教育って何なのだ?

似たようなタイトルの記事はすでにありますが
やはりどうにも気になってしまうのですよ。

教え育む
と書いて「教育」

学校では教育をするのですが
「教育って何なのだ?」
と、考えることが良くあります。

言って
やらせる
それが教育である

そういう側面もあるでしょう。
特に義務教育の内容などは
そういうのがあっても良いのかもしれません。

けど、それだけで良いの?
その後もそれで良いの?

言って
やらせる

その結果
言われたことができれば
それは「できた」ということで

上手にできれば
「優秀」
ということになるでしょう。

やるべきことは指示される。
指示されたことができれば良いし
指示されたこと以外はやる必要は無い。

恐らくこれが
効率の良い教育ですよね。
で、多くがそれを望んでいるでしょう。
でしょう?

想定外・範囲外・規格外

そういうのが含まれていると
効率が悪い
とか
失敗だ
ということになりますね。

気になるのは
想定するのも、範囲や規格を決めるのも
自分ではない
というところなのですよ。

そしてもちろん
失敗をハンドリングする経験は得られない。

そんなルールのもと
小学校、中学校、高校、大学
と、16年間も訓練されます。

22歳の大学生なら
人生の70%は
言われたことをやる
という環境だったということです。

指示されたことをやって
さらに
すでに答えが決まっているなら

別に自分じゃなくてもいいんじゃないの?
さらに
そんなのやる必要あるの?

と思っちゃっても無理ないんじゃないかな
と思うのだけど
どうなのでしょうね?

そういう理由もあって
近年、不登校の児童が増えている
ってのもあるのではなかろうか?
と思ったりもします。

まあ、そんな風に思っちゃうのは
私が人一倍お勉強が嫌いで
指示されれるのが嫌いだったからかもしれませんけどね。

誤解が無いように言っておきますが
業務としてのゴールを提示されるのは
まだ良いのですよ。

何がイヤって
手段まで拘束されるのがダメなんですよね。

本当は、ゴールも手段も自分で決めたい。

では、そのゴールや手段に関する知識は
どこからどうやって手に入れるんだい?
という話になりますが。

続く

持っていたって出せなきゃゼロ

知っているだけではダメ
それで何ができるかが問題。

これはクルマで説明すると分かりやすい。

もの凄く強力なエンジンが搭載されたクルマでも
タイヤのグリップがゼロなら
クルマは全く前に進まない。

馬力はそこそこでも
タイヤのグリップが強力で
エンジンのパフォーマンスを使い切れれば
結構速いものです。

小排気量のマシンで狭いサーキットを走ると
大排気量のマシンより速かったりします。

持てるものを
どれだけ使い切れるか

さらに言うなら
何のために
どう使うか

そういう考え方も大事です。

学力が、成績が全ての学生に
そんなことを言ったら
身も蓋も無いかもしれませんが
実際そんなものです。

持てるものを使い切る
そんなことを繰り返していくと
戦闘力が上がるのですよ。
面白くもなりますしね。

多くは、そうなる前に
入り口でつまずくと
そこでやめちゃったりすることが多いですが
まあ、そんなものです。

利己的ではうまくいかないわけ

価値の話の続きになるのですが
どういう状態が価値が無いのか
どうしたら価値を失うのか
それを考えると方向性が見えてくるのではなかろうか
というのが今回。

今の日本は、かつてに比べて利己的になっていると思います。

例えば
「お国のために」
なんて言っている人はおかしい人
って感じでしょう?

自分の事ばかり考えているのが普通。
もちろん私も人のことは言えませんが。

それが常態化してしまっているのが問題で
そうなってしまうと、なかなか気付けません。

現状はどうなっているのか?
なぜそうなってしまったのか?

これらを考えることによって
どうすべきか
が見えてくるのではなかろうか?
と思いました。

思い付くところをざっと挙げてみましょう。

1.豊かさが共同性の必要性を下げた
助け合わなくても、サービスを買えば生活できる。
すると、他者への想像力を使う場面が減る。
相手がどう思うかを考える必要が無くなるのですね。

2.競争と評価が個人単位に細分化された
学校でも会社でも
「自分の成果」
「自分の点数」
「自分の市場価値」
が強調される。
すると、価値の循環より
個人の最適化に意識が向きやすい。

3.便利さが待つ力や関わる力を弱めた
すぐ手に入る
すぐ答えが出る
すぐ評価される
これは便利で快適ですが
他者と時間をかけて構築する力とは相性が悪い。
価値の循環は、本来かなり泥臭くて遅いものです。

4.失敗や摩擦を避ける文化が強くなった
失敗を掘り返して、そこから学ぶことが成長に繋がるのに
今は失敗しないことが優先されやすい。
すると、他者とぶつかりながら価値を作るより
自分の安全圏に閉じる方が合理的に見えてしまう。
「失敗してナンボ」
「困難を打破するチャレンジが成長につながる」
という感覚とは逆方向です。

戦後の発展は、個人を貧しさや不便さから解放しました。
しかし同時に、個人を共同性からも解放しすぎた。
そういうことではないでしょうか。

自由になった。
便利になった。
快適になった。
でもその結果
「自分は何に支えられているのか」
「自分は何を返しているのか」
が見えにくくなった。

で、利己性が発動するのだけど
そうなればなるほど
求めるばかりになって
価値を発することが難しくなって

こんなに強く求めてるのに
何で手に入らないのだ!
みたいな
訳の分からないジレンマに陥るのではないでしょうか。