寺子屋はどうだったのか?

何となくなのですが、江戸時代の「寺子屋」にヒントがありそうな気がするのです。
江戸時代、庶民の子どもに読み書きを教えた教育機関です。

教科書では
読み・書き・そろばんを教えるところ
くらいしか情報がありませんでしたが…いや、それは私が覚えていないだけ?
ともかく、ちょっと深掘りしてみましょう。

どうやら誰でもウエルカムだったわけではなく、地域・師匠・家業・身分・目的ごとに最適化されていたようです。
つまり、これはどういうことかというと、寺子屋で学んだ後の仕事が明確で、それに合わせて即戦力となるための教育がされていたわけです。

そして、こんな特長も。

  • 年齢でクラス分けはしない
  • 学年は存在しない
  • 同じ教材は使わなかったりする
  • 近所の子が集まる

要は、一つの部屋に色々な子がいたのですね。
そんな環境だから自然と「年上が年下を助ける」なんてことになるようです。
出来の良い弟子が師匠を手伝うとか。

で、師匠は巡回したりして、添削したり口頭で直したりして、できたら次に進ませる、なんて感じだったようです。

  • テストは無い
  • 成績表は無い
  • 競争より習熟
  • 卒業は明確でない

なんて感じだったようです。
というのも、師匠が出来映えを見て、「これなら十分だ」と思えばOKなわけです。
もちろん実践的な能力に対する評価です。

というのも、寺子屋の目的は「立身出世」ではなく

  • ちゃんと奉公できるか
  • 商売を継げるか
  • 近所で信用されるか

が、重要で、評価軸は一貫して
「共同体の中で機能するか」
です。
要は、即戦力となり得るか?です。

もちろんそれは

  • 社会が「できる人」を必要としていた
  • だから子どもは自然に学ぶ理由を持った
  • 教える側も「過剰に教える意味」がなかった

という背景があるわけで。
言ってみれば、主体性が「育てられた」のではなく、主体性が「必要だった」のですね。

教育も変わるしかないでしょう

大量生産、大量消費、高効率は終わり
少数、高付加価値へシフト
それはますます加速していく

そんな社会の変貌に合わせて、求められる教育の姿は?というのは大変興味深いところ。
そもそも、今の教育のプロセイン型のシステムは現在の我が国に合っているのか?今後もそのままで良いのか?
これが本質的なところです。

まぁ、考えるまでもなく、このままで良いはずは無い。
いつか変わる時が来ます。

でも、簡単には変わらないでしょうね。
「それが本当に正解なのか?」
「それでよくなる保証はあるのか?」
「リスクは無いのか?」
なんてことになるでしょう。

変化はチャレンジであって
チャレンジである限り試行錯誤することになります。
もちろんそこにはリスクを伴うので、堂々巡りになりそうです。

全員に対する絶対的な正解なんてありません。
世の中が変化するならなおさらです。
人は簡単には変わらないから。
価値観を変えるのは難しい。

ただ、追い込まれたら変わらざるを得ないでしょう。
もしくは、「変えろ」と命令されたら変わるでしょうね。

でも、考えられることは考えて、試せることは試しておくべきでしょう。

いつやるか?

「やりたいこと」が「やるべきこと」になったらスタートしよう。

いつかそのうちやろう
なんて思うかもしれないけど、きっとそんな時は来ない。

自分がやりたいことをやったことがある人の話は参考になるかもしれないけど、当然ながら、やったことも無い人の話は参考にならない。

他人のアドバイスはありがたいかもしれないけど、自分と他人は違うのだ、という前提を忘れないように。

結局のところ、自分が信じたものが一番大事だということ。

やりたいことをやった結果、後悔するかどうかは分からないけど、きっと成長する。
やるとわかること、やらないと分からないことがあるから。
その経験はきっと活きる。

やりたいことをやらなかった後悔は、絶対にどうにもならない。
やらないことによって得られることは無い。