やりたくない人は本当にダメなのか? 2

「やる気が無い」

これは色々あると思うのでが、大きく分けたら二つでしょうか。

  • そもそも本当にやる気が無い
  • 何か理由があってやりたくない

そもそもやる気が無い
そういうケースもあるでしょう。

そういう状態は、本人の責任ではあるのでしょうけど
そういう価値観は環境によって作られるのだと思います。

でも、価値観は人それぞれなので
全員があらゆることに対してやる気満々ってのもありえないわけで
そういう人もいるのは当然。

で、ありがちなのが
何か理由があってやりたくない
ですね。

取り組むテーマ自体に対して準じることができないかもしれないし
やり方の問題かもしれない

これまた色々あるでしょうけど
やはり教育としては「取っ掛かり」をどうするかが大事だと思うのです。

高度経済成長期や戦時なんかは
似たような能力を持つ人が大量に必要なので
「いいから黙ってやれ」
というのが正解なのかもしれません。

しかし
先が見えないご時世や
ある程度文化レベルが上がってくると話は別でしょう。

いや、文化レベル云々は自信が無いな。

ともかく、アイデアや高い付加価値、独自性や差別化が必要となると
「皆と同じ」というわけにはいきません。

これ、社会からのニーズもあるでしょうけど
本人が
自分で考えてやってみたい
とか
言われたことをやらされるようなのは嫌だ
となると
「いいから黙ってやれ」
は非常にキツイでしょうね。

とか言いながら
「いいから黙ってやれ」
も、ある程度必要だとも思っていたりします。

それは、ストレス耐性を得るため。

でも、ストレス耐性ばかり強化されて
我慢しっぱなしが平気になってしまっても
それは本人にも社会にも良くないでしょうね。

なので、「いい塩梅」が重要なのでしょうけど…

とか思ったりもするのだけど
そもそも、教育のシステムがもっと色々あってもいいんじゃないの?
とも思うのですよ。

色んな学校があるのだけど
内容は違えど、やり方は同じってことになってるんじゃないのかな?

言われたこと(だけ)やって
テストされて
点数(だけ)で評価されて

この経験、社会に出たらどれだけ役に立つのでしょうね。

じゃ、どうしたらいいの?
と言われると…
うーむ。
難しいなぁ。

けど、問題の核心の一つは、この辺にあるのではないでしょうか。

やりたくない人は本当にダメなのか?

たぶん、恐らく学校で仕事をしている教員の多くが思うことはこれ。

もっとやる気を出してくれたらなぁ

でもね、やりたくないことをやらせる前提で教育が設計されているのが
そもそもの問題ではないでしょうか。

そんな気がすること、ありませんか?
私はありますよ。

反面
そういう経験も必要だよね
と思うこともありますけどね。

やりたいくないなら、やらなければいい
とも思います。
そうして、どうなるかを知るのも学びでしょう。
正直、この考え方は時として少々残酷な気もします。

まぁ、「やらない」方はこの際置いておいて
もっとやりたいことができるチャンスが必要だよね
というのが考えるべきところです。

夢工房で頑張っている学生達が
もっともっとやりたいことができるように
というのはもちろんですが

「やりたいことが見付からない」
と思っている学生達も
ゴールのセットとチャレンジができる機会が作れると良いなぁ
なんて思うのです。

でもこれ、けっこう難しい問題なのですよね。
その辺を今後、ちょこっと考えてみましょうか。

たぶん続く

必要になったときにしか人は学べない

やりたいことをやってみて

「うーむ、分からん
けど何とかしたい!」

ここで学べば良いと思う。

なので
「何とかしたい!」
と思えるようなことに取り組むことが前提です。
これは超重要!

で、行き詰まったピンチの時に
それぞれ必要な事に対応する専門家から学べたら最高だと思うのです。

学校には、それを実現するためのリソースはあります。
ただ、本当に自分が欲する時に、必要な専門家から教えを請う構造にはなっていません。

各人それぞれのやりたいことには対応できず
必要かどうかにかかわらず、全員に同じような知識が供給さる構造。

教える側からの視点では高効率化されていますが
教わったものが本当に身に付いているわけではない
と言う意味では低効率ではないでしょうか。
テストが終わったら忘れちゃうものね。

それに、そのような環境で受け身の姿勢を身に付けた結果
自ら学ぶ”エンジン”は手に入らないでしょう。

教わるが分からしたら
最も必要な時に必要なものが手に入る
となっていれば高効率です。

必要に迫られたときに手に入れて
実際に使った知識は忘れません。

もちろん基本的なことを知っておく必要はあります。
なので、受動的に多くの「知識」を身に付けるのも大事でしょう。
(義務教育レベルの内容は、誰もが知っておくべきことでしょう)

しかし、何のためか分からない状態で
とにかく沢山知っておくことが良いかというと…

人にもよるとは思うけど、それでは動機が不十分で
結果として教育の効果も中途半端になるのでは?

最も必要な時に必要なものを手に入れる学びは能動的で
結果として、多くの「学び方を」を身に付けることになります。

ただしこの場合、従来のような
何に使うか分からない難解な学問
を手に入れる機会は最小限になるでしょう。

けど
「自ら学ぶためのエンジン」を手に入れられるわけで
そういうのもアリなのではないかな?
と思うのです。