教育はどこに行くのか

成長とは現状からの変化です。
何度も言ってますが。

なので、変化を恐れる心では成長は難しい。
これ、当たり前だけどあまり意識されていないことだと思います。

そして、その変化は自らするもの。
他から変化させるのは難しい。
というか、無理と思って良いでしょう。

「教育する」とか言ったところで、どうなるか(現状からどう変化するか)は、全て本人次第です。
ただ、環境や助言などは、きっかけにはなります。

「手強いなぁ」と思うのは、幼少の頃から知識を身に付けることが至上命題で、言われたことをやる、言われて覚える、正解を出す、みたいな事ばかりをやっていると、価値観が強烈に固定化されてしまうことです。

そうなると多くが
言われたことが上手にできる者
いい加減やらされるのはうんざりで、とにかくやりたくない者
となっていくのは当然なのかもしれません。

創造性は必要無くて、言われて動けば良い

そんなの面白くないし、社会に出たら困ったことになるだろうけど、学校ではそうするしかないし、それができれば高評価なのだから、そこから変化する必然が全くありません。

これ、恐らく本人にも意識できていないことで、そうなると理屈では変化が必要だと理解できても、なかなか思うようになりません。
大変気の毒です。

だって、そんなことしてたら出来の悪いAIみたいになっちゃうのは目に見えているでしょうに。
恐らくそんなことは本人も分かっているけど、どうしたら良いのか分からないのでしょうね。
正解が。
そもそも、そんなものありませんけどね。

もちろん一定数は社会に出てから仕事の面白さに気付いたりして、変わっていく者もいるでしょうけど、それにしても、もったいない時間の使い方をしているなぁ、と思ってしまいます。

でもこれ、最近に限ったことでは無くて、結構昔からやり方自体は同じなのですけどね。
何が変わったのかを考えると、遊びの環境とか学び自体とか、色々なものが洗練されて、高性能で高効率になっているのかな?と思ったりします。

それ、良い事じゃん!
と言う話しなのですが、何事にも多面性はあるわけで、得るものがあれば同時に失うものもあるわけで、そういう意味ではメリットしか無い完璧なものなんて存在しないんですよね。

例えば、便利な世の中になって、安価に何でも手に入って、それらの完成度が高かったりすると、自らの手を使って何かを作るセンスとか創造性なんて必要無いわけですよ。
そんなのはプロに任せておけば良いので。

もちろん、道具を使ってモノを作らなければ、面倒は無くなるけれど、同時にスキルやセンスを磨く機会はありませんし、便利な道具が時とし危険な物にもなることも分かりません。

そんな事を考えていると、この先我々はどうなっていくのか大変興味深いなぁ、なんて思うのです。
もちろんそれは他人ごとではありませんので、「どうなっていくか」じゃなくて「どうしていくか」とするべきです。

さて、どうしましょうか。

実践の重要性

「知ってる」と「できる」は違うよ
というのは強く言いたいところです。
学生達には本当に理解して欲しいところ。
だけど、その本質を知る機会は学校の授業にはほとんどありません。

工業系の学校であれば、授業で、応力計算とか、図面を描くとか、実習で加工するとかがあります。
それらができれば「できる」となるのか。

全く違います。

例えばね、自動車教習所に行くとしましょうか。
で、学科が完璧だったら、それは上手に自動車の運転ができるかというと、決してそんなことはないですね。

なので、実技もあります。
実技が上手にできたら、公道で上手に運転できるでしょうか?
そんなことはありません。
例え路上教習を終えたとしても、実践的な運転のレベルにはほど遠いですよね。

初心者のうちは、操作に意識が集中して考えながらじゃないと操縦できないので、キャパシティがいっぱいいっぱいになっで、気付かないことがあったり、できないことがあったりします。

運転に慣れてくると、操作に意識を使わなくても自然とできるようになります。
その領域になって初めて見えるものとか気付くこと、できることがあります。

まぁ、自動車教習所は、学科と実技と両方あるからまだマシなのですけどね。

では、違う例えを。

空手を通信教育で習ったとしたらどうでしょう?
そんなもん無いとは思いますが。

「型」は、そこそこできるようになるのかな?
でも、それで戦えるかと言ったら、そんなの無理に決まってますよね。

話を戻しましょう。
学校の授業をうまくこなしても、実践的な能力は身に付きません。
誤解の無いように言っておきますが、基本的な知識は大事です。
もちろん色々知っていた方が良いです。

