はっきりしないけど

今の日本のやり方や価値観は
明治維新以降に西洋化を余儀なくされて導入したものが
ベースになっているのでしょう。

多くは、日本に合うようにモディファイされているのだと思いますが
その後も欧米のやり方を導入したり参考にしたりで今日に至る、と。

欧米のやり方を「正」として
日本古来のやり方は古くて間違っている
としているような感じもしなくもない。

西洋文化の導入の当初は
国難を避けるためだったり
国際社会でうまくやっていくために
協調して孤立を避ける必要があったり
そのような方法をとらざるを得なかった
という側面はあるのでしょう。

そういうのが専門ではないので
さほど詳しくはないのだけど
そんなところだと思います。

基本的に受け身でなし崩し的に
現在の状態になっているように感じます。
実際はそんなことはないのかもしれませんが
そう感じます。

今回のネタ
上記のような史実がどうの
という内容が大事なのではなくて

現状そうなっちゃっていることに対して
最適化を掛けないの?
と思ったり
変えるべきものと変えるべきでないものについての議論しないの?
と思ったり
国として、民族として向かうべき方向性とか
そういった話はあまり聞かないなぁ
というふうに疑問に思っている
ということを言ってみたかったのです。

別に全体主義的的にみんなでカッチリ同じように
みたいのを望んでいるわけではないんですけどね。

でも、そもそもゴールも決めずにバラバラにやってることを
「迷走している」と言うのではないでしょうか。

何でもかんでも
むやみに変えれば良いってものではない
のは分かっていますが
今のまま、バラバラやっていなきゃいけないような
変な同調圧力のようなものを感じることがあるのですよ。

やたら革命みたいの起こされても困っちゃうんですけど
そういことじゃなくて
もっとこう、明るい未来みたいのを夢見ちゃってもいいんじゃないの?
という感じなんですけどね。

今のままじゃ、なんか堅くて冷たくてつまんない感じがするなぁ、と。

本来の日本に合うように
とか
今の時勢に合うように
とか
オープンに色んなことが検討されたりしても良いんじゃないかな
と思うのです。
現状は、色んな人が色んなことを自由に考えて
試してみるチャンスがあるようには感じられないんですよね。
やっても良いのかもしれませんけど。

現在の状態は
国民としての特性なのか
何かしらの影響を受けているのか
よく分かりませんが
もうちょっと何とかなんないかな
と思うのです。

書いていて、まとまりが無いなぁと思うのですが
そもそも自分が感じていることがはっきりしていないので
はっきりまとめようがないのです。
でも気になるので書いちゃいました。
まぁ今後、暇を見て整理してみましょうかね。

こういうのって、まずはローカルで小さな単位で
色々未来について話をしてみる
ってのも良いのかもしれませんね。

そしたら何か面白い変化のきっかけくらいにはなるかもしれません。

嵌まってる?

日頃から
「やりたいことを
好きなことを一所懸命やるべき」
と言っていますが

今回のネタは
これと勘違いされちゃうと困るなぁ
と思って書いています。
されないでしょうけど。

今回のコロナ禍で
インターネットを介したビジネスは大躍進でしょう。
あまり取り沙汰されていないかもしれませんが
恐らく驚くほど収益が上がっているはずです。

みんな家から出ないで
ネット経由ですからね。

ユーザーにしてみれば
合理的で効率が良い
ということですよね。

最初は家で我慢していましたが
そのちネットで色々やり始めて
それが普通になっていく。

サービスを提供する側はユーザーを楽ちんにして
ユーザーは、楽ちんで楽しいなー
という関係。

ネットショッピングも
ゲームも映画もSNSも
果ては授業も仕事もオンライン。

で、ですよ

基本的にオンラインで楽ちんな世界は
好きなときに好きなことができる世界です。

嫌なことはやらなくていい。

極端な言い方をするなら
好きなこと以外しなくて良い。
やりたくないならPCの電源切っておけば良いのです。

たぶん電源切りませんけどね。
サイト徘徊したり
次々に好きなサービスを消費しながら時が経つ
という感じでしょう。

好きなときに好きなものを消費するだけの生活ができる。
自分のリソースが尽きるまでは。

まぁ、そんな極端な例はそんなに無いのかもしれませんが
好きなことだけやっていればいい
というのは設計されたビジネスだということです。

自分では好きなことをやっている
と思っているでしょうが
そういうビジネスに嵌まっているだけだったりします。

きっとまだまだ、もっともっと楽ちんで楽しくなっていくでしょう。
そこに嵌まって消費するケースは多いだろうし
それで失うものは確実にある。

楽ちんで楽しいと言うことは
面倒を回避しているということでもあります。

我々の心がそれを選んでいる。

でも、我々が回避したと思っている「面倒」の中に
失っている大事なものは確実にあって
いずれそれが我々の足下をすくうでしょう。

だって、面倒なことって
他から見ると価値あることだったりしますから。
だからそこに収益が発生するのですよね。

なので、面倒なことをやらない
というのは
価値を発揮しない
ということです。

こんな生活で面倒な事をやらなくなって
消費するだけの存在に近づいていったら
同時に自身の価値は減少していく。

なんてことを考えながら
自分を律してます。

楽ちんとか
得した
なんてワードには注意しないとイカンなー
と。

みんなで面倒だけど好きなことをやろうぜ!
何かのために!
誰かのために!

自分のせいにしてしまえ 2

これの続編です。

学生と付き合っていて
気になる言葉があるのです。

「自分はこう思う」

「自分の中では…」

「今の自分はこうだ」

「…な自分がいる」

そんな言い方してませんか?

誰がそういう言い回しを始めたのか
なぜ流行っているのか
そんなことは知りません。

これらの言い回しは
まるで自分を他人のように扱っています。

これ、視座が自分から離れていて
客観的に捉えられているので
一見良さそうですが
自分のことを他人ごとにしちゃっているので
そこに問題があっても
自力で解決できなくしちゃってる
そんな気がするのです。

こんなの単なる流行だよ
と言えばそれまで…
ってことはないのではないかな。

だって、言っていることと当人の気持ちが
大きく離れているってことは無いと思うのですよ。

他人ごとのことのように言うなら
それは他人ごとにしたいのでしょう。
自分が手を打たなくても良いように。

それに、自分が発した言葉は
必ず相手に向けられます。

なので、相手はその言葉から
発した本人のことを判断します。

こんな人ごとみたいな表現で何かを訴えられても
本人が何とかしようとしている
とは思えませんので
何ともならない気しかしません。

なので、どうしたら良いかというと…

ちゃんと自分のせいにしろ

ってことです。

自分のせいなら
自分で解決できますから。

責任から逃れてしまったら
自分の力が及ばないので
ずっとそいつと付き合っていかなければなりません。

でも
「自分のせい」
を悲観的に捉えてはいけません。
自分でコントロールできるのだ
と考えましょう。

悲観的に考えていることなんて
解決できませんから。

「たかが言葉だ」
と侮ってはいけません。

ユダヤ教の聖典タルムードにはこうあります。
マザー・テレサの言葉の原典はこれですね)

自分の言葉に注意すること。それは自分の行為となるから。

自分の行為に注意すること。それは自分の習慣となるから。

自分の習慣に注意すること。それは自分の性質となるから。

自分の性質に注意すること。それは自分の運命となるから。

言葉を自分の思考や行動と切り離すことはできません。
それはいつか結果となって現れるのは当然です。

今回も偉そうなことを言っていますが
もちろんこれは
自分自身への戒めだったりもするのですけどね。