「言われずともやる」は言うほど簡単ではない

分かっていることをやるのは仕事か?
できることをやるのは仕事か?
言われたことをやるのは仕事か?

それらは重要なことではあるけど、仕事を構成する一部であるのは間違いないでしょう。

例えば
良い仕事をするためには、色々知っている必要はある
それは間違いないでしょう。

でも
色々知っていると良い仕事ができる
というのは間違い。
逆は可ではない。

「知識」の存在そのものには価値は無い。
それをどうのように使うかによって価値は決まる。
行動とセットになって、初めて価値が生まれるということ。

色んなことを知って、色んな事ができるようになる
それは良いこと
知識は時として行動を助ける。

さて、研究開発は、「今は無いけどあってほしいもの」を現実にする仕事なわけです。
なので、今はできないことをやる必要があるし、今は知らないことを知る必要がある。

今はできないことができる、今は知らないことを知ることができる保証はあるのか?
まあ、保証は無いでしょう。
最初からできる保証があるなら、それは研究とか開発と呼べないでしょう。

で、そのための行動が仕事になるわけですが、大事なことを忘れてはいけません。
そういったトレーニングは学校ではなされていないということです。

学校における知識の獲得は外的動機によるものです。
「やれ」と言われて、やる
ということです。

そこには隠された「答え」がすでにあります。
なので「今は無いけど」ではありません。

「今は知らないけど」の対象となる知識も、一時的に隠されているだけです。
そしてそれは「大事だから覚えなさい」と外部からインプットされます。

そして
知識と行動を絡めてカタチにする
というトレーニングもほとんどされていません。

知識やスキルを外的動機によって手に入れて
それを用いる経験も十分で無ければ…

上司:「これできるか?(やってみるか?)」
部下:「いえ、やったことがないのでできません」

という、よく聞くパターンの発生は避けられないでしょう。

これ、正確には
「やったことがないことは、やりたくありません」
ということだと思います。
感情の発露ってヤツです。
重傷です。

いや、しかし、ヘタすると
やったこともないことを、やらせようとする会社はブラック
ということになったりして。
いや、すでになっていたりして。

これをいわゆる「教育」で修正するのは困難です。
というか、無理です。

いわゆる「教育」は、「言って」「やらせる」だからです。
やればやるほど強化されてしまいます。

「言われないでもやれよ!」
と言って、「やらせる」ことになります。
漫才みたいな状態になります。

とまぁ、ここまで偉そうなことを言ったところで
じゃぁどうすんの?
となるわけで。
そこが一番大事で難しくて、それこそ答えなんて無いのかもしれないけど。
それを試行錯誤して解決していくのがこれからの教育の課題となるのでしょうね。

ただ、夢工房においては、かなり良い方向を向いているのは間違い無いと思っているのです。

価値を生むもの

当然のことながら、「価値を有するもの」は、時代によって異なります。

就職活動をする学生達は、現在のトレンド(現在価値あるもの)にフォーカスして、知識や技術を習得したり、仕事を選んだりします。

これまた当然ながら、現在価値あるものは、過去においては価値が無かった、もしくは存在しなかったものです。

ついでに言うなら、現在価値あるものが、未来においても価値があるという保証はありません。
それを信じて未来を決定するのはギャンブルです。
一般的にそういう進路選定を「低リスクで安定したもの」とされるのは実に皮肉ですね。

つまり、どういう選択をするにせよ、リスクゼロなどというものは無いのです。

私が興味があるのは「価値を生み出す者」です。
そうなるためには何が必要なのか。

知識を伝授する場である学校においては

学業成績が優秀な者
高い学歴を有する者

が高い価値を生み出すと考えられています。
明確に言われることが無いにせよ、そういった価値基準を持っています。
現状は、です。

もっとも、そういう価値の元でないと、今の学業は成立しないでしょう。

確かに高い価値を生み出すために、そういった人材必要でしょう。
でも、そういった人材高い価値を生み出すのかというと、必ずしもそうは言い切れない。

既存の学校の「ものさし」に従うなら、最高学府において成績最高の者が、最大の価値を生み出すはずですが、決してそういうことにはなっていない。
クラスの成績順に高い価値を生み出せるかというと、決してそんなことは無いのです。
そんなことは誰でも分かっているでしょう。

何か凄い矛盾をはらんだまま、モヤモヤ進んでいるのが現状ではないでしょうか?

単に知識の質や量が価値を生み出すのであれば、AIが良いに決まっています。

生成AIが出現し発展する今後においては、知識の質や量の持つ価値は、これまでに対して大幅に低下するのはほぼ確定路線でしょう。

本当に価値を生み出す根源にあるのもは何なのだ?
という問題に対して真剣に考えるべき時が来ていると思います。

その辺を掘っていって、形にしていくのが今年のテーマです。

これからの学校

今後の少子化を考えても、我が国の行く末を考えても、学校は生き残りはもちろん、より世の役に立つ人材を育成できるよう工夫が必要です。

「世の役に立つ」って、個人はどうでも良いのか?
いやいや、人様の役に立つことができなければ、個人も幸福にはなれません。

というわけで今後は、より尖った個性を際立たせた人材の育成をするための工夫が必要になってくるはずです。

とはいえ、これはなかなか思った通りに行きません。
断言してしまいますよ。

それはなぜか?

尖って個性的な人は、他と異なる人です。
そうなりたい人はどれだけいるでしょうか?

他人と異なることは怖いのではないでしょうか?
なので
できれば他と異なること無く、できるだけ目立たずに、他と異なる結果が欲しい
そんなのが本音ではないでしょうか?
矛盾だらけで凄まじく難しいですね。

ともかく
不安が、心配があるので、他と異なることはしたくない
というのが現状でしょう。
つまり、行動原理がリスク回避ということ。
これを変える必要があるということです。

何度も言ってますが、こういう傾向になったのは、本人達の責任ではありません。
リスクを取るのは愚かで間違ったことだ
という価値観を植え付けた環境によるものです。
でも、現状を自覚してもなお留まろうとするのではれば、そこから先は本人の責任ですけどね。子供じゃないのだし。

さて、未来は不確定なわけなので、一体どうなるのか「保証」は無いし、「証拠」も無い。
でも、望む未来を想定して、必要と思うことをやるしかない。
まあチャレンジなわけですが。

もちろん想定は外れる可能性があるし、思い通りにできない可能性もある。
そのリスクはどうする?

実は「損失」ではないので、長い目で見ればそれはリスクではなく、むしろ財産で、「引出し」とも呼ばれるわけですが。
やらないと分からないことが分かるのだから。

とはいえ、経験が無い者にとってはリスクはリスクなわけで。
それに対して「やれ」と言ってやらせたら、そんなのは自発的なチャレンジではないわけで。

その辺がこれからの学校にとっての難しさになってくるのではないかな。

それをどうするかによって、方向性が分かれるところでしょう。
そんな予測をしています。

で、我々はどうするか?
それが問題なのです。