判断を学生に委ねる時が来た

これまでは、あらかじめ決められた、統一した正解を出させる方が効率が良かった。
時代背景を考えると間違えでは無かった。
でも、どうもこのやり方で今後もうまく行きそうもありません。

というのを、さんざん言ってきました。

現状のやり方では、多くの判断は教員側に委ねられているのがポイント。
やる・やらない、何をする、などなど。

学生側の判断は最小限です。
では、判断無しなら、何をしているのか?

理論の記憶と、決められた解法に沿った「回答・解答」という名の「作業」です。
かなり極端な言い方ですが。

どうしてこんなことを言うかというと、勉学が優秀だからと言って、自力でクリエイティブなことができるとは限らないからです。

教わったことに対して
「やりなさい」
と言われればできるでしょうけど

未知のものに対して
「どうする?」
と言われたら、どうにもならないでしょう。

これ、非常にマズイですよ。
新しいものをつくり出せないってことです。

学校では、教わったものを組み合わせれば高度なことができるようなことを言ったりしませんか?
でも、そんなことは無いですよ。

だって、求められる能力が違いますから。

「やれ」
と言われて
かつて記憶したものを思い出して
指示通りに組み合わせたり、処理したりする

「やれ」
とも言われていないのに
未来を想像して
やったことも無いことに挑戦する

これは全く違います。

では、何が必要か?

  • 学生が自ら判断せざるを得ない環境を用意する
    正解を与えない…というか、正解・不正解ではない環境が必要
  • 学生のアウトプットに対して問う
    何のため?どうしたい?で、どうする?などなど

そんな環境が大事なのではないかな。
と思ったりしながら、夢工房は試行錯誤を続けています。

正解・不正解の先に

あらかじめ用意された「問題」
それに対しては「答え」がある。
それを「当てる」のが学び
とすると…

学生は教員に対して「合ってますか?」とくる。

こういうことをやっている状態でのゴールは何か?

間違えないこと
です。

評価は

  • 合っているか
  • 間違えているか

の二つ。

そこから脱する必要があります。
では、どうすべきか?

  • 「問題」は、本人が作るべきもの
  • 正解・不正解では無い
  • それを「形づくり」、「良くしていく」のが学び

そういうスタイルが必要ではないかな。

でも、これ、難しいですよ。

言ったことをやらせるのが教育だ
という価値観を持っていると、凄く難しい。

言ったことをやらせるのではなく、任せるのであれば
教員が“黙る”必要があります。

恐らく、ここが一番難しい。

学生が悩んでいると、教えたくなります。
既存のものに当てはめたくなります。
既存の価値観で評価したくなります。

でも、そこで介入したらお終い。

先が見えている
失敗すると分かっている
でも、言わない
結果と向き合わせる。

そうしないと主体性は発動しません。
自分で考えることができなくなります。

二宮尊徳も言っている

200年くらい前に二宮尊徳が言っています。

行ひて教へ学んで行ふ
今の教ふる者、言うて教へ書きて教ふ、故に効なし

江戸時代に尊徳がそのように嘆くような状態になっていたのが意外ではあります。
が、この頃はすでに
町人層は識字率が高く、寺子屋が普及し、「往来物(おうらいもの)」と呼ばれる教科書が大量に流通して、貸本屋も増加している
という状態だったようです。

尊徳は、農村の再興を手がけたことで有名ですが、その手法は
田畑を実際に耕し、村人と共に働き、その中で指導する
というものです。

そんな状態で、彼が問題にしたのは

  • 知識だけで完結する学び
  • 行動に接続しない教え
  • 体験を伴わない道徳講話

です。
もちろんそれは、経験に基づいて実感したということでしょう。

時代は繰り返すってことですかね。