今日は縄文ツーリング

今日は卒業生とツーリングです。
今回のテーマは縄文の遺物。
山梨から長野にかけて博物館を回ります。

目的地は
山梨県内では
釈迦堂遺跡博物館
山梨県立考古博物館
北杜市考古資料館

長野県に入って
茅野市尖石縄文考古館
といったところ。
全部回るのはは無理かな。

高速道路は渋滞しているでしょうから、下道のワインディングでトータル400kmくらい。
これはなかなかタフなツーリングになりそうです。

結果として、こんな感じのルートになりました。

今回のお供は、卒業生の大橋君。
とある産業機械の開発で、世界征服を狙う男。
普段は兵庫にいますが、この連休で実家に帰ってきており、そのタイミングでの同行となりました。

大学集合で、朝7時に出発。
中央道は渋滞してるでしょうから、奥多摩経由で山梨に抜けます。

まずは釈迦堂遺跡博物館。
ここは、中央道の工事の際に、広大な縄文の遺跡が出てきちゃったので、その時発掘された遺物を収蔵しています。
数も質も凄まじいです。
一口に縄文の遺物とは言っても、多種多様なだけでなく、大変レベルの高いものがあってビックリです。

続いて、長野に北上して、茅野市尖石縄文考古館。
ここは国宝級の遺物がたくさんありました。
当然ここも凄い。

帰りは国道299号を通って埼玉へ。
「酷道299号」と言われるだけあって、なかなかタフな山道でした。
その後は秩父の林道を抜けて、トータル393kmで帰宅。

今日一日で
埼玉
東京
山梨
長野
群馬
そして埼玉
山梨-長野間だけ60kmほど高速を使いましたが、他は全て下道…どころか、舗装の林道でした。
いやー、疲れました。

チャレンジは非対称性を持つ

失敗は皆の嫌われ者。
だけど、多くが失敗を理解していないというお話しです。

一般的に
チャレンジして、成功すればプラス側にカウントされる。

では、失敗すると逆に何かが奪われてしまうのか?

実は何も奪われることはない。

すでに持っているものを奪われるようなことはないし
今できていることができなくなるわけでもない。

新しい知見が得られるという意味では
成功しようが失敗しようがプラスにカウントできる。

成功すれば得られる
失敗すれば失う
のであれば、それは
対称性を持つ
ということになるのだけど

チャレンジの実際では
やれば得られる
失敗しても失うわけではない
むしろ、それでも何かを得られる
というように
非対称
なのですね。

ただし失敗した時に
ネガティブな見方をしてしまうと
得られるはずのものも見えなくなってしまう
という点には注意が必要です。

要は、受け止め方次第
つまり、自分次第ということです。

ちなみに
チャレンジしなければ失うものはありません。
しかし、得られるものは何もない
ということになります。

循環させるべきもの

「循環型社会」と聞くと
一般的には、資源やらエネルギーやらを指しますよね。

でも、それ以前に循環させるべきものがあるのではないか
というのが今回のお話し。

経済の低迷
情勢不安
などなど
色々あって
なんかしっくりこないというか
ザワザワするというか…

それらの根底に共通の原因があるような気がしなくもない。

それは
利己的な社会になってきているから
ではなかろうか?

これは
価値の循環が止まるとうまくいかないのではなかろうか
ということなのですけどね。

ここで言いたい
というか
このブログで言っている「価値」とは
お金(マネー)に限らず
もっと根源的なものです。

本来
創造して提供した価値の大きさに応じて対価が払われ
受け取った対価を他の価値に払う
そうやって価値が循環して社会は回るもの。
まるで体内の血液の流れのように。

ところが
その流れを構成する一部が
恐怖とか欲得とか
はたまた怠惰とか
何かしらの理由で利己的になり
自分の手元で価値の流れを止める

流れが滞ることにより不健全になり
それによって恐怖とか欲得とかが増幅・増殖して
ますます流れが滞る

そういったことが起きているのではないだろうか。

本来、我々の社会は
相互に依存しないと成立しないのだけど…

物質的に豊かになって
便利になって
他に依存せずとも生きられるような(気がする)
かつては「理想」とされた状況になって

「社会に価値を提供する共同体」だったはずの企業が
いつの間にか「利益を最大化する装置」となり

個人も
「社会に何を提供できるか」より
「自分が何を得られるか」
を優先できるようになって

価値を循環させるのではなく
手元に貯め込むことが優先されている。

それはもちろん
循環させなくても、すぐには破綻しないから。

であれば、そうなるのは当然なのかもしれない。

でも、じっくり破綻に向かっている気がする。

それらを一挙解決!とはいかないまでも
状況をちょっとだけでも改善できないだろうか
と思うのです。

そんなことを考えながら感じているのは
恐怖でも怒りでも絶望でも無く…

こりゃ面白いことになってきたぞ

だったりするのは不謹慎でしょうか。