成果が欲しけりゃ原因が必要

成功したけりゃ成果が欲しい

そりゃ当然なのでしょうけど、そう思ったところで、いきなり成果を掴める方法なんて無いわけで、そのための何が必要かといったら、当然ながら成果の前にあるもの…それはプロセスです。

「原因と結果の法則」ってのがまさにコレ。
そもそも原因が確定したら、それに準じた結果が出るのは当然で、そんなの「法則」と言うまでもない気がしますが、そう言った方が何やら不思議な感じがして面白いし、印象に残りやすいですね。

ま、それはそれとして、望む結果があるとき、直接的にその結果を掴もうとしがちですが、そもそもそんなのは無理なのです。お買い物じゃないのだから。

ならば、望む結果が起きるための原因を作れば良いだけで、それがうまくいけば良い結果が起きるのは当然ってことになります。

そのために大事なのは、結果の上流にある「プロセス」です。
成果、結果は、プロセスによって作られるのですから。

で、プロセスを構成するのは一体何か?
それらをどうしたら良いのか?

それがこの後のお話しです。

成果かプロセスか

皆成功したいのですよね。
うまくいくと良いですね。

では、一体どうしたら良いのか?
うまくいくってのは、一体何なのでしょうね?
私は仕事柄、そんなことばかり考えています。

ゴールを目指すのだから、欲しいのは結果だよなぁ

なんて思うのですが、どうもその辺がピンとこないというか、違和感を感じていたのです。

ゴールとか結果とか、そこに価値を見出すのは分かるけど、結果や成果は他に手渡すべきものだよな、と。
そもそも結果や成果は手渡すからこそ価値があるわけで、手渡してしまったら、それで役目は終わり。他に手渡すべきものは手元に残ってしまったら、それは不良在庫。
自分の手には残らない。

この、他に渡してしまう結果や成果、「もの」に固執しすぎてないか?
なんてことを思い始めました。

教育とか言うなら、重要なのはむしろプロセスであって、良いプロセスを構成できれば良い成果が出るわけだから、大事なのはプロセスの中にあって、そのプロセスを構成する「何か」にこそ価値があるのではないかと思うのです。

プロセスから得られるもの、分かることがあって、それこそが価値の源泉だぞ。
今後、その辺を掘ってみましょう。

実はすでに変わりつつあるのかも

昨日はこんな記事を書きましたが、実はもうすでに変わり始めているかも、というお話しです。

システムの大枠は、そう簡単には変わりません。しかし、全く変わらないかというとそんなことはないと思っています。

というのも、別に大枠が一気変わる必要もないわけで、小さな組織単位でできる範囲で、というレベルであれば、以外と多くの人が色々試しているはずだ、と思います。
だってそんなのは、我々が夢工房という小さな単位で試すことも可能ですし、現に日々試行錯誤しています。

そう、未来における事象は、今まで我々が経験してきたものと同様である必要はないのです。
というか、同じであってはなりません。
未来は過去と違うのですから。
特に我々が生きるこれからの未来は決定的に違います。

なので、既存の形態などに、いかにとらわれないかがカギになるでしょう。

例えば、教育について言うなら…

教育の変化は、まず国が…というアプローチでなくても良いと思います。
国のオーダーに従う必要なんてそもそも無いでしょう。そんなをの待っている暇があるのでしょうか。
ただし、国益に背く方向性などは論外でしょうが。

それこそ学校単位で変化しなくても良いとも思います。
教育の「場」としては学校を利用するのが便利です。色んな既存のリソースを使えますからね。
でも、学びの単位というか、形式としては、既存の授業の形にとらわれなくても良いと思います。
むしろ、既存の枠による制限をいかに外すかが課題ではないでしょうか。

要は、組織とか形式とか、そういった形からのアプローチではなく、必要な「もの」とか「こと」とか経験とか、そういった方向からのアプローチではどうかと思うのです。

あらかじめ決められたことをやらせる
そんな手法をいつまでも全体に適用し続けるのは限界ではないかと思います。