主体性の話の前に

むかしむかし、ある人に
「建築は建築士の資格が必要なのに、なんでクルマの設計者は資格が要らないんでしょうね?」
と聞いたところ
「クルマの開発はアイデアでやるものだからだ」
とのご返事。

実際に仕事をしてみて、その通りだな、と思いました。
そりゃもちろん、知識やら技術は必要ですが、それらを組み合わせるだけで何とかなるものでは無いですから。

当然、建築だってアイデアは必要でしょうけど、恐らく知識や技術とアイデアの比率が違うのででょうね。
建築の場合は、法的にクリアしないといけないことが多いのかな。
そもそも、こういう構造でなければならん!とか。

方やクルマの場合、法的な要件とか社内要件はあるのだけど、達成方法は自由です。
例えば、ある部分において、ある強度が必要だとして、どうやってその強度を確保するかは自由なのです。なので、アイデア勝負。

さてさて、ではアイデアはどうやって出すの?
という話なのですが、これこそ主体性が無いと無理なのです。

前向きなマインドによる主体性もあるし
時には追い詰められた末に主体性を発揮することもあるでしょう。

いずれにせよ、アイデアを出したい・出さなきゃ、という環境に身を置かないと無理でしょうね。

というわけで、主体性についての話を展開する前振りはここまでにしておきましょう。

現状の教育システムはどこから来たか?

なぜ現状はこうなっているのか?というのは、制定された当時に何のためにそうしたのか?が大事で、それは今後を考えるうえで大変役に立ちます。
というわけで、色々調べてみた結果を元に紐解いてみましょう。

現状の日本の教育システムの原型は、約150年から200年前のプロイセン(旧ドイツ・オーストリア圏)にあります。
それを約150年前に明治政府が参照して制度の設計をしました。

ただ、気を付けなければいけないのは、時代背景が現代とは違うので、単純に良いとか悪いとかは言えません。
というか、その当時から近年までは時流に合った方法だったのは間違いないでしょう。

ゴールはこれです。

近代国家を支える「規律ある大量の人材」を育成する

19世紀のヨーロッパでは

  • 常備軍の拡大
  • 官僚制国家の成立
  • 産業化による大量労働力の必要

が同時に進みました。
このとき国家が必要としたのは

命令を正確に理解し
同じ基準で訓練され
決められた役割を果たせる人間

です。
そこで導入された要素は

  • 学年制
  • 教科制
  • 時間割
  • 一斉授業
  • 成績評価
  • 教員による統制的指導

これらの基本形態は今も変わっていません。
150年以上も同じシステムが通用するなんて凄いことです。
もちろんそれにはメリットがあったからです。
それは

  • 大人数を
  • 少人数の教員で
  • 同一の基準と速度で
  • 可視化された評価で

効率よく管理できる。
そのためのツールというか手段がこれ。

  • 入試
  • 単位
  • 成績
  • 卒業判定

これらはすべて

  • 点数
  • 時間
  • 出欠
  • 規定量の履修

という誰にでも説明できる定量化された指標で可視化できて、説明責任に応えられます。

というわけで、プロイセン型の教育モデルは、高い次元で効率を最適化した完成度の高いものだったのです。

ただし、それがいつの世にも適用できる絶対的なものかというと、決してそんなことは無いはずです。
だって、世の中は変化するのですから。

主体性は大事…なのだけど

自主的とか主体的とかいうでしょう?
そういうのが大事だって。

では、自主的とか主体的とかの違いは分かってますか?
あまりその辺を考えてなかったりしませんか?

私は学生のこと、あまり考えませんでしたね。
何でそうなのかは、学校の先生をやってみてよく分かりました。

あらかじめ、やるべきことや答えが決まっていて、他から言われなくてもやるなんてのは、自主性です。
これは学校で求められますね。
よく先生に言われませんか?「自主的にやれ」とか。

対して、そもそも何のために何をやるのか?というレベルから考えるのが主体性です。
学校でこれをやると厄介者になる可能性があります。
先生の目から見ると、余計なことを勝手にやっているように見えます。
つまり、言ったとおりにやってくれない、ということですね。

学校は、言われたことをやるトレーニングをするところです。
なので、その環境で真面目にやると、言われたことができるようになります。
そのトレードオフとして、言われていないことはできなくなります。
程度は人それぞれだとは思いますが。

ところで、「教育」って、今ある形が当たり前だと思っていませんか?
そうでもないのですよ、という話しをこの後展開してみましょう。