不完全でいいじゃん

いや、なにも
無能でいいじゃん
ということではないので
誤解なきよう。

日頃思うのは
学校は、取得するべき単位とか
修めるべき科目があるわけで
そこそこまんべんなくできる必要がありますが
というか
皆同じようにできないと評価されなかったりしますが
それぞれがもっと何かに特化して
不均一でもいいんじゃないかな
ということです。

何もできなくてもいいんじゃないか
なんて言っていませんよ。
念のため。

だって、会社組織をはじめ
人が集まって何かやるときって
それぞれが得意なことを活かして
大きなことをやるわけで
みんなが同じことしててもしょうがないでしょう。
マスゲームじゃないんだから。

結局、あらかじめ用意された物差しで
測定できないものは能力として認めることはできなくて
皆を同じような仕上がりに仕立てようとするシステムなので
学生が受動的になって
単一的な思考や価値観になるのは当然だと思うのです。

例えば、チームで大きな仕事をやる上で
重要な素養は学校では学べません。

コミュニケーションが必要ないシステム
(ある意味、洗練された効率の良いシステム)になっているのに
「コミュニケーション能力を身に付けよう!」
って、なに言ってんですか?
とも思うし

イマジネーションとかクリエイティビティが必要ないシステム
(ある意味、洗練されたシンプルなシステム)なのに
「創造力を醸成…」
とかね。

そんなものは定量化して評価できないし
教わる側からすると、そもそも必要性を感じないのだから
うまくいかないでしょう。

知識を頭に突っ込むこと
それを記憶していることが学習だ
というなら、今の学校も塾も
とても良くできていて
素晴らしいシステムで
どんどんやれ!!
なのですが
本当にこの方向性でいいのでしょうか。
今後もこれを強化していくつもりなんでしょうか。

もちろん、そういう環境もあっていいのでしょう

でも、それだけでいいのかな
という疑問を感じるし
ちょっと口の悪い良い方をすると
社会からのニーズを無視し続けるのも
いい加減にした方がいいんじゃないかな
と思います。

ひょっとすると
時として、そんな環境に我慢できなくなった少数の反抗分子が
斬新なこと(良いか悪いかは別として)を始めたりして
そんな中から面白いものが生まれることもあるのかもしれません。

でも、そういうのってイレギュラーで高リスクなわけで
うまくいけば結果として賞賛されることもあるかもしれませんが
実際に当人が何かしらやっているときは
賛同者がいないどころか
怒られたり、足を引っ張られたり、笑われたり、無視されたり
色んな意味で高リスクなはずです。

そんなのは気にしないで
やりたいことをやるのが一番なのですが
そうもいかない「普通」な者の方が多いわけで

気にするとか気にしないとかのボーダーラインは結構高いレベルにあって
「普通」はそのハードルを越えません。
リスク高いから。

学校でやってることって
広大な幅のコースで競うドラッグレースみたいなもので
加速力という単一の尺度だけで優劣を競っているような状態ですが

実社会は、直線もコーナーもあるわけで
前走者と同じ走行ラインを取ってたら抜けないのは当然で
コーナーの突っ込みでも立ち上がりでも、最高速でも
自由に勝負していいわけで
時として勝手に新しく分岐点を作って
全く新しいコースを走ってもいいわけです。

実社会で新たな道を切り開いた者は
先駆者と呼ばれますが
学生が学校で新たな道を切り開こうとすると
厄介者になりますね。

少子化といえども凄まじい人数がいる同一世代を
同じ方向に向けてフル加速させようなんて
リスクマネージメントの観点からすると
恐ろしいことやるなぁ
なんて思っちゃうのですけど、どうなのでしょうね。

と、色々疑問を感じるのですが
このシステムを構築した人は
このシステムで高評価を得た人でしょうから
そう簡単には変わらないでしょう。
国レベルの話ですし。

大学の講師風情が偉そうなことを言ったところで
負け犬の遠吠えみたいに聞こえるでしょうから
信じていることをやるしかないですね。

というわけで
別に愚痴を言いたかったわけではなく
夢工房は、こんな事情もあってリスクを取って前進していきますよ
別に授業じゃないのだから
というお話しなのでした。

