思考を奪うには?では逆は?

快適で安心で何の不自由も無いノーストレス

理想な状態ですか?

でも、この状態では、何もする必要がありません。
なので、何も考える必要は無い。
もちろん、成長する必要はありません。

ちょっと最近、マズイと思うことがあります。
インターネットの世界には、ほぼ無料で楽しめるコンテンツが山ほどあります。
ただ見ていれば楽しめる動画がたくさんあるでしょう?
見ていると、あっという間に時間が過ぎますね。
その間、自分は何をしているかというと、何もしていません。
何もせずに、単に情報を受け止めて楽しんでいるだけ。
こんな楽ちんで楽しいもの、そう簡単にやめられません。

これ、マズいな、と。

何がマズイって、情報を受け止めているので、満足感はかなりあります。
単純に楽しいし。

でも、頭使ってません。
アウトプットもしていない。

これは能力が劣化するぞ、と自覚しています。
でも、手強いですよね。楽しいですから。

思考が劣化して、アウトプットできなくなったら、これはピンチです。
無価値で存在意義が無くなってしまう。

思考ができずにアウトプットもできなければ、業務では、課されたものを単にやるだけ、ということになる可能性が大きい。
情報を受け取るだけ、となると、単なる消費マシーンになってしまいます。
それは言い過ぎかもしれないけど、それくらい危機感を持っています。

そう、思考を奪って消費マシーンにするには、快適で楽しいものを供給すれば良いのですね。
アウトプットを求めずに。
すると、もっと快適で楽しいものが欲しくなる一方、能力は低下していくので、言われたことを我慢してやって、お金をもらったら娯楽に投入して…のループが回る。
指示無しには動けない、消費マシーンのできあがり。

これ、学校の教育にも同じことが当てはめられます。
真面目に授業を受けて、発言も質問もせず、課された問題を解く。

「問題を解く」というところで頭を使っているように感じますが、あらかじめ決められた方法に従って、単に作業をしている…という見方をするのであれば、「考えている」というより、「考えること」に必要な、一部の能力を使っているに過ぎないという気もします。

現に、勉学の成績が優秀でも、仕事ができるわけではないという事実がそれを端的に表しています。

では、どうしたら良いのか?

お勉強が大好きな人は、それをトコトン突き詰めるのもアリだとは思いますが、そうでない場合…

これはとてもシンプルで、好きなことで、「どうしても欲しい、高いゴール」を設定して、壁にぶつかったりして、ヒーヒー言いながら頑張ることだと思います。

そこにはストレスや挫折やリスクがあるかもしれませんが、どうしても乗り越えたいというモチベーションがあれば何とかしようとするものです。
そこに大事な「学び」があります。

お勉強の知識って、そういう時に利用するものですよ。

「何がなんでも何とかしたい!」と頭を使っている状態が、「考えている」状態です。
あくまでも、自分の考えで何とかしたいのだ!という状態。

発信せずに受け取るだけとか、ノーストレスはダメなのです。

でもそれを、好きでもないことでやろうとすると、単にキツイだけ。
なので、好きなことでやりましょうよ!
そうしたら、驚くほど成長するし、能力が向上しますよ。
ということなのです。

アイデアの話

「idea(アイデア)」
古代ギリシャ語のイデアに由来します。
これは「姿」「形」「見え方」といった意味で、後にプラトンが「本質的な理念(イデア論)」として哲学的に発展させました。

とか難しい話は置いておいて。
一般的にアイデアと言えば、思いつきとか、ひらめきですね。

その元になるのは、知識とか経験による「引き出し」です。
だからお勉強が必要なんですよ。
が!
お勉強とはなんぞや?というのもあります。
単に学校で教科書から得た知識のみを指すのか?
もちろん、そんなことはありません。

と、それも置いておいて。
「引き出し」からアイデアをひねり出すために必要なものがあります。

それは、モチベーション(目的や動機)です。
ただ、モチベーションとはいえ、それも高かったり低かったりしますね。

では、その高低を決めるのは何か?
…というところまで掘っていくと、やはり行き着く先は「心」ということになってしまうのです。
どう思いますか?

「もの」を生み出す元となるもの。
それはアイデアだったり知識やスキルだったり
そういったものはもちろん大事なのですが
そもそもの「心」が原点にある。

学ぶのも、スキルを向上させるのも
そしてそれらの質を向上させて、形にするレベルも
全てモチベーションや心にかかっている
そう思うのです。

そして今、何を思ったかというと…

縄文人って凄えな
です。

何だそりゃ?

まぁ、そうで思うしょう。
たまたま、ふと思っちゃっただけなのですけどね。
一度、縄文土器や土偶を良く見て下さいな。

一体どんな心が、あの形を作るのか?
そこから現代に至る道の延長線上に未来があるわけで、我々がこの先どうしていくべきなのかというヒントが、そこにありそうな気がしてなりません。
と、そんなことも考えたりする今日この頃。

人生は無意識の結果だ

これまた「何だそりゃ?」というタイトルですかね。

我々人間の行動のうち、70~90%程度は無意識によるものなんですって。
日頃の行動や考え方のほとんどは無意識にやっているということです。

そういう行動原理というか、習慣は、環境の影響によって形づくられるわけです。普通は。
親とか先生とか、メディアとか友人とか、はたまた自然環境だったり、まぁそういったものからでしょう。

そういったものに流されたり、従ったり、反抗したり…そんなことが今の自分を作っている。

そういったことに対して、何ら疑問を持たずにいる状態
それが「考えていない」という状態でしょう。

これ、「自分の人生を生きていない」と言っても良いのかもしれません。
だって、自分以外によって作られた環境に従っているだけですから。
もったいないことです。

ところが!
「自分はこうする」
という意思に基づいて、意識的な行動を繰り返せば、それはいずれ習慣となり「無意識」に落とし込まれ、自動的に実行されるようになります。

これ、以前お世話になったある方の受け売りですけどね。
「成功の自動実行」だと。

普段、自分が意識的にコントロールできていない70~90%の領域を、自らが望むように自動で(つまり習慣として)実行するようになるのだから、まさに「成功の自動実行」です。

まぁ、この70~90%のうち、どれだけを自動実行の領域に使えるかというのがポイントでもあるのですけど、まずは自分の望むゴールに向かう習慣を作ってみてはどうでしょうか。

研究では
最短で3週間
長くて2~3ヶ月
という結果が出ているそうです。

さぁ、どうしますか?