正解とか不正解とか 3

善とか悪とか
合っている間違えているとか
そういうのは多くの場合、それはある特定の価値観に基づくものだったりするわけで、ある人にとっての正解は、別のある人にとっては不正解だったりするわけです。

でも、善とか悪とかは決まってるだろうって?

確かに似たような道徳観とか価値観を持っている者同士ならそうかもしれませんね。これも極端な例を出すと分かりやすいですよ。

キリスト教圏の国の人と、イスラム教圏の国の人では善悪の基準すら異なります。教典を固く信じて、生活のみならず、教育や法律などの基準ともする原理主義ともなるとなおさらです。

そんな風に価値観が異なる関係では、一方にとっての常識でも、他方にとっては、「堕落した…」とか「穢れた…」とか「悪魔的」とか、そんなことになります。
これは民主主義と社会主義の国、民主国家と独裁国家でも同じようなことになるでしょう。

これらが相対した場合、互いに相手は「悪」で、自分が「善」です。
相手は間違えていて、自分が正解です。

極端ついでに誤解を恐れずに言っておくと、戦争も善悪の戦いではありません。
確かに国際法を守るとか破るとか、そういう問題は発生することがあるかもしれませんが、双方が自らの正義のために戦っていることがほとんどでしょう。
で、負けた方が「悪」ということになります。
正義が勝つなんてのは、テレビや映画のお話しです。

だいぶ脱線しましたが、こんな風に考えていくと、正解とか不正解とかが明確に決まったものばかりに囲まれている「学校」って、特殊な世界だったりするのではないかな。

ものづくりをしていて、それが新しいもの、世に無いものだったりする場合、そのイメージとかアイデアには、すでに決められた正解も不正解もありません。
原理的にとか、コスト的にとか、そういう判断基準はあるでしょうけど。

正解・不正解ベースでの訓練の成果が発揮されてしまうと、正しいイメージとか正しいアイデアを求め出すわけですが…正解が無いので、確定したりアウトプットしたりできなくなります。

そうそう、知識自体は「引き出し」として大いに有効です。が!それを使う訓練がされないままなら、引き出しは閉じたままで錆び付いて開かなくなりますよ。気をつけましょう。

今のやり方や枠組みは、そう簡単には変わらないでしょうから、夢工房は夢工房のやり方で行くしかありませんね。

「オレが正義だ!」
でやってみて、ダメだったら
「ごめんなさい」
と、やり直せば良いのです。
これをハイスピードで回して、期限内に求めるレベルになればOKでしょう。

ま、言うほど簡単じゃないですけどね。

良い子でいたいキミは真似しない方が良いです。
きっと怒られるから。

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