「書く」の変化・考え方の変化

今や「書く」と言っても手書きとは限りませんよね。
むしろキーボードやタッチスクリーンでタイプする方が多いのではないかな。

さて、手書きだろうがタイプだろうが、文字や文章として「出力」するというのは同じです。
が、手段・手法がかなり異なります。

それによって何が変わるか?

やり方、考え方が変わってきます

そもそも昔の手書きは、墨を使った毛筆だったり、インクを使った硬筆だったり、一度書いたら消せない書き方。
加えて紙は今ほど安価ではありませんでした。

その後、消しゴムで消せる鉛筆やシャープペンシルが登場し、大量生産・大量消費の時代がやってきて、筆記具のみならず、紙の価格も低下。

そして現在、コンピューターを使った記述、記録が当たり前になっています。

これ、すでにお分かりかと思いますが、単に手段が変わっただけではありません。

書いた文字が消せるようになって、部分的に簡単にやり直しが利くようになった。

PCが登場すると、コピー&ペーストができるようになって、簡単に構成が変えられるようになった。

これらによって、考え方自体も変わっています。
やり直しが利かない一発勝負で文章を書くなら、最初から、構成はもちろん、細部の表現も確定しておく必要があります。
そのために「下書き」なんてものがあったりして、それを元に「清書」したりします。
もちろん下書きもやり直しが利かない筆記具で書くのですから、紙が沢山必要だったりしました。

それは消しゴムで消せるようになると、多少は緩和されます。
鉛筆で下書きしておいて、ペンで清書するといったことをして、効率が向上します。

コピー&ペーストができるようになると、考え方がかなり変わってきます。
全体校正を考えながら細部も同時に考えて…
なんてことは必要無くなって、清書をするフィールドに直接構成やら細部やらをとにかく書き出しておいて、後にそれらを合体させたり動かしたり、そんなことが簡単にできます。
なので、構成なのか、細部なのか、それとも編集作業なのかによって、考えをスイッチすることができるようになりました。
というか、そうなっちゃうでしょう。

つまり、かつてのように「全体を見ながら細部を…」のような、並列処理が必要無くなった。
恐らく、我々の日常の考え方も、そのように変化しているのでしょうね。
単発的に「部分」にフォーカスしていくような考え方に。

そしてこれからは、その「考える」すら、コンピューターにお任せ、という時代が到来しようとしています。

では、我々はどうすべきなのか?

AIにできるのは作業的な、定型的な「考える」です。
そのようなものの上流に必要なもの、それはゴールです。「何のために?」です。
そこにあるのは、気持ちとか、感情とか、思い、そして、それらに伴う思考、といったところでしょうか。

こうして想像力が要らなくなる ではばどうする?

ゴールが無ければ想像力は要りません。

ゴールは未来のことですからね。
設定するためには想像する必要があるわけです。
設定する必要が無ければ、未来を想像する必要は無い。

自らゴールを設定しないってのは、一体どのような状態なのか?

それは「言われたことをやる」状態です。

相手に対して、良かれと思って
「こうしなさい」
「こうするといいよ」
と言う。

一般的にそれは「親切」とされ
それに従うと「素直」とされます。

親切に指示して、素直に従う
なんか凄く良いループが回っているように見えます。
一般的はそれが良いでしょう。

でも、教育においてはどうでしょう?
義務教育まではまだしも、大学において「指示してやらせる」を継続すると、冒頭に言ったようにゴールを設定する必要が無くなって、チャレンジできず、価値を生み出せなくなります。
もうすぐ社会に出るのに、これは一大事。

それだけならまだしも、それによって想像力が無くなって、考える力を失っていく…というのが最近見えてきたところ。

他人にゴールを設定されて、想像する必要が無いなら、その能力は身に付きません。
当然です。

自らゴールを設定しないなら、「何のために」「どうする」などを深く考える必要なありません。
これまた当然です。

で、想像できなくなると、最低限を狙うようになるでしょう。
だって想像できないのだから仕方ない。
でも、最低限を狙うと、最低限も満たせないという皮肉が待っています。
そして、マイナスの(ネガティブな)結果に終わることがほとんど。
だって、やることが完璧にできるなんてことは、あまりありませんから。
そして、そのマイナスを消すためのことに終始するというループが始まる。

