夢なき者に成功なし

今回も名言の紹介をしますが
一言言っておきたいのは
昔から歴史が好きで
勉強していたわけではないということです。
むしろ大嫌いでした。

だって
自分とは関係ない出来事(だと思っていた)
の起きた年を暗記するわけでしょ。
とても何かの役に立つとは思えませんでした。

でも、Formula SAEのチームの
面倒を見ることになったときに
考え方が変わって
一変して歴史を勉強するようになったのです。
相変わらず年号は覚える気なんて
さらさらありませんでしたが(笑)

なぜかそうしたかというと
学生達は勝ちたいって言うんですよ。
で、相手はFormula SAEを20年も先に始めてる大学で
それなりにノウハウの蓄積があるわけです。

さらに
モータースポーツは西洋の文化なわけで
彼らの真似して真っ向勝負しても勝てねぇな
と思ったわけです。

じゃぁ、西洋人の真似しないで
日本的な発想とかやり方だったら
なんとかなるんじゃないかな
と思ったわけです。


こりゃ歴史から
先人から学ぶしかねぇぞ
と。
そうしないと彼らにアドバイスなんかできない
と思ったのです。

そんなこんなで
まずは吉田松陰の名言です。

夢なき者に理想なし
理想なき者に計画なし
計画なき者に実行なし
実行なき者に成功なし
故に夢なき者に成功なし

「夢」を起点として「成功」をゴールとしています。
そうですね。
やはり夢が大事。

渋沢栄一はさらにこう言っています。

夢なき者は理想なし
理想なき者は信念なし
信念なき者は計画なし
計画なき者は実行なし
実行なき者は成果なし
成果なき者は幸福なし
ゆえに幸福を求むる者は夢なかるべからず。

信念と幸福が入っています。
成功は成果と言い換えていますね。
「夢」を起点として「幸福」がゴール。

吉田松陰が「成功」をゴールに据えたのに対して
渋沢栄一が「幸福」としているのは
人々の価値観の変化によるものかもしれませんね。

渋沢栄一といえば、こんな話もあります。

関東大震災後の日本の言論界には、世間の風潮が利己的、放漫になった時、自然が天譴として大災害を起こし改革を促す、と解釈した「天譴論」が流行したが、その口火を切ったのは渋沢だった<渋沢栄一 2020年12月17日 (木) 04:26 『ウィキペディア日本語版』>

天譴論(てんけんろん)とは
人々が調子に乗って堕落したので
神の怒りを買ったという説ですね。

現在のコロナ禍に対して
この天譴論のようなことを
言っている人もいます。
そう言いたくなる気持ちも分かる。

ちなみに
吉田松陰のお墓は
東京の南千住にある近代的なお寺の中に
ひっそりと佇んでます。
行くと分かりますが、ちょっと意外な雰囲気です。
また、関東大震災について知りたければ
東京都復興記念館で興味深い展示が見られます。
興味のある方は一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

教科書読むよりずっと面白いよ!

マザー・テレサの言葉

マザー・テレサの言葉です

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

おぉ!そうか!
ということは
ものの考え方ひとつで
自分の運命を作れるってことじゃないか!
素晴らしい!
これこそが自由だ!
と思ってしまいます。

多くの人は
もっと謙虚な解釈をするのかもしれませんね。
謙虚じゃなくてすみません。

これ
「運命」を起点にして
バック・キャスティング
つまり逆に追っていくと
非常に戦略的な思考になるのです。

ちなみに
最近知ったのですが
「自由」とは
自らに由る(みずらによる)
つまり
自分で 考える 決める やる
ということなので
英語のfreedom(フリーダム)とは違うのだ
と。

freedomは
前提として
何かにとらわれていて
そこから解放された状態
といった意味です。

なるほど。
そりゃ確かに違う。
全然違う。

参考までに
意外かもしれませんが
マザー・テレサの遺した言葉には
「挑戦」というワードが多く見られます。
興味のある方はぜひ調べてみてください。
何か気づきを得られるかもしれません。

自分の人生を自分の力で作っていくのだ
という自覚を持った生き方をしたいものです。

成長の難しさ

人が成長するって難しいことです。

成長というのは
今の自分から少なからず変わるということです。

人は自然と過去の行動を繰り返します。

今日の自分が生きているのは
昨日から無事に生きてこられたから
ということは
今日も昨日と同じ行動を繰り返せば
生きていける可能性が高い
生物にとっては、生きているというのは
「大成功」
なもんで
無意識にそういう行動をするのだ
という説がありますよね。

動物ならそれでいいでしょうけど
人間の社会はそうはいかなかったりします。
年を取るに従って社会での役割が変わったり
環境が変わったり
はたまた新たにやりたいことが出てきたとか
それにあわせて変わっていく必要があります。

でも無意識に過去と同じ行動を取ってしまう。
無意識レベルでの抵抗ってのは手強いです。
何せ意識できないから。

でも全く打つ手がないかというと
そんなことはなくて
意識的に行動して
それを繰り返す

するといつか無意識で行動できるようになる
これは「癖」を意図的につくるということですね。

では、外力で
つまり他人が強制したらどうなのでしょう

ある程度は意図したとおりになるかもしれないし
ある程度は習慣化できるでしょう

その過程で意識上の抵抗がなくなれば
うまくいくかもしれません。
いわゆる腑に落ちるとか。

でも
大抵は途中で嫌になるでしょうね。
自分は一体何やってんだ
と我に返る。

何より問題なのは
自分で考えて決めることができなくなる
ということ。
知能とかなんとかというより
勇気が亡くなってしまう
これは大問題。

レースやってると
サーキットで色んな人に出会います

英才教育の子供ライダーなんかは
分かりやすい例かな。

パパがメカで監督で
子供を一所懸命速いライダーにしたがってる。

でも、子供の心のどこかに抵抗感があって
やらされている状態だと行き詰まります。
伸び悩みを自力で打破できない。
余計なことしたら怒られるし。

でも
目を輝かせて嬉々として乗ってる子は
壁に当たってもなんとか自力で
乗り越えようとします。

いろいろ挑戦して失敗して
納得いくまでやろうとします。

親は子供に教育できない
と言う話を聞くことがあります。

子供に希望を託すのは良いけど
必要以上に子供に
親自身の具体的な好みを押しつけるケース
意外とありそうな気がします。

子供の幸せを願っているようで
実は自分の希望を叶えたがっているだけ
とか。

子供に失敗させたくない
と、いろいろやって
いろいろ考えてあげちゃう。

結果
自発性がなくて
失敗したくなくて
トライできない人になる。
それって成長できないってことじゃないですか。

失敗を恐れない馬鹿野郎に改造してあげたいけど
しょせん外力ではどうにもならない。

こういうって
多かれ少なかれ
昔からあったことだとは思うのですが

でも、エキサイティングな活動に関わることで
そういった呪縛から逃れて
その先の世界に行けたら
ハッピーですね。

まぁ、お手伝いしかできませんけど。