人は何に向かっていくのか

念のため最初に言っておきます。
別に何かを気に病んでいるわけではありません。
いつも通り、ちょっと思い付いちゃっただけです。

さて、今回のテーマは、「何のために生きてるの?」という話でもあるのですけど。

一見、重いテーマのようですが…実際重いですね。
でも、あまりシリアスに考えずに
「自分は一体、何のために何をしたいのだろう?」
と考えてくれれば良いです。

何のためなのでしょうね。
どう思いますか?

たぶんこれ、自由なのでしょうね。
当たり前ですけど。
他人に決められるものではない。


決められても良い。
自由ってそういうことです。

ただし、自分の意思ではなく、他に自由を奪われてしまうケースもあります。
それは大変不幸なことです。

いや、それは断言できないか。

自由を奪われたいケースもあるでしょう。

まさか、そんな!
と思いますか?

そうでもないですよ。

例えば、拘束されて、何かを指示されてやっているとき
内容にもよりますが、負荷が課された一方で、安心感があったりすることもあります。

「これだけやってんだから大丈夫だろう」
みたいな。
確証は無かったりするのですけどね。

まぁ、それはそれとして

「自分は一体、何のために何をしたいのだろう?」
です。

これ、答え無いですよね。

なので、勝手に決めちゃって良いのですよ。

しかし、誰かに決めてもらう、というか、決められちゃうこともあるでしょう。
そして、それに従うこともあるでしょうし、従わないこともあるでしょう。
それも自由。

で、結局何が言いたいかというと
「自分は一体、何のために何をしたいのだろう?」
これは「夢」なんですよね。
行動力の得源泉というか、動機というか。

何のために何をするか

それを自分で決めたい人もいれば
決められない人もいる。
それは能力云々ではないのです。

でも、自分で勝手に決めちゃった方が楽しくないですかね?
楽しい方が色々うまく行くし
「これは違う」と思ったら変えても良いわけだし。

「別に楽しくなくていいよ」
というなら仕方ないですが。
それも自由ですから。

ここまで書いて思ったのですが
間違えたり、失敗したりすることを単にリスクととらえて
それを回避することをゴールに据えてしまうと、なかなか難しいことになりそうですね。

ただ、間違えとか正解とか、そういうのは他人が決めているわけで、そんな他人が決めたことに、どれほど価値があるんだ?と思っちゃうのですけどね。

教育はどう変わるか?

大きな教室で、皆に同じことをやらせるのは、これからの時代にそぐわないのではないか?
なんて思うのです。

いや、ちょっと違うな。

大きな教室で、皆に同じことをやらせる
これはあって良いと思う。

それとは別に
少人数で皆で力を合わせて、好きなことをトコトンやる
そういうのも必要だ

ということかな。
自分に合った方を選べば良いと思うのです。

そんな二つの選択肢があったら、みんな好きなことをやりたいに決まってるじゃん!

そう思いますか?
多分、そうでもないですよ。

好きなことをトコトンやる
という道を選ぶと
好きでもないことは犠牲になります。
要は、好きなことを選んで、自由を得た代償は発生するということです。

そして、尖った能力を身に付けなければならないということになります。
まぁ、「身に付けなければならない」というと聞こえは悪いですが、そういう風になりたいと思う人が、そういう道を選ぶ自由があって良いと思うのです。

繰り返しますが、代償は発生します。
自由に決めて、好きなようにやる
形にするためにはトライ・アンド・エラーが必要。

これは、自分で決めなければいけないし、できるかどうか分からないことに挑戦するということです。
それをメリットと感じるか、デメリットと感じるか。

では
大きな教室で、皆に同じことをやらせる
という環境は、無難で代償が無いのか?
というと、そうでもありません。

まず、自分でゴールを設定する能力は低くなりそうです。
そりゃそうです。
常にゴールを設定するのは指導者で、課題を与えられる立場ですから。
逆に、そういったことを考える必要は無いということでもあります。
それをメリットと感じるか、デメリットと感じるか。

自発的にチャレンジしてくれる人も、オーダーに対してキッチリやってくれる人も、世の中には両方必要です。
前者と後者を比べて優劣がどうの、という問題ではありません。
結局、自分は社会でどういう役割を果たしたいのか?
ということなのです。

現在、高校も大学も、自分で学校を選んで行っているわけですが、行った先では
「やっている」というより
「言われたことをやらされている」というのが現状でしょう。
「自発性」と言ったところで、言われたことに対して予習するとか、その程度です。

そういうやり方では、払うリスクは最低限でしょうけど、得られるものは均質でソコソコになります。
価値観にもよりますが、それこそがリスクだ、と思う人もいます。

でもまぁ、完全にどちらか一方ってのも無いとは思いますけどね。

さあ、果たしてそのままで良いのか?
多分良くないですね。

成長に必要なもの

困難や不条理な経験
一般的に、これは良いものではありませんよね。
誰しも避けたいと思うでしょう。

しかし、これらが無いと人は成長できません。
苦しかったり、悲しかったり、そんな思いが工夫を生んだり、未来に対する希望を想像させるし、それを乗り越えた自信が次の行動に生きるのです。

とはいえ、誰しも好き好んでそんな思いはしたくありません。

それは教育において、最も重要で難しいことの一つなのではないだろうか?
なんて思っています。
特に最近は、何かにつけてハラスメントということになって、学校も会社も…社会全体の腰が引けている感じがします。

単に記憶力とか、問題を解く能力とか、手先の器用さとか、そういったものが向上すれば、それは人として成長できているのか?
そんなことはありません。

何かしらのゴールがあって、そこへ到達する課程において経験する様々なものが人を成長させるのですが、ここで大事なのは自発性でしょう。

単に言われてヒーヒー言う中にも学びはあります。

しかし、自分で考えてトライ・アンド・エラーをしながら前に進んでいく中には、それこそ言葉には表現しにくい学びがあります。

これはやはり、好きなことをやるのが一番なのですよね。

ただ、好き好んでもいないことで苦労したらダメなのかというと、そういうこともありません。
というのは、例えば戦中戦後に頑張って来た人達は、戦後生まれの我々には無いものを持っていて
「かなわねぇな」
と思わされることは多いです。

そんなことを考えていると、人生無駄な経験って無いのだな。
と思うのです。

経験を成長に結びつけることができるか否かは自分次第なのですね。