謙虚に頑張るループを回す

神道に、こんな言葉があります。

神は人の敬(うやまい)によって威を増し
人は神の徳によって運を添う

神様は、人が敬うことによってパワフルになって
人は神様の徳によって運を授かる
といったような意味です。

これ、なにも宗教的な捉え方じゃなくても
日常に取り入れちゃって良いのです。

仮に神様を上司とか年長者に
置き換えちゃっても良いじゃないですか。

ここで
神様は絶対的な存在で
奇跡のパワーをうんたらかんたら…とか
神様の言葉には絶対服従
みたいな考え方をすると
訳が分からなくなっちゃいます。

私、会社員やってるときに思ってました。

今、好きな仕事をやらせてもらっているのだから
仲間のために
ボスのために
会社のために頑張ろう!
と。

だって好きな仕事なんだから
それをやって
皆がハッピーになる方向に行ったら最高だぞ!
と。

もちろん
そんなことを考えて
空回りしたり
バカな失敗をしたりもするわけですよ。

でも、本音で頑張っていると
ボスも仲間もフォローしてくれる。
で、また頑張る。

そういうループが回っていたと思います。
もちろん、周囲に恵まれたというのはあります。

昔からボスやお師匠様には
もちろん仲間にも
奇跡的に恵まれてきました。
本当に運が良かった。

でも、今にして思うと
裏表無く、バカみたいに頑張ったから
その影響というか、効果みたいのがあったのかな
と。

もしあのとき
収入とか待遇とか世間体とか
利己的な色気を出して
裏表を使い分けるようなやり方をしてたら
きっとあんなふうに楽しく仕事はできなかっただろうな
と思います。

で、会社が
いわゆるブラックに見えていたに違いありません。
利己的なことを考えてたら
キツいところばかり見えちゃって
あの仕事は乗り切れなかったろうな
と思います。

で、冒頭の神道の言葉です。

我々日本人は
神話の時代の神様の子孫ということになっているので
そんな考え方で良いと思うのです。
それでうまくいっちゃうと思うんですよ。

だって、先祖をたどっていくと
神様になっちゃうんでしょう?

だったら、上司もパイセンも
神様で良いじゃないですか。
日本の神様は西洋の一神教の神様と違って
絶対服従みたいなものではありませんので
もっとゆるくておおらかに考えないと
やってられませんけどね。

神様のために謙虚さを持って頑張って感謝する
みたいな基本的な姿勢って大事だと思います。
それを捨てたら
どこに向かってどうなるか?
きっと冷たくて暗い
嫌な世の中になりますよ。

良い塩梅でいきましょう。

シリーズ 人生は修行だ

テクノロジーが進歩しちゃうと
どうも古いことを軽視しちゃう傾向があるんだろうな
なんとことを最近考えています。

まぁ、ある程度仕方の無いことだとは思うのです。

クルマで言えば
自動運転だのEVだの
ということが言われる時代ですし。

でももちろん
本質的に変わらない部分はあります。

クルマの使われ方に限定せずに
作ることまで考えるとなおさらです。

とはいえ
これはクルマに限ったことではないのですけどね。

いにしえからの教えとか
数百年とか数千年前から言われていて
すごく大事で
当たり前のことがありますが
そういったことすら軽視されている気がします。

例えば
「正しいことをする」
これ、当たり前のことですよね。

でも果たして
どれだけそうしようと思っているか。

この「正しいこと」は
「法的に」などは当たり前ですが
自分の中の正義に背くことをしていないか
そもそも
自分の中の正義を構築しようとしているのか
そんなことを考えています。

そんなことを考えながら
来年の志(こころざし)を立てなければ
と思っているのです。
もう年末ですしね。

志は
自我ではなくて
他のためになることです。
そのために
自分をどれだけ役立てるのか
ということなんですけど

本当に大事なことを軽視して
小さな欲に固執してるのではないか
そんなふうに日々反省することしきり。

まだまだ小さい。
頑張らないとな。

修行の道のりは長いです。

価値観を改造しよう

ポジティブな出来事が起きたときは
どんな感情で受け止めるか?

ネガティブな出来事が起きたときは
どうする?

当然ですが
それによって結果は異なってきます。

でも、何をもってポジティブとするかネガティブとするか
それも問題です。

人付き合いが苦手な人は
初対面の人に会っただけで
ネガティブな感情を抱いてしまうことがあるかもしれませんが
それを楽しめる人がいたりします。
相手にもよるかもしれませんが。

想定外の出来事が起きたとき
大抵は困惑するかもしれませんが
それを楽しめる人がいたりします。
程度にもよるかもしれませんが。

何が起きたときにどう思うか
というのはその人の価値観による
ということです。

で、この価値観を
「普通」という
よく分からないところに収束させてしまう
そんなことがあります。

その「普通」が
果たして自分の理想に対して
望ましいものなのでしょうか?
望ましいなら、この話はここで終了です。

この「普通」という価値観ですが
自分が意識的に作って
持っているなら良いのでしょうけど
どうなのでしょうね。

恐らくこれ
非常にやっかいな問題だと思うのです。

「普通」を求めるのはなぜでしょう?

恐らく、異質なものに対する
批判とか攻撃とか
面倒なものを回避して
それによって傷付きたくない
という願望からくるものではないでしょうか。

とすると、それは
生存本能によるものなので
なかなか手強いですよ。

学生は、この「普通」に翻弄されています。

普段は、「普通」になっていることで
面倒から回避できたり
周囲と価値観を合わせて
集団の中で生きやすい状態となります。

でも、いざ就職活動となると
「普通」には価値が無いことが判明します。
他に対する優位性とか独自性が無いわけですから
自分を選んでもらう理由が無いことに気付く。

そこからどうにかしようと思っても
時間が無いのでどうにもならない。

時間が無くなっちゃったら
そりゃぁもうどうにもならんので
できる限りのことをするしかないでしょう。

時間があるなら
自分の価値観を点検するのも良いでしょうね。

とはいえ
それは普段の自分は意識していないので
なかなか手強いですよ。
見えないし感じられませんから。

なので、それが見える人との関係を持つことが
大事だったりします。

最近は、そういう環境は
なかなか無いでしょうけどね。

私が学生の頃は
学校の外での人付き合いに助けられました。
というか、鍛えられました。
今なら
いわゆるメンターと呼ばれる人達ですね。

よく言われましたよ。
「お前、それで良いんか?」
って。

そうそう、メンターは
経験豊富で客観的な視点を持った年長者
じゃないとダメですよ。

年齢や経験が近いと
価値観も似ているわけで
客観的な判断どころか
妥協や傷の舐め合いになって終わります。

私は、学生のことどころか
社会に出てもメンターに恵まれていたと思います。
おかげで色々分かりましたし
貴重な経験をさせてもらいました。

というわけで
お師匠様を求めて冒険の旅に出て下さい(笑)