このループの困ったところは、マイナスを消したところでゼロにしかならないというところ。
そしてネガティブな結果が強い印象として残ると、好むと好まざるとにかかわらず、そこに向かっていくという皮肉。

これはハッピーではありませんね。

なので、こうしましょう。
解決方法はシンプルです。
チャレンジすれば良いのです。

とにかくゴールは自分で決める。
何でもいいから。

でも、手段と目的は入れ替えないように。

ゴールを決めた後に、「そのためにどうするか?」という「手段」を考えるでしょうけど、多くはその時に既存のものとか、今自分ができることを利用しようとします。
それでも良いのですが、それによってゴールを動かすことは無いようにしましょう。

だってこれからやることはチャレンジですから、経験の無いことをやるのです。
最初はどうしたら良いかなんて分かりません。
分からなくて良いのです。
そのためにどうするかを考えるのが大事なのです。

ここで考えるのを拒否しようとすると、何が起きるか?
多分自分でも気付かないかもしれませんが、一個だけの正解をいきなり出そうとします。
考えたくないから。

そこでどうしたら良いか?

「一個だけの正解」の逆をやりましょう。
とにかく沢山ネタを出すことです。
絞るのではなく、広げる。

頭の中だけでやろうとすると、領域がどんどん埋まっていって、先に進めなくなるので、見え量に書き出しましょう。
面倒ですか?
だったらそれが正解です。
考えるのは面倒だし、面倒なものにこそ価値があるのです。

考えるのが面倒で、それを避けようとしている自分に気付いてしまっても、悲観する必要はありません。

なぜって、脳ミソは我々が思っているより大量のエネルギーを消費します。
なので、生存のためにそれを本能的に避けようとするのは当然なのです。

さて、未来を想像すして、そのためのことを考えたら、早速やってみましょう。
想像して、考えて、やってみて、ズレを修正しながら想像力の精度を上げていくのです。

そんなの面倒?

だから言ってるじゃないですか。
面倒なことには大抵価値があるのですよ。
それを継続するということは、価値を積み上げるということです。
そう、継続も大事ですね。

思い・考えとアウトプット

それらは密接に関連している、というお話しです。
正しくはアウトプットスキルと、かな。

この場合の「アウトプット」とは、話す、書く、など、自分が出力するもの全てを指します。

多くの学生は真面目なので、正しいアウトプットをしようとします。
…変なこと言って恥かきたくないだけかもしれませんが。
まぁ、気持ちは分かります。

なので、正しいアウトプットのための材料が揃ってからアウトプットしようとします。

しかし…ですよ。

思いとか考えをアウトプットする形にまとめるのは、スキルが必要です。
「今思ってることを言ってみな」
と急に言われても困りませんか?
けっこう難しいものです。

ところが、そのための手法やプロセスは具体的に示せません。
定型的にするのが難しいので、教科書などで学べないのですね。

では、どうしたらいいのか?

やるしかない
です。

ダメだろうがレベルが低かろうが、やってみて、その結果をブラッシュアップするしか無い。
そのへんは、AIの機械学習と一緒ですね。

そしてそれは、設計や製作なども同様です。
レベルを上げるにはやるしかない。

ただ、ブラッシュアップするには評価者が必要です。
別にテストの採点のようなことをしてもらう必要はありません。
アウトプットに対する反応から感じ取れば良いのです。
そして、それを元に改善していく。

その評価者は、時として友人だったり、先生だったり、家族だったりするでしょう。
大事なのは、色んな人に対してアウトプットしてみることが一つ。
そして、やはりメンター的な人との関係を構築すること。
社会経験豊富な年長者が良いですね。「人生の師」といったところでしょうか。

振り返ってみれば、私は多くの「人生の師」に恵まれてきたと感じます。
お陰で沢山の気付きを得ることができました。

それにしちゃパフォーマンス低い?

すみませんね。
これでも、かなりマトモになったんですよ。