漂流記からの気付き 3

今回はこんなタイトルで江戸期の代表的な漂流者についてのお話をしていますが、日本人は海洋民族でもあるので、恐らくかなり昔から遠くの国に流れ着いた人達が、想像以上に沢山いたのだろうな、と思っています。

さて、万次郎や彦蔵の漂流記からの気付きの続きです。

前回は、最後に
彼らの義理堅さについて触れましたが
義理堅さの根源には
相手から受けた恩を感じられるセンシング能力が必要です。
感じない恩は返すことはできませんから。

もちろんこういうのは、当時は現代と比べて
何をするにも不便で大変で
一人ではできないことばかりだったことに起因しているとは思います。

実は現代でも、一人ではできないことばかりなのは変わらないのですが
それを感じない世の中になっていると思います。
日常生活や労働、福祉など、様々な環境が整備されていると
自分一人では何もできないのだ
ということを忘れがちになるのは仕方ないのかもしれません。

それに、環境を整えるのための仕事は
組織によって定業業務として回っているので
それを受けていても感謝する対象ではない気がしてしまいますし
一体誰に感謝したら良いものやら
という感じでもあります。

なので
恩を感じる機会も感謝をする機会も無かったり
感謝されることもなく淡々と仕事をしたりと
ずいぶんと寂しい
「徳」などという価値観からは
ずいぶんと遠く離れたところで日々を送っている
そんな気さえします。

恩とか義理で世の中が回っていれば
人の存在意義が際立って
今の世で起きている寂しい問題や
おかしな価値観も
いくらかは解決するのかもしれません。

しかし、人の心を軽視して
環境とか境遇とかはお金次第だ
なんて考え始めると

恩とか義理とか徳とか
そういう価値の根源となるもの自体が見落とされがちになって
本来は、それらが数値化されたお金を直接掴みに行こう
みたいな本末転倒なことが起きますよね。

そりゃ恩のセンシング性能も落ちるでしょう。

そうそう
先日、卒業生が良いこと言ってました。

「先生、お金って感謝が形になったものですよね」
と。

ああ、良いこと言うなぁ。と思いましたね。
お金は価値を数値化…なんて味気ない表現よりずっと良いですね。

続く

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