「違い」を強みに

単に他と異なるだけではあまり意味が無いのですが、価値の根源の一つは「違い」にあります。

自分が何かを選ぶとき、何に着目して、どう考えているかを思い出してみましょう。
特に「良いもの」を選びたいときはどうしていますか?

選択時の前提条件などはあるものの、他とは異なるもの、他より優れたもの、そんなものを選びたくなるでしょう。
差別化とか優位性とかですね。

さて、ここで自分自身のことに戻って…

「やること」を決める。
それはとても大事なこと。

でも、同じように大事なのは
「やらないこと」を決めることだったりします。
断捨離なんてのはそういうことです。

それによって
無駄を省き、リソースを集中投下するポイントを決めるわけです。

やること、やらないことを「決める」とは言っても、それが正解か否かは気になるところでしょう。
でも、そもそも正解なんて無い、というより、やることによって正解になると言えば良いだろうか。

やはり、そんな時に必要なのは勇気ですかね。
そう、断捨離は勇気要りますね。
でもきっと報われるときが来ます。無駄な経験は無いのです。

「失敗」について

何かしらの基準に対して満たなかったり、望まない結果が出ることを「失敗」
…と呼びますよね。

でもね、要は考え方や捉え方次第だと思うのです。

だって、「何かしらの基準」にしても「望まない…」にしても、それは自分で決められること。

やったことに対する結果の評価は自分ですることができるわけで、それを何と呼ぶかという話しであって、それが前述のように「失敗」を呼ばれるだけです。

恐らく、意識しないでいると、自分以外の誰かが決めた評価基準に無意識で従っていることになっていたりしませんか?

ただ、ここで言いたいのは、「どんな結果だっていいじゃん!」という投げやりなことではなく、他人が決めた基準で評価して、その結果が「ダメである」と、終わりにしてしまったらもったいないよね、ということなのです。

どういうことかというと、いわゆる「失敗」がダメな経験にカウントされてしまったら、その経験はいわゆる「引き出し」と呼ばれるリソースとして活用しにくくなってしまうということです。

そもそも、何かをやった上での「失敗」は、大変貴重な「引き出し」なのです。
やった者にしか手に入れることはできませんから。
対して、単なる知識の「引き出し」は、多くが持っているので、有利なリソースにはなりにくい。

というわけで、この「失敗」という呼びかた、なんとかならねぇかな、と思っているのです。

成長のイメージ

若いうちは、宝石の原石みたいなものだと思います。
どこにでもある石ころのように見えるけど、中には宝石が隠れている
そんな感じ。
良く言われる話ですね。

まずは、中の宝石を表に出すためには、原石を割る必要がある。
割ったら磨かないと光りません。
割るにも磨くにも、外から加わる力「外力」が必要です。

では、何が外力に相当するか?

自らが発したアクション、アウトプットに対する何らかのリアクションです。
評価という名の批判であったり、突然何かが起きたり、そういった外的なものでしょう。
あまり良い印象はありませんけど、そういう経験も、捉え方、考え方次第です。
そういったことによる考え方や価値観の変化が「割る」に相当するかもしれません。
労力や痛み(精神的な苦痛とか)やリスクとのトレードオフですね。

アウトプットしなければリアクションはありませんし、何も起きません。
ノートライならノーエラーということです。

そして、継続によって「磨く」ということになります。

若いうちにアウトプットとそれに対する評価を受ける経験が少ないと、年齢を重ねていくと、それがますます怖くなったり、面倒になったりするでしょう。
そうしたら、いつになっても石ころのまま。

宝石は
割らないと出てこない
磨かないと光らない

そんな感じです。