電気の時代…はどこへ行く?

前回、どうもEVの先が見えないといった話をしましたが、ここに来てアメリカにおけるEVがかなり微妙…というか、失速の様相。

アメリカ国内で生産する場合、電池やモーターを作るための材料、主にレアアースが問題になるのでしょうね。
原材料の埋蔵量も問題ですが、採掘と精製に掛かるコストも重要でしょう。
それを考えると、どうも分が悪いということでしょうか。

エンジン車とEVは、用途に応じた使い分けを…と記事にしてきましたが、どうもこれ、一つの国内での使い分けと言うより、各国の環境に合わせての使い分け、ということになるのかもしれません。

もちろん、各国で独自に生産して、自国内で使用するというのも非現実的。
自国内で生産できる国は限られているし、エネルギーだって国産でまかなえる国も限られている。

なので、一頃言われていたような、「これからはEV!」というような、ガソリン車からEVに切り替わるというのは現実的ではないようですね。
そもそも環境問題に乗じた政治やビジネスの争いなんじゃないの?とは思っていましたけどね。
自動車のビジネスは巨大ですから。

とはいえ、環境問題は考えなければいけないでしょうし、化石燃料の埋蔵量やコストの問題も含めて、トータルで最適な戦略を取るように落ち着いていく…のでしょうか。

ちょっと思い付くことをパラパラと書いてみましょうか。

クルマの運用だけを考えるなら、原発や自然エネルギーで、電力をガンガン供給できる国はEVで良いのかもしれません。使うだけなら。

遠くから持ってきた化石燃料を燃やして電気エネルギーを作る国の場合は、エネルギー密度が低い電池を使ったEVよりも、エネルギー密度の高い液体燃料を直接投入して走るクルマの方が良さそうです。
特にストップ・アンド・ゴーが多い我が国では、重いクルマは不利ですしね。

太陽光や風力など、再生可能エネルギーなら良いじゃん!と思いがちですが、それらは安定供給できないので、電力を貯めておく巨大な設備が必要です。
その電池はどうすんの?
ソーラーパネル、国内で作ってないし。

生産から利用、廃棄までのライフサイクルコストや、同じく環境負荷、エネルギー消費を考えたライフサイクルアセスメントも重要でしょう。
その辺は何かスッキリしませんね。

重くて強力なトルクを発生するEV、タイヤなどの消耗品の寿命は短そうですね。
その重量でダメージを受けるインフラのコストやメンテナンスも問題では?

電池のリサイクルはうまくいくのだろうか。
技術的にというより、コスト的に見合わないと持続可能にはなりません。

寿命が尽きたEVの処理はどうするのだろう?
リセールバリューは無くなる?電池の交換は現実的?
エンジン車のように発展途上国が買ってくれるのだろうか?

というように、課題は色々思い付いてしまいますが、ひょっとしたら今後の技術発展で解決できることもあるでしょうし、世の中の仕組み自体が変わることによって、問題が問題で無くなる可能性もあるかもしれません。

さて、どうなることやら。

何を払って何を得るか

「コスパ」重視だと、大したものは得られない
という話です。

ものごとには「効率」があって、入力された同等のものが出力されることはありません。
大抵の場合、エフォート(労力)を投入して、得られるゲイン(見返り)は相対的に小さいものです。

チャレンジしても、うまくいく可能性が低い。

つまり効率が低い。
時にはそうではない場合もあるでしょうけど、そう思って良いと思います。
特に、短期的にはそうなることが多い。
さらに言うなら、若年者ほど効率は低い。

この効率が低い状態では何が起きているかというと
リスクや労力、時にはお金を投入しても、期待したほどのものが得られなかった
ということです。
ロスが大きく「コスパが悪い」ってことですね。

問題は、その「ロス」です。
それをどうとらえるか。

チャレンジしていくプロセスでは、色々想像して、選択して、という局面があるわけですが、そこで役に立つのは過去の経験です。
もちろん知識などは役に立つでしょうけど、そもそもチャレンジは、うまくいくかどうか分からないけどやってみることなわけで、知識で何とかなるなら、それはチャレンジではありません。

想像と選択では、どれだけ「引き出し」を持っているかがものを言います。
それを構成するのが、過去のチャレンジの際に生まれた「ロス」だったりします。

「こうやったらうまくいった」
それは有効な情報ですが
「こうするとうまくいかない」
これも同じくらい有効な情報なのです。

さらに言うなら、失敗したときにどうやってリカバリーするのか、という経験も大事ですね。

なので、「コスパが悪い」経験を、どれだけ積んだかが、未来においては重要だったりするのです。

投入したエフォートに対して、ゲインがあるかどうかすら保証は無い。
でも、損することを恐れると、行動を制限することになる。

なので、「コスパが…」とか考えすぎて、見返りを期待しすぎてはいけないのですよ。
見返りを期待せずアウトプットを最大化するってのが、長期的に見たらゲインを最大化するわけですから。

ただこれ、言うほど簡単ではありません。
エフォートやリスクの最小化、効率の最大化は、我々の生存本能に基づく基本的な欲求だからです。
なので手強いです。
だからこそ面白いのです。

教えるということ

先日、寝床に入って「教える」って何だ?
と考えてたら眠れなくなりました。

「ねえ、3時になったら教えてくれる?」

それは決して「教育」ではない。

何と、日本語の「教える」は、「知らせる」「伝える」などが混同されているではないですか!

英語で言う…

instruct
teach
train
tell
show

これら全てを「教える」で表現できるのだ!
なんてややこしくて、なんて便利なんだ!

「教育」とはなんぞや?
それは決して「言ったことをやらせる」ということではない。
まあ、そういうことも含まれるでしょうけど。

「言ったことをやらせる」は、教育の手段の一部のはずなのだけど、なぜか目的化している気がしませんか?
確かに「教える」って、そういう印象ありますからね。

本人が自ら考える立ち位置に導けたら、それが理想なのだと思うのです。
でも、それは難しいし、面倒なことです。

ついでに言うと、知識を手に入れることは大事です。
ですが、知識を使うことをはもっと大事です。
さらに言うなら、知識を使って、その結果起きることを知り、その知識と経験を使って…
とグルグルとループを描きながら成長するのが理想だと思うのです。

知識を手に入れて、テストで解答して、合格したら、はい良かったね、で終わるってのは、実社会で起きていることから考えると、現実離れしたこと。

そんなことを考えていると、「実践」って最重要じゃないか!と思うのですよ。
いや、本当に要なのは、グルグルとループしながら成長することかな。