どうしたいかが重要だ

「とりあえずやってみる」
「今できることをやってみよう」
それは大変結構なことです。

挑戦の第一歩として「とりあえずやってみる」ことは大事。

でも、ビジョンが無いまま始めた行動は、どこへも辿り着かない。
ゴールが無いのだから。

方向を持たない歩みは、たとえ一所懸命であっても、漂流でしかない。
努力という名のオールを必死に漕いでも、どこかの岸に着く保証はない。
そもそも地図が無いのだから。

問題は、「どうなっちゃうか?」ではない。

「どうしたいか」が、そもそも存在していなかったりしないだろうか?

「とりあえず」で始める。
「できる範囲で」と進める。
それは結構なこと。

しかし、ゴールやビジョンが無いまま
「無理はしない」「様子を見ながら」
で進むのは大変もったいない。

そう
「とりあえずやってみる」だろうが
「今できることをやってみよう」だろうが
目指すところがあってこそ、なのですよ。

ビギナーであれば、足りないものは山ほどあるでしょう。
それは今から手に入れればいい。
勘違いや失敗もあるでしょう。
そんなのはやりながら修正すれば良い。

どうしたいのか?
それがあれば迷走はしない。
その気持ちがゴールへの道しるべであり、近づくための推進力なのですよ。

やらせるからダメなのだ というか、やらせすぎたらダメなのだ

やることを決めて
やって良いことを決めて
それをやらせる

そんなことが多いと、やらされるのが嫌になります。
そんなことが続くと、それが習慣になります。

そんな内容を何度か記事にしてきましたが、それにはメリットもデメリットもあります。

メリットから行ってみますか。

貧富の差がない
ってのは最たるものかもしれません。

あと、やらせる方は楽です。
だって、やらせることは決まっているので、あまり考える必要ないのですよ。
それに毎回同じことを繰り返せば良いし。
正解がすでに決まっている同じことを繰り返すのだから、定量的に数値化しやすいってのもありますね。
なので、評価が楽です。
皆に同じことをやらせるなら、なおさらです。

自分で考えて決める必要が無い。
特に目標設定とか、そのための戦略とか、未来を予測するとか、そういった不確定要素について思い悩む必要は無い。
言われたことをやれば良いし、向かうべきところも指示される。

対してデメリットは…

トレードオフとして、尖ったヤツが少なくなる。
新しい発想が生まれないし、刺激が無い。つまり面白くない。
これは管理側としてはメリットでもあります。
色々違うことが起きたら面倒だから。

自分で考える必要があって、それを試さなければいけない。
これはリスクです。
ですが、言われたことをやっていれば、そういったことを考える必要は無いので、結果としてそういう能力は育ちません。

メリットもデメリットも、きっともっと色々あるのでしょう。

でも、正直なところ、ある程度自由を奪って強制される経験をしておくことも必要だとは思ってます。
それによって、いかに自由に価値があるのか、自由から価値を生み出せるのかが分かるからです。

とは言っても、自由の無い環境に慣らされてしまって習慣化されて価値観が構築されると、そこからはなかなか変われなかったりします。

金属だって、多少の変形を加えても、力を解放すれば元の状態に戻りますが、大きく変形させすぎると元のようには戻りません。
そういうの塑性変形って言うのですけどね、それと一緒です。

常識と自由

要求された正解を求める

正解が出れば安心。
それは現在の我が国の学校においては当然のことで、最も価値があることとされている。

でも、それは本当か?
これからもそうなのか?

そもそも究極的に、あらゆることには絶対的な正解があるのか?

当然、無い。

しかし、テストの問題のようなものには正解がある。
そうじゃないと点数を付けて評価できないから。

そういった勉学のような、知識を獲得する過程におけるものは手段的なものなので、ある程度結果が明確でなくてはいけないのは確か。

ただ、そこにたどり着くプロセスは自由なはず。

何かをするための手段であれば、その結果が明確でないと困ってしまいます。
やったら何が起きるか分からない…では、その手段は使えません。

学校でやっているお勉強は、そういった手段的なものです。
決して目的ではないはず。
ましてゴールでもありません。

何かのためにどんな手段を用いるか
その手段を用いる目的
最終的にたどり着きたいゴール

本来それらは自由なはず。
自分で決めるべきものです。

その自由を奪うのは目的がある。
もちろん自由を放棄したとしても、それにも目的がある。

その目的は常識という名の、目の前にあるのだけど誰も興味や疑問を持たない領域にそっと隠されている。

我々の常識は違う環境、例えば、異なる仕事、異なる国、異なる時においても通用するのか、というと、決してそんなことはない。

自由が不自由に勝るのか

それは分からない。
自由も不自由も、当然一長一短。

自由を求めるか否か、何に自由を求めるか、それこそも自由。