学びの心はどうなっちゃってるの?

とか言って
別に大したことを言いたいわけではないのですが(笑)

「学び」
とかいうと
やはり学校での授業などの勉強を考えちゃいますよね。

言われて
やる
です。

もちろんこれも「学び」で
大事なことの一つです。

そんな経験も大事だし
自分が必要とも思わなかったことを
与えられる
そんな側面もあるわけで。

でも、大事なものが欠けている気がして仕方ない。
そもそも「学び」って何なのだろう?

授業で扱うような
定型的な知識を
受動的に取り入れることだけが学びなのか
というと
もちろん決してそんなことはない。
それは誰でも分かっていることだと思うけど。

不定形な知識(に限らず)を
主体的に得ていく
これも学びなのであって
むしろそっちの方が定着しやすく
精神的にも健全なのだと思うのです。

そういったことをやる時って

言われたからやる
ではなくて

やってみたいからやってみた
そしたらこうなった

みたいなアプローチになると思うのですが
そこには
自発性という最も大事なことがベースになっています。

好きなことをやっているなら
本気で観察して記録を取ったり
色々工夫してチャレンジしたり
懲りずに何度もトライしたり
大事なことがたくさん経験できて
さらに実体験として身に付くはずなのです。

もちろん、知らないことに向き合うのなら
多かれ少なかれ困難があるのは当然で
好きなことなら諦めずに
頑張って乗り越えようとするでしょう。
これは、自律的に成長するってことですよね。

対して
言われて覚えた知識なんてのは
卒業したら、ほとんど忘れちゃいます。

あと問題なのは
やらされる中にも
何かしら喜びがあることもあるでしょうけど

自発的に何かをやったなかから得られる喜びは
その大きさも
発生する頻度も
桁違いだと思うのです。

喜びが無い中で
「自発的に勉強せい」
なんてのは非常にキツイ。

さて
この、自発的に好きなことをやってみる
というような授業形態

以前、ものづくりの重要性が叫ばれて
盛り上がっていた時期には
あちらこちらで盛んにやっていたはずです。
(これ、以前にも記事にしましたが)

ところが今は
かなり下火になっていると思います。

たぶん理由は色々あって

ITの台頭によって
ハードウェアが盛り上がっていないとか
そもそも、ものづくりの経験がある世代がリタイヤしてきているとか

そしてたぶん
これが最も大きな理由ではないかと思っているのですが

ものづくりの授業は非常に面倒なのです。

そもそも、良いとか悪いとか
主観的な評価が出てきちゃうので
点数を付けにくくて
評価もしにくいし

うまくいかない学生や
サボっちゃう学生をどう扱ったらいいのやら
とか

各人の能力差があったり
取り組んでいるテーマの難易度がバラついていたりして
日程の管理もしにくい。

ものをつくると怪我なんかも付きものなので
色んな意味でリスクはあるし
安全管理とか多くの教員の経験のないことも必要だし。

とにかく面倒なのでしょうね。
まぁ、分かる気がします。

でもね、学校で面倒だからといって
やらなかったら

未来の社会が
もっと面倒なことになるんじゃないですか?
と言いたいのですが
どうなんでしょうね。

で、何度も言わせてもらいますが
夢工房は頑張りますよ。

2・8の法則 再構成なるか

自発性を高めるには
想像性を高めるには

どうすればいいんでしょうね。

自分がそうなりたいのなら
自身の希望に従えば良いだけで
話は簡単。

でも、こと他人のこととなると
結構難しい

学校でも家庭でも職場でも
みーんな悩んでいることでしょう。

あーだこーだ言って
あれこれやらせる?

そういうケースが多いのかもしれないけど
それでうまくいくなら苦労しませんね。

やらせたら
やらされる人になっちゃいますものね。

結局のところ
よく言われる
2・8の法則とか
2・6・2の法則みたいに

2割は言われなくてもやるけど
残りの8割は言われたらやる(2・8の法則)

残りの6割は言われたらやるけど
あとの2割は言われてもやらない(2・6・2の法則)

みたいなことになるのだろうとは思います。

もちろんこれは
各人の行い全般について言えることではないとは思うので
あることに対しては積極性を発揮するけど
別のあることについてはフォロワーになっちゃう
というようなことはあるでしょうけど。

おや?
だとしたら
うまいこと仕事を分解したり再構成したりして
タスクに多面性を持たせたりすると
色んな特性を持った者それぞれが
アプローチしやすくなったりするのかな。

