確かドラッカーがこんなようなことを言っていました。
50年くらい前ですが。
「人の寿命の延長に伴って労働寿命が延長されて教育も延長される」
確かにその通りになっています。
色々伸びています。
では、その内容は?
定年延長に伴って、長く仕事をするようになると
仕事の内容はどう変化するでしょうか?
もちろん若い頃のような労働内容とはいかないでしょう。
たとえば
新しいことにチャレンジするようなことに主体を置いていたとしたら
その経験を活かしたマネジメントや
アドバイザー的な仕事にシフトしていくように変化していったりするでしょう。
教育はどうなるでしょう?
どうなると思いますか?
今や大学進学が半ば当たり前の世の中になっています。
これからは大学院にシフトしていく可能性もあります。
しかし!
理工系の大学生のパフォーマンスが向上しているかと言えば
一概に言い切れないと思います。
大学での学部4年間の学びが高度化しているかと言えば
決してそんなことはなくて
むしろ専門的な学びから基本的な学力の習得にシフトしていて
内発的な動機
つまり「やりたい」を伸ばしていくような授業は消滅しています。
実験や実習で物に触れたり
工作機械で加工をしたりはしますが
それらは目的がありません。
もちろん、指導書に「目的」が書いてはありますが
それは外発的な目的に過ぎず、内発的なものではありません。
なので、学生自身は自己の目的として意識はしていないでしょう。
であれば、目的に沿ってどうしたいかなんて意識は無いはずで
それが無ければ向かう方向性は無いので
単位を取るために仕方なくやるでしょうね。
何もしないよりはマシですが
何のためにもならないとは言いませんが
あまり役には立ちそうにもありません。
なので
「このままじゃ不十分だから、大学院行かなきゃ!」
ってことにもなりそうです。
そうそう!
学校のやり方は
内発的と外発的の区別が付いていないように見えます。
「やる」と「やらされる」の区別は無い。
というか、ほとんど全てが「やらせる」ですね。
そりゃぁ学生がそれらの区別が付かなくなるのは仕方ない。
学校自体が主体性が無くて
文科省からのオーダーでやっているなら
組織としてのゴールが無かったりもするでしょう。
当然ながらそこで働く者にもゴールは無いでしょう。
だったら学生にもゴールは無かったりするでしょう。
そんなふうに
凄くシンプルで深刻なことになります。
で、こんな状態になるとしたら
一体どうしたらいいかという話しなのですが…
昨日の記事にしたように
「逆をやる」
というのが一つの戦略です。
多くが間延びしているのであれば
短期決戦でチャレンジする。
多くがやらされているなら
積極的に自発的に動く。
そういうアクションが世の中から求められるのは必然です。
なぜかって?
それは当たり前なのですが
皆と同じじゃ競争力が無くて
価値が無いからです。
さらに、間延びするということは
単純にコストがかかるわけで
それに見合う価値が作り出せればいいのですが
そうもいかないでしょう。
間延びしてしまったら
人の気持ちを高いレベルに保つのは難しいから。
そもそも
大学進学が半ば当たり前となった現代は
そうなる前に比べて
それに見合うだけのゲインを得られているのでしょうか?
そうでもないのではないかな。
夢工房には大学院生はいません。
短期決戦の逆張り野郎なのです。