ヒューズの話

fuse
導火線とか、ミサイルの信管という意味もありますが、一般的には電気回路なんかに入れるヒューズを指しますね。

回路に過大な電流が流れたときに、ヒューズが溶断して回路を遮断します。
それによって、過大な電流から部品を保護したり、回路が焼損したりして火災が発生したりするのを防ぎます。
言ってみれば安全装置です。

こういうのって、あまりにも当たり前すぎて学校では学ばないかもしれませんね。

で、我々メカ屋にもヒューズがあります。
メカニカルヒューズと呼びます。
とはいえ、あまりメジャーではないかもしれません。

システムを構成する要素で、一部意図的に弱くつくっておき、過大な負荷が掛かったときにその部分を壊すという考え方です。
それは、電気と同様に安全のためだったり、またはコストのためだったりします。

レーシングカーが分かりやすい例ですね。
マシンでも何でも良いのですが、やはりタイヤ剥き出しのF1をはじめとするフォーミュラカーが良いでしょう。

ああいったクルマは、いかにも走行中にタイヤがどこかにヒットしそうですよね。
実際、レース中のアクシデントとしてはよくあるのですが。

そんな時、タイヤがサスペンションアームごと外れてしまうでしょう?
あれは、意図的に
タイヤ・ホイール~サスペンション~車体
が繋がっているシステムのうち、サスペンションアームや、その取り付け点の強度が低く作られているのです。

もし、サスペンションアームより車体の強度が弱ければ、クラッシュ時に車体が折れてしまったり、車体にサスペンションアームが突入したりして、ドライバーが怪我をします。

今は、ホイールテザーと呼ばれるケブラー製のコードでホイールが飛んでいかないようになっているのではないかな?
かの天才ドライバー、アイルトン・セナの痛ましい事故が思い出されます。
それが直接原因かどうかは知りませんが、あの頃以降、ホイールテザーが義務付けられたのだと思います。

一般の乗用車にも似たような考え方を見ることができます。
前面衝突時に、乗員がいるキャビンより先にエンジンルームが潰れますよね。
アレはメカニカルヒューズではなく、クラッシャブルゾーンといって、あの部分で衝撃を吸収するのが主な目的ですが、考え方は同様です。
弱い部分を設定しておいて、そこを壊す。

ついでに言っておくと、エンジンとかトランスミッションって凄く丈夫なので、それらが収まっているエンジンルームを潰して衝撃吸収するとは言っても、なかなか難しかったりするのです。
エンジンが衝突の衝撃をキャビンに伝えてしまったら、元も子もありません。

なので、衝突時にはそれらの丈夫な物は、車体下方に潜り込むように変形させるとか、各社工夫しているようです。

さて、このヒューズの考え方を、我々の生活に活かすには…なんて、ちょっt無理矢理すぎますかね。

強い衝撃が掛かったら思考停止?

まぁ、それもアリかもしれませんが、クリティカルな状況ではむしろ思考は高速回転してほしいものです。

なので、いわゆる失敗をしたときの捉え方を変えてみたらどうでしょう?

それはネガティブなものでは無く、未来において有用な経験の一つだと。
もちろんそう考えたところで、驚いたり焦ったりはするでしょうけど、有用なものだと思えば、それほど強力な衝撃にはならないでしょう。

考え方一つです。

実践の重要性

「知ってる」と「できる」は違うよ
というのは強く言いたいところです。
学生達には本当に理解して欲しいところ。
だけど、その本質を知る機会は学校の授業にはほとんどありません。

工業系の学校であれば、授業で、応力計算とか、図面を描くとか、実習で加工するとかがあります。
それらができれば「できる」となるのか。

全く違います。

例えばね、自動車教習所に行くとしましょうか。
で、学科が完璧だったら、それは上手に自動車の運転ができるかというと、決してそんなことはないですね。

なので、実技もあります。
実技が上手にできたら、公道で上手に運転できるでしょうか?
そんなことはありません。
例え路上教習を終えたとしても、実践的な運転のレベルにはほど遠いですよね。

初心者のうちは、操作に意識が集中して考えながらじゃないと操縦できないので、キャパシティがいっぱいいっぱいになっで、気付かないことがあったり、できないことがあったりします。

