学び方について

例えば
大学の機械科というと
理工系の中でもかなり絞られた専門的な内容を学ぶような印象がありますが
結構幅広く、機械全般に関して学びます。

最近では、4力(よんりき)が大事だとか言います。
「材料力学」
「流体力学」
「熱力学」
「機械力学」
の4つの力学のことです。

ちなみに、私が学生の頃には、そんなことを聞いたことはありませんでした。
アホだったから記憶に残らなかったのか?

疑問に思うのは
それら全部をバランス良くできなければいけないのか?
ということです。

もちろんそれでも良いでしょうし
そうしたければすれば良い。

でも、もっと絞り込んで先鋭化しても良い気がします。
というか、そういうやり方があっても良いのでは?

というのも
「4力をバランス良く…」
というのは、今やあまりに汎用的で
いくらバランス良くても
特に何かができるようには思えないからです。

色々な分野で潰しが利くのかもしれません…
いや、どうかな。

勉強ができても仕事ができるとは限らない
というか
勉強ができるイコール仕事ができる
じゃないからなぁ。

正直なところ
大学のテストをクリアできるレベルの学力を
バランス良く維持し続けているエンジニアは
ほとんどいないと言っても良いでしょう。

なので
もっと何かに特化しても良い気がします。

だって、社会に出れば
色んな分野の専門家がいて
相互に力を提供しあうのは当然だからです。

それに
仮に、もっと何かに特化したら
他の分野に対応できないのかというと
そうでもなかったりするのではないかと思います。

何かに特化して
自ら学べるようになっていれば
同じように必要な周辺知識は自分で獲得できるでしょう。

社会人はそうやって学ぶのですから。

自分が本当に専門としたいところを押さえたら
他は概念だけ分かっていれば良い
そんなやり方があっても良いと思うのです。

それよりもむしろ
実際に手を動かして
創出のプロセスの経験とか
チャレンジの経験とか
改善の経験とか

そういったことに絡めて色々学べば
定型的なもの以外にも経験知とか
それこと考え方、受け止め方
などなど
色んな事が手に入るのですけどね。

色々できないと心配だ
というなら
リソースを広く分散したやり方をすれば良い。

本当にやりたいことを仕事にしたいなら
本当に必要なことにリソースを集中できる環境があっても良いのでは?
と思うのです。

成功よりも失敗が重要なわけ

強くなること
賢くなること

よりも

倒れても
崩れても
そこから力強く立ち上がる

その方が重要です。

というのも
新たなチャレンジをすれば
当然失敗もするわけで

その度に強くなるなら
より大きなチャレンジができるようになるからです。
当然ですね。

失敗を避け続けると
失敗を避けることが目的になりがちです。

もし
失敗を避けながら
実力を付けて
いずれその時が来たら…
と思っているなら

残念でした。
恐らく「その時」は来ません。

理由は簡単で
失敗を避けることが目的化すると
それが習慣となります。

一度習慣になってしまうと
それは深層心理にセットされて
無意識下で自動発動します。
習慣とか癖というのはそういうものです。

無意識下にあるものは意識できないので
自覚できません。

まだあります。

失敗を避けるマインドは
否定を嫌います。

なので、評価者とのコミュニケーションが最低限になります。
自分から評価を求めることは無くなります。

すると
現状が分からず
どうしたら良いかも分かりません。

守りに入って
受け止めて
という消極的な姿勢で
我慢の連続になる。

その状態から脱出することは極めて困難でしょう。

なので恐らく
「その時」は来ません。

さてさて
では、どうしたら良いでしょう?

それは実にシンプルで
何度も言っているように
諦めたくない好きなことをやるしかない
そう思ってます。

それで失敗したらどうするの?
って?

いやいや
そう考えちゃうから困ったことになっちゃうのですよ。

教育ママの話

ずっと気になっていて記事にしたかったのですが
誤解を招きそうで躊躇していたことを今回のネタにしてみます。
これを書かないと次に進めない気がしたので。

今、下巻を読んでいるナシム・ニコラス・タレブの著作、「反脆弱性」(原題:Antifragile: Things That Gain from Disorder)にあった以下の内容がとても気になっています。
まさに日本における教育の危機の根底にあるのはこれではないかと思うのです。
タレブが書いているのだから、恐らく欧米先進国における共通の問題なのでしょう。

部分的に引用します。

かつて、生物学者で知識人のE・O・ウィルソンは、子どもの発達をいちばん阻害するのは何かと訊かれて、教育ママだと答えた。
彼はプロクルステスのベッドという概念こそ使わなかったが、見事に同じことを言い表わしていた。彼は、教育ママが子どもの本能的な生命愛を阻害していると訴える。
だが、問題はもっと根深い。教育ママは子どもの生活から試行錯誤や反脆さを取り除き、子どもを生きた世界から遠ざけ、(自分の思い描く)現実の地図どおりに動くオタクへと変えてしまう。優等生だけどどんくさいヤツ、ひと言でいえば、動きの遅いコンピューターだ。彼らは、あいまいさに対処する訓練も受けていない。

プロクルステスのベッド Wikipediaより

これ、簡単に言うと、いわゆる教育ママが我が子を心配して、自らの価値観と経験をベースに、子供に具体的な行動を指示したり制限したり強要することによって残念なことになっている、ということですね。

「教育ママ」とは言っていますが、別に性別は関係ないでしょう。
パパだって先生だってやってますもの。

ただ、昔はこういった「心配」という感情ベースでの教育は主に母親がしていて
父親は「そんなの放っておけ」「好きにやらせたらいい」みたいなケースが多かったのではないかと思います。
その両方があってバランスが取れていたのではないかな。
ま、家庭によるのでしょうけど。

ともかく
このようなケアというか指導というか
それらは我が子を守り導くという
愛情に端を発するのは間違いないでしょう。

学校の場合は、似たような動機があったり
業務上の都合があったり
そんな風にやっておけば無難だろう
というのがあるのかもしれません。

少なくとも
教育ママと同じようにやれば
教育ママからクレームは来ないでしょう。

良い学校に入れて
良い会社に入れて
安定した人生を歩ませたい

ということです。

そもそも
いわゆる「良い学校」や「良い会社」に入っただけで
安定できるのか
というのは大いに疑問ですが。
特にこれからの世の中では。

安定したら、それは幸福なのか?
というのもありますが
その辺は価値観の問題ですかね。

ともかく問題は
守れば守るほど弱くなってしまう
指示すればするほど考えられなくなってしまう

失敗させたくない
遠回りさせたくない
傷付いて欲しくない

という気持ちは理解できますが
それらは全て
成長するためには絶対に必要な経験です。