立体的に2・8の法則を組み立てる…?
うん、これは実験してみる価値があるかも。

というわけで
複数人で構成されるチーム全体の
自発性と創造性を高めるなんてのは
とても難しいことなんですね。

だとしても

だから諦める

なんてのは選択肢に無いわけで
何とか底上げして
面白くやっていきたいわけです。

20年やってみても
どうしたら良いかなんて
まだまだ分かりませんし
終着点は無いのだと思います。

でも、色々試して色々変えて
それで継続できているというのは幸いなことです。

まだ納得できる成果は得られていないとしても
指示しなくても自発的に頑張る学生が集まっていて
それが継続できている
というのは、なかなかイケてるのではないか
と、自画自賛しているわけです。

でも、これ
環境だって、風土だって
自分一人でやったわけじゃないのですけどね。

先人がいたり、頑張った卒業生達がいたり
この環境を許容してくれる大学や
応援してくれるスポンサー方のお陰なのです。

一人じゃ、なーんにもできませんから。

今宵も頑張る学生達
たぶん2・6も2・6・2も、すでに破っている気がしますが

チャンスは誰かが持っている

クッソ、ナントカ…
バカ、ナントカ…

よく聞きませんか?
あなたは言っていませんか?

単に
みんな言っているから
流行っているから
そんな特に理由にもならない理由で言っているのだと思いますが。

アレ、ダメです。

何がダメかというと
無意識の話なんですが

無意識は、人称を理解しないのです。

なので、ソレを
特に誰に向けてでもなく
特に悪い意味でもなく
普通に自然に使っていると
無意識は
それが自分に向かっているという理解をします。

なので、自然と
クソでバカが入ってしまいます。

恐らく、クソでバカな人生になります。
少なくとも、そういう可能性が高まります。

まぁ、本人はそれでも良いのかもしれませんが
周囲で言っていたら耳に入ることもあります。

前向きに頑張ろうとしている者には
ネガティブなワードは気持ちよくない。
正直、迷惑です。

なんかここまで愚痴っぽくなりましたが
大事なのはここから。

誰しも
何かしらうまくいって欲しい
と願っているはずなのです。

そのために学校に行ったり
何かにチャレンジしたりしています。

うまくいくために必要なものは色々あるでしょうけど

重要なものの一つに「チャンス」があります。

これが手に入るのを
宝くじが当たるのを待つように待ちますか?

まぁ、何もせずに待っていても
何も来ませんけどね。

というのも
チャンスは自分がすでに持っているものではなく
第三者が持っています。
思考と感情を持った人間が持っているのです。

会社だったら上司や先輩
学校なら先生や先輩かな。

で、チャンスを持っている人は
それを誰かにあげたい
と思っている。

どうせあげるなら
うまくやってくれる人や
面白くしてくれる人に手渡したい。

そんな時
クソとかバカとか言っている人に手渡したいだろうか?
考えるまでもないでしょう。
そういうことです。

よく失敗しちゃうのは
いわゆる「優秀な人」にチャンスを手渡してしまうことです。

私も初めて部下を持ったときにやらかしました。

これ、本当に仕事ができる人なら良いのですが
単に学校の勉学の成績”のみ”が優秀な人に手渡しちゃうと
うまくいかないことがありますね。

というのも
例えば「新しいものをつくる」というチャンスには
だれもやったことがないことをやる
というミッションが内蔵されています。

こういうのにチャレンジすると
失敗したり行き詰まったりするのですが

そこからどうするかは
パッションやマインドの問題であって
形式的な知識の保有量の問題ではありません。
もちろん、知識があるに越したことはありませんが。

パッションがあるヤツにチャンスを渡せば
多少知識が不足していても何とかしちゃいます。
その逆は、あまりお目にかかったことがありません。

チャンスを掴むには
チャンスがあるところにいなければならないし
ちゃんを手渡せる距離にいなければならない。

そういう環境にいる
というのが必要最低限の条件です。
当然ですが。

もちろん
リスクは取りたくないけどチャンスは欲しい
という矛盾した欲望は捨てましょう。
それを本当に望むと
凄く難しいことになりますから。

そう。
チャンスというのは多面性を持っていて
ある方向から見ると素敵なのですが
別の方向から見ると
リスキーで面倒くさいのです。

掴んでみて
やってみないと
正体は分かりません。

なので、面倒を排除して楽をしたいなら
チャンスなんて見向きもしないのが一番
ということになりますね。

もちろん、そんなの面白くないよね!

ということで
夢工房では、ものをつくるだけでなく
こういうネタを皆で話し合って

あーじゃない、こーじゃない
と、やってます。

技術は人なり
ですから。