運転に慣れてくると、操作に意識を使わなくても自然とできるようになります。
その領域になって初めて見えるものとか気付くこと、できることがあります。

まぁ、自動車教習所は、学科と実技と両方あるからまだマシなのですけどね。

では、違う例えを。

空手を通信教育で習ったとしたらどうでしょう?
そんなもん無いとは思いますが。

「型」は、そこそこできるようになるのかな?
でも、それで戦えるかと言ったら、そんなの無理に決まってますよね。

話を戻しましょう。
学校の授業をうまくこなしても、実践的な能力は身に付きません。
誤解の無いように言っておきますが、基本的な知識は大事です。
もちろん色々知っていた方が良いです。

でも、基礎は実際に使うためにあるわけで、実際に使う場合は必ず目的があります。
基礎は目的のためにあるのです。
基礎をつくると目的ができるわけではありません。
目的も無いのに、むやみに基礎を収集していたら、時間がいくらあっても足りません。

エンジニアリングの勉強をするのであれば、目的は「良い製品」をつくることだったりします。
この場合の「良い」とは、お客さんの満足度とか、それによる収益とかだったりします。

であれば、どうやったらお客さんは喜ぶのか?とか、どうやったらコストを削減できるのか?なんてことが重要です。

ということは、品質と性能はもちろん、加工に要する手間とか、それこそ価値の本質は何かとか、マーケティングの知識とか、そういったことが重要です。

そんな細々したものを、いちいち習っていたら時間がいくらあっても足りない?
そうかもしれません。
いちいちやっていたら、教える方も大変かもしれないし、何より、こういうのは聞いて覚えるだけでは不十分で、実際にやってみないとモノにならんのですよ。
空手の通信教育みたいになっちゃいます。

で、上にズラズラ描いた書いたうち、下の方のお客さんに近いところは、こういった分野を学びたいと思った者達の本来望むところなわけで、言ってみればゴールに近いところなわけです。

だったら、早期にゴールに近いところをやってみるのが良いわけです。
もちろんうまくいかないことばかりでしょうけど、魅力あるゴールなら、なぜうまくいかないのかを考えて、工夫する必要性を実感できるでしょう。

なので、何に使うか分からない基礎知識をやる暇があったら、まずは実践的な経験をさせてしまって、知識の重要性を実感したり、自分のゴール到達の道のりを定めることができるようにすべきだと思うのです。

その辺が夢工房の使命の一つなわけです。

ゼロヒャク思考…で良いのか

ゼロヒャク思考見たいな二元論で考えていると、メンタル疾患になりやすいのだそうです。
それはそうだろう。 

世の中の事なんて、大抵はきっちりゼロとかヒャクとかなっていないから。
なので、そのどちらかにしたいなんて希望は叶いません。

学校の教育は、「正解」か「不正解」かで評価します。「できた」か「できない」かです。。
なので当然「正解」を求めるわけで、100点は「完璧」です。

こんなことが生活の中心になれば、当然ながらその他のこともこの価値観に引っ張られるでしょう。
ものごとは「正解」か「不正解」かだ!みたいに。
もちろんそれは、無意識下で。

正解を追求するのは立派なことかもしれませんが、世の中に完璧なものなんて無いと言い切っても良いほど存在しません。

成長においても同様で、ゼロの状態から一気にヒャクにはなりません。
ちょっとずつの変化を繰り返して、徐々に成長していきます。

ゼロヒャク思考でいくと、毎日徐々に成長していても、「まだ完璧じゃない」が繰り返されます。
やってもやってもまだ完璧にはなれない。

そして、その不十分なところにフォーカスし続けていると、「できない感」が習慣として定着してしまう。
それによって「どうせ…」となってしまうこともあります。

ところが、やる気があって頑張る者の心にも影響が及んでいることがあります。

何かをやるときに、ゼロの状態からいきなりヒャクを目指すなんてのがありがちな話です。
当然、そんな方法は思い付かないので考えるわけですが、考えたって無理なものは無理なわけで、どこまでも考えて考えて…時間切れとなりがち。
それによって「やる」経験をすることができずに、知識も経験も得られない。
当然自信も身に付かないので、次のゴール設定は「最低限」を狙うようになったりします。

それを何とかするために、あまり高いところを狙わずに、基本的なことをコツコツと…?

惜しい!

ゴールは高い方が良いのです。
じゃないと、そもそもモチベーションが上がらない。

問題は、その高いゴールに達成するために、まずやることは何か?というところまでのブレークダウンができないことです。

そのために必要なのは、想像力とか経験とか、やはりチャレンジする勇気だったりします。

よく「小さな成功体験を」とか言いますが、いつまでも小さい事ばかりやりなさいということではありません。
デッカイゴールのために、小さい成功からスタートして、継続しましょうよ、ってことです。
やめなければ失敗ではありません。
続けられるようにする工夫も大事ですね。