バイクの話 スズキ KATANA

スズキにはカタナというバイクがあります。
著名なデザイナーのハンス・ムートによるデザインで、最高に格好いいヤツです。
最初のモデルは1100ccで、1981年にデビュー。
詳しい内容はスズキのサイトWikipediaを見て下さい。
40年以上経った今見ても素晴らしいデザインだと思います

GSX1100S KATANA スズキのサイトより

この輸出仕様の1100ccは、デビュー当初は国内販売されず、どうしても乗りたいユーザーは逆輸入して乗っていました。
国内での上限の排気量は750ccだったからです。

そして翌年、日本国内で待望の750ccのカタナが発売されました。

GSX750S スズキのサイトより

が、国内で首を長くして待っていた人達はガッカリです。
上の写真と比べてみて下さい。

当時、1100カタナの何がセンセーショナルだったかというと、デザインはもちろんのこと、低いハンドルやウインドスクリーン、カウリング前方下部の黒いフィンなどの、他には見られない「尖った」アイテムも多くのバイクファンを驚かせたわけです。
しかし、750にはそれらがありませんでした。

とりわけ、上体が直立する高いハンドルにはガッカリです。
このハンドルのお陰で、跨がってハンドルを握ると、タンクに比べて低い位置にあるシートと低いハンドルによって、ライダーがタンクを抱え込んでバイクと合体するような、1100にあった変態的な一体感が得られないのです。
あまりにカッコ悪いので、これは「耕運機ハンドル」と呼ばれていました。

スズキのエンジニアも販売サイドも大変悩んだことと思います。
でも、1100の仕様では認可が下りなかったのでしょう。

そして当然ながら、国内の750ユーザーの多くは、1100のスクリーンやハンドルを装着して1100ルックにしていました。

しかし当時、それらは国内では車検が通らない状態でした。
なので、おまわりさんに捕まって、違反切符を切られる事態も発生。
その取り締まりは「刀狩り」と呼ばれました。

それから10年以上経って…

何と、私はカタナを手に入れました。
750カタナデビューの翌年の、フロントホイールが、19インチから16インチに変更された俗にS2とか2型と呼ばれるモデルです。
スクリーンと低いハンドルも装着されていました。その頃は認可されて純正装備だったのかな?
ともかく、激しくカッコよかった。
残念ながら、スズキのサイトには画像がありませんでした。

さすがにデビューから10年以上も経過して、その頃はカタナ人気も過ぎ去っていたので、所有していた会社の先輩から、驚くほどの安値で入手しました。
「邪魔だから、頼むから引き取ってくれ」と。
ラッキーです。

乗ってみたら、重くて、遅くて、止まらない。
でも、良いのです。
カタナだから。

まぁ、しばらく乗った後に手放してしまうのですが、いまだに気になるバイクです。

そして時は流れて…

当研究室の卒業生は、数名がスズキの二輪車を開発しています。
以前、彼らに言ったことがあります。

「新しいカタナ開発してくれよ。買うから」

そして時は流れて2019年。

スズキから再びカタナが登場しました。
世界中のカタナファンは大騒ぎです。

KATANA スズキのサイトより

確かにカッコいいです。

しかし…

こ、これは耕運機ハンドルじゃないですか。
バイクとの変態的な一体感が無い。
そして恐らく、アフターマーケットのハンドルを買って装着すれば済む問題では無さそうです。
惜しい。実に惜しい。

今の世代の人達は素直に受け入れられると思います。純粋にカッコいいですから。
きっと走りも良いはずです。

しかし、私と近い世代でカタナが好きな人は、この一点で入手を躊躇している人は多いと思います。

「カタナ買うよ」って言ってしまった卒業生には大変申し訳ない気持ちでいっぱいです。
「ごめん、コレじゃないんだ…」という感じなのです。

次に期待して待ちましょう。

判断を学生に委ねる時が来た

これまでは、あらかじめ決められた、統一した正解を出させる方が効率が良かった。
時代背景を考えると間違えでは無かった。
でも、どうもこのやり方で今後もうまく行きそうもありません。

というのを、さんざん言ってきました。

現状のやり方では、多くの判断は教員側に委ねられているのがポイント。
やる・やらない、何をする、などなど。

学生側の判断は最小限です。
では、判断無しなら、何をしているのか?

理論の記憶と、決められた解法に沿った「回答・解答」という名の「作業」です。
かなり極端な言い方ですが。

どうしてこんなことを言うかというと、勉学が優秀だからと言って、自力でクリエイティブなことができるとは限らないからです。

教わったことに対して
「やりなさい」
と言われればできるでしょうけど

未知のものに対して
「どうする?」
と言われたら、どうにもならないでしょう。

これ、非常にマズイですよ。
新しいものをつくり出せないってことです。

学校では、教わったものを組み合わせれば高度なことができるようなことを言ったりしませんか?
でも、そんなことは無いですよ。

だって、求められる能力が違いますから。

「やれ」
と言われて
かつて記憶したものを思い出して
指示通りに組み合わせたり、処理したりする

「やれ」
とも言われていないのに
未来を想像して
やったことも無いことに挑戦する

これは全く違います。

では、何が必要か?

  • 学生が自ら判断せざるを得ない環境を用意する
    正解を与えない…というか、正解・不正解ではない環境が必要
  • 学生のアウトプットに対して問う
    何のため?どうしたい?で、どうする?などなど

そんな環境が大事なのではないかな。
と思ったりしながら、夢工房は試行錯誤を続けています。

正解・不正解の先に

あらかじめ用意された「問題」
それに対しては「答え」がある。
それを「当てる」のが学び
とすると…

学生は教員に対して「合ってますか?」とくる。

こういうことをやっている状態でのゴールは何か?

間違えないこと
です。

評価は

  • 合っているか
  • 間違えているか

の二つ。

そこから脱する必要があります。
では、どうすべきか?

  • 「問題」は、本人が作るべきもの
  • 正解・不正解では無い
  • それを「形づくり」、「良くしていく」のが学び

そういうスタイルが必要ではないかな。

でも、これ、難しいですよ。

言ったことをやらせるのが教育だ
という価値観を持っていると、凄く難しい。

言ったことをやらせるのではなく、任せるのであれば
教員が“黙る”必要があります。

恐らく、ここが一番難しい。

学生が悩んでいると、教えたくなります。
既存のものに当てはめたくなります。
既存の価値観で評価したくなります。

でも、そこで介入したらお終い。

先が見えている
失敗すると分かっている
でも、言わない
結果と向き合わせる。

そうしないと主体性は発動しません。
自分で考えることができなくなります。