アイデアと知識の関係

アイデアを形にするために必要なのが知識やスキル。

とはいうものの、基本的な知識ってのは大事です。
国語とか算数、理科、社会なんてのはそういうものです。

で、その辺を一通り手に入れたあたりで、ボチボチ行きたい方向へ来ましょうか、ってことで、実用的な知識とかスキルを手に入れ始まるわけで。

その「行きたい方向」の先にあるのが、ゴールですね。
そこで夢を実現するために必要なのがアイデア。

そして、アイデアを形にするために必要なのが、知識とかスキルってわけです。
そう、ここが重要で、知識とかスキルはアイデアを形にするために「必要」なのです。

必要だと思うからこそ、それらを吸収できるわけで、その順番が逆では形にならない。
アイデアが出る状態、必要性を感じることが重要。

知識さえあればアイデアが出るのかというと、大抵はそんなことはありません。

目的も無しに得た知識をどう使うか?
それによって何ができるか?
そんな風に悩む人が多い気がするけど

本当は順番が逆で
欲するもののためにどのような知識が必要か?
どうやってそれらを手に入れるか?
そんな風に考えて工夫することが大事なのですね。

で、まずはやってみる。

やればやるほど、やらないと分からないことが得られる
何が足りないか分かる。
そんなものです。

やってみもせんで何が分かる

まさにその通り。

チャレンジの持つ意味

机の上のお勉強によって得た知識は、実際にやらずして正解が分かる便利なもの。
ですが、それは万能ではない。

そして、極端なことを言うなら価値は無い。
それは言い過ぎかもしれないけど、知識自体に価値があって、それが全てなのであれば、人間でなくても良いわけです。
AIの方が高性能で高価値ということになります。
しかもコストも安い。

既存の知識の多くは、誰でも手に入る時代が目の前に来ています。
というか、すでにそこにいる。

我々日本人は、幼少の頃から教育の中にある「成果」と「不正解」だけを見て育ってきています。
学習は、正解を導き出すためのスキルを身に付けます。

でも、世の中は正解と不正解に割り切れるものばかりではない。
あるものごとを異なる方向から見たら、正解と不正解が入れ替わることもあります。

そもそも、これから訪れる先の見えない不確定な世の中に対して、正解やら不正解やらという既存の価値観は通用しないことが増えるでしょう。

ではどうするか?

リスクを払ってチャレンジするしかない。
もちろん、リスクに応じたリターンがあるのは当然。
それがいつになるのか、リスクに見合ったリターンなのかは当人次第といったところだとは思いますが。

でも、いずれにせよ価値はチャレンジの先にしか無い。

二階に上げてハシゴを外し一階に火をつける

そんな感じの追い詰められた状態にして知恵を絞って成果を出す
そんな環境で成長させる
といったような意味です。

これ、昔のホンダでよく言われていたことです。
今も言われているのかな?
今じゃハラスメントとか言われちゃうのだろうか。

でも、開発の仕事に関わったら、多かれ少なかれそういった状況になるのではないかと思います。

ただこれは、「やらされる」という側だけで見るとハラスメント的かもしれませんが、その環境を作る人、つまり管理職側から見るとちょっと違ってきます。

二階に上げるのも、ハシゴを外すのも、火をつけるのも
すべて勇気が必要です。
相手を信じて任せる勇気です。
管理側には責任がありますからね。
任せるのは良いけど、できなかったらどうすんだ?って話です。

実はその辺を理解するまで随分時間がかかりました。
追い詰められると成長するのは分かっていましたが。

そうそう、昨日の投稿にあった
「部下に任せておけば驚くような成果を出すから」のようなことをいった人が…
ですが、出典が分かりました。
アメリカ陸軍のパットン将軍です。

正しくはこうでした。

“Never tell people how to do things. Tell them what to do and they will surprise you with their ingenuity.”
「人にやり方を教えるな。何をすべきかだけを伝えれば、彼らは驚くほどの創意工夫でやり遂げる。」

これはなかなか素敵な名言なのですが、「ホントか?」とも言いたくなります。
理想論だろ、と。

しかし
魅力的なゴールと期待に応える高いモチベーション、そして任せる者の勇気と覚悟、そして相互の信頼を前提としているなら分からなくもない。

夢工房のやり方は、そんなのが理想なのだけど、学校教育の現状から照らすと、どうも距離感がありますね。
そのギャップを埋めるのが一苦労なのですよ。
でも、そこが最も大事で最も面白いところなのかも。