でも、基礎は実際に使うためにあるわけで、実際に使う場合は必ず目的があります。
基礎は目的のためにあるのです。
基礎をつくると目的ができるわけではありません。
目的も無いのに、むやみに基礎を収集していたら、時間がいくらあっても足りません。

エンジニアリングの勉強をするのであれば、目的は「良い製品」をつくることだったりします。
この場合の「良い」とは、お客さんの満足度とか、それによる収益とかだったりします。

であれば、どうやったらお客さんは喜ぶのか?とか、どうやったらコストを削減できるのか?なんてことが重要です。

ということは、品質と性能はもちろん、加工に要する手間とか、それこそ価値の本質は何かとか、マーケティングの知識とか、そういったことが重要です。

そんな細々したものを、いちいち習っていたら時間がいくらあっても足りない?
そうかもしれません。
いちいちやっていたら、教える方も大変かもしれないし、何より、こういうのは聞いて覚えるだけでは不十分で、実際にやってみないとモノにならんのですよ。
空手の通信教育みたいになっちゃいます。

で、上にズラズラ描いた書いたうち、下の方のお客さんに近いところは、こういった分野を学びたいと思った者達の本来望むところなわけで、言ってみればゴールに近いところなわけです。

だったら、早期にゴールに近いところをやってみるのが良いわけです。
もちろんうまくいかないことばかりでしょうけど、魅力あるゴールなら、なぜうまくいかないのかを考えて、工夫する必要性を実感できるでしょう。

なので、何に使うか分からない基礎知識をやる暇があったら、まずは実践的な経験をさせてしまって、知識の重要性を実感したり、自分のゴール到達の道のりを定めることができるようにすべきだと思うのです。

その辺が夢工房の使命の一つなわけです。

ゼロヒャク思考…で良いのか

ゼロヒャク思考見たいな二元論で考えていると、メンタル疾患になりやすいのだそうです。
それはそうだろう。 

世の中の事なんて、大抵はきっちりゼロとかヒャクとかなっていないから。
なので、そのどちらかにしたいなんて希望は叶いません。

学校の教育は、「正解」か「不正解」かで評価します。「できた」か「できない」かです。。
なので当然「正解」を求めるわけで、100点は「完璧」です。

こんなことが生活の中心になれば、当然ながらその他のこともこの価値観に引っ張られるでしょう。
ものごとは「正解」か「不正解」かだ!みたいに。
もちろんそれは、無意識下で。

正解を追求するのは立派なことかもしれませんが、世の中に完璧なものなんて無いと言い切っても良いほど存在しません。

成長においても同様で、ゼロの状態から一気にヒャクにはなりません。
ちょっとずつの変化を繰り返して、徐々に成長していきます。

ゼロヒャク思考でいくと、毎日徐々に成長していても、「まだ完璧じゃない」が繰り返されます。
やってもやってもまだ完璧にはなれない。

そして、その不十分なところにフォーカスし続けていると、「できない感」が習慣として定着してしまう。
それによって「どうせ…」となってしまうこともあります。

ところが、やる気があって頑張る者の心にも影響が及んでいることがあります。

何かをやるときに、ゼロの状態からいきなりヒャクを目指すなんてのがありがちな話です。
当然、そんな方法は思い付かないので考えるわけですが、考えたって無理なものは無理なわけで、どこまでも考えて考えて…時間切れとなりがち。
それによって「やる」経験をすることができずに、知識も経験も得られない。
当然自信も身に付かないので、次のゴール設定は「最低限」を狙うようになったりします。

それを何とかするために、あまり高いところを狙わずに、基本的なことをコツコツと…?

惜しい!

ゴールは高い方が良いのです。
じゃないと、そもそもモチベーションが上がらない。

問題は、その高いゴールに達成するために、まずやることは何か?というところまでのブレークダウンができないことです。

そのために必要なのは、想像力とか経験とか、やはりチャレンジする勇気だったりします。

よく「小さな成功体験を」とか言いますが、いつまでも小さい事ばかりやりなさいということではありません。
デッカイゴールのために、小さい成功からスタートして、継続しましょうよ、ってことです。
やめなければ失敗ではありません。
続けられるようにする工夫も大事ですね。