能なレベルにコントロールするべきものです。

チャレンジしない「安定した状態」では、リスクに対応できない状態になって、いずれ絶滅する運命となるのは、生物の進化を見ても明らかでしょう。

「安定」は、思いのほか危険で
「ストレス」は、思いのほか重要なのです。