違う考え方をするということ

違う考え方が強みとなる
というお話しです。

  • 同じである
  • 差が無い

ということは価値が無いということでもある。
正確には「付加価値」と言うべきかもしれないけど。

しかし、他と異なる考え方は、「間違い」や「敵対」と判断されるかもしれないし、同調圧力もあるでしょう。
リスクですね。

多くの場合、付加価値はリスクを伴うもの。
特に、新しいものを生み出す場合。いわゆるチャレンジですね。
そういう時って、やったことが無いことをやるわけですから。

リスクとは、単に「危険」を示すものでは無く、何かしらを失ったり提供したりする可能性があるということ。
不確実性から来る「損失」が発生する可能性がある、と言った方が良いかな。

チャレンジってそういうものでしょう。
結果が保証されていないけどやるわけですから。

要は、リスクを取らないとチャレンジは成立しないということで
チャレンジしないと価値は生み出せないというと。

付加価値を生むためには手間がかかります。
コストが必要と言えるかもしれません。
この場合のコストは、費用のことだけではありません。
時間とか、心身の負荷とか、手放すリソースと言ったら良いかな。

リスクとかコストとか、人によって何をリスクとするか、何にどこまでコストを払えるかは違うでしょう。
けど、それがマジョリティに迎合していくと、結果としては違いを生むことができなくなるわけで、価値は無くなる。

なので、人と違う考え方をしないと価値は生み出せないということです。
まさにそれが価値観と言っても良いでしょう。

勇気要りますね。
でも、勇気でOKという言い方もできます。

自分のコアがあるか?

今回言いたい「コア」って、「核」というか、この場合は自分の考え方の中心となるものといった感じで

「自分はこうやる」
「自分はこう考える」

そんなことです。

明確ではなくても
自信がなくても
そういうのがあると結構うまくいきます。

どうせそういうものは完璧な形なんて無いのです。
そして、何かしら「基準」を持っていないと、この先どうするべきかが決められませんから。

ポイントは、そういうの、は探して見つけるものではないということ。

親や先生をはじめ、他人には
「こうして欲しい」
「こう考えて欲しい」
というのがあるでしょう。

そういう人達に対して、敬意とか気遣いは必要で、それは大事なことだとは思います。
でも、なんでもかんでもその通りにすると

「自分はこうやる」
「自分はこう考える」

にはなりませんよね。
だって「自分は…」じゃないのだから。

そして、そういうものを見つけようとしてはいけません。
探して見付かるのは
「古いもの」
「そもそも誰かのもの」
だったりしますから。

言われたことしかやらなけりゃ

言われたことしかやらなければ
言われたことしかできなくなる

でも
言われたことをやると褒められるのだから仕方ない。

それに
言われたことをやる
それ自体は良いと思う。

しかし
言われてもいないことをやる者がもっと評価されるべき
というか

言われてもいないことをやりたいと思う気持ちを大事にして欲しいし
言われてもいないことをやる機会がもっと欲しい。

そもそも、「言われたことやる」というのは…

他人である「言う人」がゴールを設定して、提示された指示に従う
ということ。

なので、本人はゴールを設定する必要が無いわけです。

指示する人が提示するゴールは、その本人にとっては正しいもので、もちろん良かれと思って指示しています。
それに従ってくれれば嬉しいわけです。

ゴールは他人が作るもので、それに従う、というのが極まれば、それは単なる消費マシーンとか奴隷なのではなかろうか?
それは言い過ぎか。

経験が十分に無い者がゴールを設定すると、間違えたり失敗したり、効率の悪いことが起きる。
それを叱責されたり、最悪の場合は吊し上げられたりする可能性もある。
そりゃ恐ろしいでしょう。

本当なら、精神的にも肉体的にも、パワーが小さい幼少の頃に、好き勝手やって、痛い目にあったり、うまくいったりという幅広い経験があると良いのかもしれませんね。

そうしたら、他人の気持ちが分かったり、何かをするにしても加減が分かったりり、自分でゴールが設定できたりするのではないかなぁ。

いやぁ、教育って難しいですね。