どう思うかが全てを決める

自信があるとか、ないとか
やる気があるとか、ないとか
色々ありますが

何かをやるにしても
その時の心の持ちようが結果を決める
というのは当然です。

そんなの当たり前すぎて
言われるまでもないと思います。

到底できるとは思えないとか
全く興味がないことをやっていたら
うまくいく可能性は激減しますよね。

さらに
そうした結果を経験として未来に再利用できるはずがありませんし
そもそも、そんなことをしたいとは思えないでしょう。

「自信がある」
というのは、もちろん単に威張っている状態や
できることが確定している状態ではなく

自分には、きっとできると信じていたり
自分なら、きっと何とかなると信じていたり
そんな状態です。

誰が?

自分がです。

自分が勝手にそう思って良いのです。

それでどのような結果が出ようと
そう思ってやるのは自由です。

ただ、そのためには
「どうしたいか」
が必要です。
ビジョンですね。

自分がやること・やっていることに対して
必要ない
関係ない
と思っていたら
それがうまくいくことなんてない。

なので、好きなことをやるのは決定的に重要で
だからこそビジョンが持てるわけで。

ありがちな問題は
必要ない
関係ない
そんなことは関係無しに
言われたことをやる経験しか持たなくて
ただそれだけをやることに慣らされてしまうこと。

これは大変不幸なことです。

でも、世ではそれができるコを
「良い子」
と言います。

多くの場合「良い子」は
自分のビジョンではなく
他人のビジョンに従います。

一応言っておきますが
他人のビジョンに従うことが
悪いとか劣っている
ということはでありません。

いずれにせよ
自分の現状でいくと将来どんなことになるか。

そりゃ、その「将来」になって
やっと分かるというのが良くあるケースなのですが

ちょっと興味のあることをやってみて
それも一所懸命やってみたりすると
先行きどのようなことになりそうか
という見通しが立ったりします。

で、その見通しに対して
納得いくなら、そのまま行けばいいし
納得いかないなら、変えればいいと思います。

そんな見通しが立てられるのも
ものをつくっているからこそなんだよね
と思うのです。

やはり「思い」が全てを決めるわけで
「思い」が無ければ、他人に決めてもらうことになります
というお話しでした。

ダメじゃないものが良いわけではない

何が言いたいかというと

新規でものを作ったりするとき

良いものを作りたい

と思うべきで

ダメなものを作りたくない

と思うべきではない

ということです。

分かりにくいですか?

ダメじゃないものを考えて作っても
良いところがあるとは限らなくて
良いところが無いなら
受け手の心は動かないよね
ということなのですが。

それに、大抵の場合
狙い通りにいくことは少ないので
狙ったボーダーのちょっと下あたりに着地しちゃうことが多いですね。

すると
ダメじゃないもの
を作ろうとしたのに
ちょっとダメなもの
ができちゃいます。

なので、ダメじゃないことをやろうとしたのに
ガッカリする結果が出ちゃいがち。

まだ理由があります。

別に良いものではない
そんなものを作るのに
ワクワクしないでしょう?

ワクワクしないのに良い仕事できるのですか?
というのもあります。

ダメじゃないものを作る時って
ダメじゃなくするために
「やる」より「考える」のボリュームが大きくなって
仕事が遅くなりがちで
モチベーションを上げにくい。

すると、モチベーションが上がらないから手が動かない
手が動かないから結果が出なくて
次にどうしたら良いか分からなくて
モチベーションが上がらなくて、さらに考え続ける
というサイクルにハマって
どんどん時間が無くなる
ということにもなりがち。

あと、これは人にもよるのかもしれませんが
良いものを作ろうと思っていると
作りたくて仕方ないから
早め早めのアクションになって
やったことの結果が早い時期に見えます。

なので、仮に失敗しても
モチベーションが高いのでアイデアも出るし
その原因を改善する余裕もできる。

それに、失敗のリカバリーができれば
それは結果としては「できている」ということになるので
意外とモチベーションが上がったりすることがあります。

モチベーションのついでに言うと

よく
「モチベーションが上がらないからやる気が起きない」
と聞きますが
やらないからモチベーションが上がらないのです。

何でもいいから
必要だと思うことをやってみれば
何かしら結果が出て次が見えてきます。

そんなもんだと思います。