セーフティネットについてもう一回考えた

何を考えたかって、自身が学生の頃はどうだったのか?ってことです。
セーフティネットと呼べるような仕掛けが果たして存在していたのだろうか?と。

まぁ、そんなものは無かったような気がします。
どうなっていたかというと、そもそも周囲が若者に対してチャレンジさせようなんて思っていなかったような気がします。

むしろ「余計なことすんな」みたいな感じかなぁ。
いや、そうでもないな。
どうだったのだろう?良く覚えてないんですよね。

チャレンジの入り口は開いていたかな。
今と違って、情報が限られていて紙ベースなので、足を使わないと入り口には到達すらできなかったのは確かでしょう。

多くがチャレンジしていたか?というと、決してそんなことは無かったと思います。
なので、あまり偉そうなことを言える気もしません。
ただ、やるヤツはやる。
単なるええカッコしいだった場合も多かったでしょう。自分も含めてですが。

セーフティネットみたいな保険的なものは無かったので、チャレンジするときのリスクは大きかったと思います。

だからこそチャレンジしていた気もします。
単にええカッコしたがるバカな子供だったのでしょう。

でも、今となって思えば、リスクを取るということは、相応に得られるものが大きかったのだと思います。

今、セーフティネットとか言っているということは、昔に比べてチャレンジしたがらない傾向にあるということですよね。
このままではマズイということでしょう。

チャレンジに対するリスクを低減してあげるのは有効な場合もあるでしょう。
特にビギナーには有効で、重要な機会になるかもしれません。
でも、「リスクが無いよ」ってのは、「価値も無いよ」って言っているようなものです。

「リスクを取ってでもチャレンジしたい」という気持ちにさせるにはどうしたものか?
そのために勇気を発動したくなるためには何が必要か?

やはり「心」か。
そこに行っちゃうのでしょうね。


人間関係が大事…なのだが

人間関係は難しいですよね。
常に課題です。

相手のことを考えた行動や仕事がちゃんとできているかな?
というのが誰しも課題になっていると思います。

…なってますよね?
なっていると良いのですが。

表面的に仲良しで、喧嘩しないとか、そういう薄っぺらな人間関係しか構築できないと、後になって悲惨なことになったり、より面倒なことになります。
あ、でも当事者は気付かないと思いますけどね。そういう経験しかしてこなければ。

でもね、世の中こんなに便利になっちゃうと、別に人のことを考えなくても生きていけちゃうんですよね。

で、そんな生活を続けていると、当然ながら人間関係がますます難しいことになってくるのですが、別にそこにフォーカスしなくても生きていける…

みたいなループがグルグルしちゃってたりすると、当人は良くても世の中良くならんだろう…といったことになるのでしょうね。

もちろん、仕事がうまくいくかどうかなんてのは、相手を考えていないと話にならんわけでして。

こういうのって、世の中便利になってきたから要らんじゃないか、なんて思うかもしれませんが、ところがどっこい「だからこそ」なのですよ。

だってね、皆がどんどん相手を考えない行動を取る傾向になったとして、その中で、ちゃーんと相手を考えられる行動なり仕事なりができたら、それは大層なアドバンテージになりますよね。

大抵は、「みんなそうなんだから、別にいいじゃん」となっちゃったら、先はありません。

だってね、単なる消費者なら何の問題もないですが(本当は大アリですが)、創造したり供給したりという側に回るつもりがあるなら、「普通で良いの?(みんなと同じで良いの?)」って話になりますよね。

普通のことやって、相手は、お客さんは、どれだけ喜ぶの?って話なんですよ。

で、そういうのって当然だと思うのですが、学生は、そういうことを全く知らずに世に出るわけですよね。
別に授業でやれとは言いませんが、役に立ちそうな経験をする経験は、ほとんど無いのではないかな?

アルバイトがあるだろうって?
まぁ、そうですが…そりゃ運が良ければ、って話ですよね。
雇用主から、そういうことを経験できるチャンスを貰えたり、そういう気付きが得られる経験ができれば良いですが、最近はそうでも無いのではないかな?

最近に限ったことじゃないかもしれませんね。
私は学生時代にレースをやってて超貧乏だった都合上、今も何をやったか全部は思い出せないほど多くのアルバイトをしましたけど、なかなか仕事の本質に触れるような機会はありませんでした。

そもそもアルバイトって、言われたことをやるのが仕事なんだから、当然と言えば当然なのですけどね。

でも、ごく僅かながら、深く人生を学べるような人生の師匠みたいな人との出会いがあって、貴重な経験もできました。それは凄いレアなケースです。
考えてみれば、仕事を通じて「師匠」というか、今で言うとメンターですかね、そういう人には恵まれてきました。
おっと、話が脱線しそうだ。

最近では、アルバイトの仕事はマニュアル化されちゃったりしてるんでしょうね。
特に大手のチェーン店なんかは。どうなんでしょう?
そうなっちゃってたりすると、ますます相手を考えて…なんてことは関係なくなっちゃってたりするのでしょうね。

そんな状態で学校を卒業して、社会に出たらどう思うんだろうなぁ。

でもね、相手を考えないって、短期的にはとても楽なんですよね。
人間の抱える一番面倒なところを経験しなくて済むわけだから。
でも、長期的に見ると、激しくしんどいことになるかもなぁ、なんて思います。

で、早い時期に、こういう一見面倒で難しそうなことを経験して、それを楽しめる領域に行けたら理想だと思うのです。

薄っぺらな人間関係で、仲間と力を合わせて深い仕事をしよう、なんてのは所詮無理なわけで、ぜひその辺の気付きを得られる経験をして欲しいと思うわけです。

うまくいかないとイヤかい?

まぁ、うまくいかないことが気持ち良いわけないでしょうね。
けどね、やることなすことうまくいっちゃったら、それ、価値あるの?って話しです。

思い通りにいかないからこそ自分の課題が見えるわけで、超えるべき壁が見えるのですよね。

物体に限らず、文章でも芸術でも、自分が生み出したものは、自分そのものです。
決して自分を超えたものにはなりません。

だったら、うまくいかないことを冷静に受け止める必要がありますね。
よーく観察すると、今の自分が分かりますから。

そうしたら、「じゃぁ、こうしたらどうかな?」という方向性が見えてきたりします。
あとは試してみて、気に入らなければ、また観察。この繰り返し。

でも、ここが難しいところかもしれません。

今の自分が不十分だということを認めたくない
今の自分のままで(自分の成長抜きで)良い結果を得たい

なんて思いがちですから。
人は楽をしたくなるものです。

でも、そう思っちゃうと成長は難しくなります。

では、たまたまやってみたことが、うまくいっちゃったらどうでしょう?
そんなことがあったら、それはそれで気持ち良いのでしょうけど、そうそうあるものではありません。

でも、
「そうじゃないとイヤだ。
きっと自分がやったらた、またまうまくいっちゃうことがあるはずだ」
なんて思って、頑張って探して、仮に何か見つかったとしても…

そういうのって、大抵は誰でもできることだったりします。
なので、価値はありません。

やはりね、なかなかうまくいかないことに、どのように向き合えるようになるのかってのが成長段階では大事なことなのですよね。

そういうのを「素直さ」っていうのかな。