新しい時代に向けて…どうする?

今、考えているのは…
というか、最近ずっと考えているのは…

変化する世の中に適応できる学生を育成する
ではなく
変化する世の中で、自ら変化していける学生を育成する
そのためにはどうしたらいいのか?
です。

どっちも似たようなものじゃないかって?

ちょっと違います。
変化に追従(フォロー)する
のではなく
自ら変化を作り出す
ということです。

そもそも変化するのは難しいことです。
以前も記事ににしましたが、生存本能に根ざしていますからね。
習慣が慣性力として働くというのもある。

これに対して、外部から「変化しろ」とやっても限界があります。
外的動機で行動しても、たかがしれています。

なのでやはり自らの「心」が問題となります。

ゴールを設定できるること
そこに到達するための、熱意とか勇気とか労力とか
そういったものを発動する必要がある。

でも、そのためにはどうすべきか。
答えは無いですね。
だって、新しい時代なのだから。

なので、チャレンジしながら模索していく必要があるでしょう。
それはもう、教員・学生がともに、です。

先生は知っていることを教える
学生はそれを聞いて覚える
そんな時代は終わりです。

さあ、どうする?どうする??
面白くなってきたぞ。

どうなりたいのか?

昨日は「どうしたいか」でしたが
今日は「どうなりたいか」です。

「どうしたいか」は手段です。
なので、本来は「どうなりたいか」のために「どうしたいか」が決まります。

さて、この「どうなりたいか」は、未来の姿でも良いし、何かしらのゴールへの到達でも良いです。
未来のビジョンってヤツです。

それを実現するためには「手段」が必要です。
それが「どうしたいか」です。

この手段は、ぶっちゃけ何でもいいのです。

いや、もちろん目的を達するためのものである必要はありますよ。
そも、そのための手段の選択は、自分で決めて良いのです。

ですが、我々は学校で「やり方」を教わります。
そして、その「やり方」でやろうとします。
手段が限定されているということは、言ってみれば手足を縛られた状態です。

で、その不自由な状態を前提に
どうなりたいのか
なんてことを考えたりします。

なので、未来の想像がつきにくいし、苦しくなります。

だって、汎用的な手段をやってみたところで、その先がどうなるかなんて分かりませんから。

例えば、数学が得意で、凄く難解な計算ができたとします。
で、それができるとどうなるか?

そんなことは分かりません。

では逆に、宇宙が好きで、ロケットの軌道計算をしたい
とかなると、必要な計算が決まってきます。
でも、手計算でも良いし、コンピューターを使っても良い。

まぁ、一般的には手計算ができる方が、おかしな事が起きたときに気付いたり、新しいことも発想できたりするので便利でしょうけど。

でも、決められた一つの方法でやらなければいけないということは無い。
目的を達するために、新しい方法を考え、試すのは自由です。

スマホのメッセンジャーアプリで連絡を取る
それは一つの手段です。

でも、相手に連絡するのが目的であれば
電話を掛けても良いし、手紙でも良いし、直接会いに行っても良い。
その目的に応じて、ベストな手段を取れば良いし、新しい方法を試しても良い。

手段に縛られると、できることが限定されるので、それによってできることが限界になる。
その状態で「その先を想像しろ」とか言われてもね。

というわけで、手段は「どうなりたいか」で決まるのですよ。
なのでまずはゴールを決めましょう
というお話しでした。

どうしたいのか?

自分のやりたいことが分からない
自分のやるべきことが分からない

何じゃそりゃ?

と思ってしまうけど、今や意外と普通に見られる光景ではないかな
という気がする。
もちろん、この場合の「やりたいこと」とか「やるべきこと」は、趣味とか内的な満足で終わることではなく、自分の枠の外側と関係することです。
仕事なんかがそうですね。

一体何でそんなことになるのか?

それは簡単で、「やるべきこと」が与えられてきたからです。
なので、それに対して「どうすべきか」を考えてしまう。
「どうしたいか」ではなく。

これ、どう思いますか?

他から与えられる「やるべきこと」
与える方は、相手のためを思って(と思っている)「やるべきこと」を指示します。
そうすれば失敗がないとか、間違えないとか。

もちろんその価値基準は、自分が持っている価値観の物差しです。

その指示に従っている限りは評価されます。
出来が良いとか、真面目とか。
そして、メリットは、「やるべきこと」を考える必要が無いということです。

でも、「自分はこうすべきなのだ」という指針というか哲学を持つことができません。
もちろん、そういう状態だとチャレンジはできません。
他人から言われたことをやるのって、当人にとってはチャレンジだったりすることもありますが、あまりチャレンジっぽくは無いですよね。

で、最近気付いたことがあります。

「自分はこうすべきなのだ」という指針を持たない人って、文句が多くないですか?
まあ、それはそうなのです。
他人が決めた「どうすべきか」が意に沿わなければ、そりゃぁ文句も言いたくなるわけでね。

その辺が
ものごとを
他人ごととしてとらえるか
自分ごととしてとらえるか
で結果が変わってくるとか、そういうことなのでしょうね。

と、そんな偉そうなことを言ってる本人も結果を出さないとね。