ルールだけじゃ変えられない

なぜ、何のためにルールがあるか?

それは
何かをやらせるためだったり
何かを禁じたり
…のためです。

組織があれば、何かしらルールがあったりするものです。
その組織の目的を達するためだったりするわけです。

では、高い目標に到達するために、細かいルールで緻密に行動をコントロールしようとするとどうなるか?

結果として何が起きるかは分かりません。
ひょっとしたら、短期的にはうまくいくかもしれません。
それは、ルールを作った人の思惑に対して、ということですが。

しかし、そのルールに沿って動く人自体はどうなのか?

言われたことをやる人になります。

それは良いのかもしれませんが、同時にに失うことがあります。
それは

自分で考えること

それを失います。
なので、長期的に見ると、あまりハッピーなことにはなりません。

細かいことを言うと
ポジティブリスト
というものがありまして…

これは、やるべき事を明確化したリストです。
行動する者は、このリストに従って動く。
リストに無い余計なことをしてはいけません。

この反対もあります。
ネガティブリスト
これは、禁止事項を明確化したリストです。
行動する者は、このリストに背かなければ何をやっても良い。
もちろん、目的を達するために、です。

さて、我々がルールとか規則と聞いた時、どんなことを想像するか?
大抵はポジティブリストです。
要は、そういう機会が多いということです。

では、どういう場合にネガティブリストが利用されるのか?

夢工房の学生達にとっては
競技規則(レギュレーション)です。

これに反しなければ、どのような手段を取っても良い。
いわゆる「ルールの隙を突く」といったようなことですね。

言うまでも無く、日本人はそういうのは苦手です。

で、これは、レースのみならず、「良いもの」を作ろうとした時、とても大事になる考え方です。
だって、世に無い新しいものにはルールは無いから。

そう、そういう思考を伸ばすには、レース、しかも、ものを作るのが動機として最適なのです。
ルールでそれ(マインド)を変えようというのは、無理というか、本末転倒というか…。

根底にあるのは…主体性とかパッションですから。
そりゃ、ルールじゃどうにもなりません。

成長のための「反省」

「反省」とは何か?

やってしまったことに対して、ガッカリして、落ち込んで、悲しい思いをして下を向くことではない。
まして、謝罪することでもない。

そもそも、他人に言われてやることではない。

学校教育では大抵、「怒られる」がセットになって刷り込まれていて、評価者が望む反応を取ることが習慣となっている。

一般的に評価者が望むのは、当事者をケアしたり、責任を取ったりという、同じ迷惑、面倒を二度と被らないこと。
つまり、評価する側の満足のための行動。

そこで求められるのは、消極的になることだったりする。

「反省」とは
なぜそれが起きたのかを省みること。

なぜ反省が必要か?
それは
起きた出来事と結果
つまり
経験を、より良い未来とするための行動の糧とするため。
つまり、積極的になるための材料として反省を使うべき。

そう考えれば、失敗は恥でもネガティブな経験でもなく、むしろチャレンジのための武器になるのだ。

カンニングで何とかなる教育…でいいの?

知識は大事です。
そして、いつの世も変わらず大事なことでもあります。
それら”だけ”が大事だと思う人がいても良いとも思います。

伝統的な技能・技術を継承する人達とか、各地の先住民など、旧来の文化や暮らしを守り続ける人達に対しては、興味があるどころか大いに敬意を持っています。

まず、これらを最初に言っておきましょう。

しかし、新しいものをつくることを仕事にするなら話はちょっと違ってきます。

どうも最近は、ゼロヒャク思考というか、極端で、学力が高いのが良くて、低いのが悪いとか、多くのものを単一の物差しで測る悪癖が蔓延っている気がします。
いや、昔からか。

これ、結構恐ろしいことですよ。
多様性を失うと、滅んでしまう可能性が高い。

多様性うんぬんとか言うと、移民問題はどうなんだ?みたいな話になりがちですが、その辺も程度問題というか、何のためにどうするのか、といったことを考慮したり試したりすべきで、それが無ければカオスになるでしょう。

おっと、話が冒頭から脱線気味です。
今回のネタはこちら。

ネットのある記事で
とある国では、スマートグラスを使ったカンニングが問題となっている
という記事を見ました。

大学の教員になった20年以上前から思っていることですが…
そもそも、知識がほぼ無料で手に入り、高速なネットワークに繋がり、電子的なストレージに大量に格納できるこのご時世に、「知識をどれくらい覚えているか」という指針で測れる能力“のみ“を、しかもペーパーテスト”だけ“で評価すること自体がナンセンスなのでは?

社会において、そのような能力が必要とされるシーンがどれだけあるのでしょう?
私は思い付きません。

あ、いわゆる「士業」と呼ばれる仕事には必要な能力なのかな。
あとは公務員とか?よく分かりませんが。

学校の先生なんかは、知識の出し入れが仕事なのかもしれません。
提示して、理解させて、覚えさせて、それを吐き出す精度を定量的に評価するだけで良いなら、それは機械にやらせた方が良いと思います。
教育に効率を求めるなら、その方が圧倒的に良いでしょう。

ただ、そういう教育によって育成された人材を労働力として採用するなら、代わりにパソコン買った方が安いし良いよな、となるでしょうけど。

少なくとも、エンジニアをはじめ、クリエイティブな仕事をする人は、そういった知識の出し入れだけでは仕事はできないわけで…
だって、「知識」というのは総じて古いわけで、それを単にアウトプットするだけで、新しいものができることはありませんから。

では、何が「新しいもの」を生み出すのか?

それが簡単に分かったら、教育について悩むことなんてないでしょうし、そもそも時代の流れと共に変化するものなのかもしれません。
が、少なくとも「知る」だけではありません。
「やる」から分かることが重要。

そもそも、「新しいもの」を生み出すためにはチャレンジが必要なのですが、その教育課程でチャレンジが無いってのは矛盾ではないかと思うのです。
そして、不確定な未来、つまり正解が無い世界で、「やる」の結果を定量的に評価するなんて土台無理な話です。
ということを考えると、学校におけるゴールが、定量的な評価(点数)であること自体が問題ではなかろうか?とも思います。

知識の価値が低下しているということであれば、我々はその先に行かなければなりません。
それが何かというのは、チャレンジしながら模索する必要がある。
もちろんそれは、教える方も、教わる方も。
そういう教育が必要です。

でも、それは簡単には実現しません。
我が国の場合、うまくいくエビデンス(証拠)とか保証が無いとシステムの変更はしないでしょう。

「新しい教育」にチャレンジしようとき、当然ながらそれは新しいわけで、うまくいく証拠も保証も無いのです。
なので、保護者も教員も、学生自身も、多くは同意しないでしょう。
そして、現状を維持することになる。
せいぜいできるのは、授業の科目を換えたり増やしたり「手段」の変更くらい。

知識はいつの世も重要。
しかし、もっと重要なのは
何のために、それをどう使うか。
知識は使うためにあるのだから。

本質的な部分の変化が必要な時代がやってくる気がします。