理系だの文系だの…それ以前に 前編

理系だの文系だの言うのはあまり好きじゃないのですけどね。
というのも、社会はそうやって明確な区分けをされているわけではないから。

エンジニアだって文系や美術系のセンスやスキルを要することがあるし、事務職だって数字をいじるし。

でもまぁ、教育をする上では、分けちゃってどちらかに特化した方が効率は良いのでしょうね。

で、最近は理系離れが進んでいるようですね。
全然気にしていませんでした。反省。

理系は難しくて大変だというイメージがあったり
自分らしく、苦労せずに生きる方法を模索する若者が増えているのだとか。

ほうほう、そうですか。
これが全てではないでしょうけど、ネタとして面白いので、その方向で話を展開してみましょう。

まぁ、私が学生の頃も同じようなこと考えてましたけどね。

実を言うと、高校生の頃は理系科目より文系科目の方が得意でした。
でも、理系的なことの方が好きだったのです。
得意じゃないけど、好きだからそっちを選ぶ。
変でしょうか。

好きなことなら頑張れる で、面白くなる
そのポリシーは今でも変わってませんし、それで良いと思ってます。

自分らしく、苦労せずに生きる

ってのはどうなのでしょう?
「自分らしく」というのは分かります。
せっかく生きているのですからね。
独自性とか無いとね。
ただ、何もせずとは言わないまでも、労せずして得られる独自性ってどうなのでしょうね。

で、「苦労せずに生きる」についてです。
気持ちは分かるのです。
私も大学生自分に似たようなことを考えていました。
「安定した暮らしを…」とか。

今にして思うと、なんてバカなことを考えていたのだろうと恥ずかしくなります。
別に安定をバカにしているわけではありません。
「安定」というワードが、いかに自分に合っていないかということを自覚したからです。

もし安定しちゃったら、自分がやりたいことを全くできなくなる、と言うことに気付いたのです。
そんなことになったら、全く面白くない人生になってしまう。
なので、それはあっという間に放棄しました。

自分らしく、苦労せずに生きる
なんてのは、凄く矛盾しているというか、理屈が破綻しているというか…そう思ってしまいます。

だって、多くが安定を目指したら、しかも「苦労せずに」というオマケが付いたら、皆が同じようなことになるわけで、それって自分らしいと言える状態なのか?と思うのですよ。
多くが独自の形で安定することなんてできるのでしょうか?

いや、待てよ。
独自性なんて要らないのかな?
自分らしく、苦労せずに生きる
ってのは
「今のままでいい」で、単に「苦労したくない」
ってこと?

後編に続く

必死さの価値

我が国は先進国の中でも、貧富の差が少ない、もしくは見えにくく、皆がそこそこ豊か。
で、安心、安全、便利。
そんな世の中なのは結構なことなのだけど…

何事も多面性があって、善悪二元論で割り切ることはできない。
何事も固定された価値観で判断するのは危険。

安心、安全で便利な世の中
そんな世の中になると、必死になる必要が無い。
動機が無いから。

でも、大変な思いをしないと得られないものはある。
必死にならないとできないことはある。
そういったリスクと引き換えになるものは、大きな価値を持っている。

必死な状況に置かれる事による負荷やリスクを回避する
それと
必死さの先にあるものを取りに行く

それらを秤に掛けて、どちらを選ぶか?
それは価値を生み出す立場に立つか否かを選んでいるということなのだけど。

でも、大抵はそのような比較をするまでも無く、ほとんど反射的にどちらかを選んでいるのが実情でしょう。

その反射的な反応は、恐らく環境によって構築されて習慣化されたもの。
そう、安心、安全で便利な世の中になることによって。

では、安心できない危険な世の中なら、そんな環境なら良いのか?というと、決してそんなことはない。
でも、そんな安心できない社会に生きる人が、我々が持っていない感性や価値観を持っていることも事実なわけで。

結局の所、環境に流されたり、既存のお仕着せの価値観に無条件に流されるのではなく、必死にチャレンジして自分の価値観を構築していくことが大事なんだよな、と激変する世相と学生達を相互に見ながら、なぜがそんなことを思うのでした。

得じゃなくて徳の話

自己の利益しか考えなくなると、恐らく衰退するのではないだろうか?
個人はもちろん、国家も。
それが短期的な利益となるとなおさら。

そんなことが最近気になっていたりします。

というのも、さんざんこのブログで言ってきたいるように、価値は自分が決めるものではなく、相手が決めるもの。

自己の利益を追求するのは自然なことのようだけど…。
自己の利益を直接的に追求する行為は、相手にとっては価値が無いのは当然。
そこに注力する結果、他に対する価値を発信できなくなって、結果として自己の価値が低下する。

まぁ、当然といえば当然のこと。
他の利益を考えて発信したものが、受け取る側にとっての「価値」なのだから。

他のために、という考え方、それは道徳観ですね。

道徳観が高いということは、他の利益を考えて動けるということ。
それができる人は、周囲から見れば価値のある人。

その価値を及ぼす範囲が広ければ広いほど、期間が長ければ長いほど、価値は大きい。

その価値を皆で回していけば…

道徳観が高い社会であれば衰退しないのではなかろうか。
その逆であれば衰退するのは必然なのではなかろうか。

さて、今我々はどこに向かっているのでしょう。

ああ、徳のある人になりたい。
難しく、勇気の要ることです。