大事なもの…の根源

世界における日本のポジションが低下しているとか、経済規模が縮小しているとか、確かにそういうのは問題だし心配なのかもしれません。

技術の世界でも、論文や特許の件数で圧倒的に負けているなんて話も聞きますよね。

それはマズイぞ!大変だ!!
…なのかもしれません。
じゃぁ、頑張らないと!
ということになるのかもしれません。

でもね、頑張るかどうかってのは、頑張りたいかどうかによるんですよね。

つまり、そうしたいかどうか。

食うや食わずの状況とか、命がかかっていたりするのなら、それが明確に感じられるのなら、やらないと!ってことになるのでしょうけど、現在は決してそういう状況ではありません。

というか、危機的状況であっても、それを実感できないと言った方が良いのかもしれませんが。いわゆる「茹でガエル」ってヤツになっちゃうかもしれませんけど。

まぁ、行く先が危機であろうと無かろうと、欲しいものがあったり、色々とより良くしていきたかったり、解題を解決したかったり、はたまた各人の価値を向上したり、存在意義が欲しかったりするわけで、そのための原動力が大事なんですよね。
それは「思い」なわけですが。

幸いなことに、レースとか事業とかで実績を残された方とお付き合いさせて頂く中で、共通項として感じることがあって、やはりそれはパッションです。知能指数とか知識の量ではありません。

当たり前のことをやっていれば良いという世界じゃ無いところで生きている人達は、既存の知識を実践するだけの人ではないわけで、じゃぁ、そこには何が必要なの?ってところが最重要。

知識は見えるものを覚えれば良いけど、パッションはそういう訳にはいきません。
実績を残した人や、うまくいっている人と話をしてみたところで、大枠は理解できるかもしれませんが、そのレベルというか程度というか、そういったものはやはり伝わり切らない訳です。

「思い」とか「心」とか「パッション」が大事だという話であれば、やはり幼少期からの経験がものを言うのでしょう。
歳を取ってから、その辺を何とかしようとしても、たぶん難しいでしょう。

小さい頃から塾通いで、日常生活のほとんどが「言われたことをやる」では、心の駆動力は育たないんじゃないかなぁ。

それに、知識が身に付いたところで、パッションが無ければ知恵は発動されないわけで、ますます言われたことしかできないループでグルグルしちゃうでしょう。

これ、大問題ですよ。

思いは実現する 2

ずっと前に書いた記事の続編というかなんというか

今回はあまりポジティブな出だしではありませんが
思いは実現するというテーマです。

世の中皆が大きな夢を持っているかというと
意外とそんなことはなくて
むしろそんなもの意識していないよ
という方が多かったりするのかもしれません。

意識はしていないけど
では、無意識ではどうか?

もちろん無意識なものだから
良く分からないのですが
行動から紐解くことができます。

例えば
意識せずに、ついつい安全パイを取ってしまうとか
意識せずに、面倒を回避することが多いとか
程度にもよるとは思いますが
そういうことから心の中の無意識君が
どのような望みを持っているのかを
大方推測できると思います。

この場合、意識的に思ってはいないので
「思い」と言うのはどうかとも思いますが
他人から見たら、当人が望んでいるようにしか見えないでしょう。

この無意識が望んでいることは
意識的に望んでいることよりもはるかに強力です。

なぜかというと
無意識は自動的に常に発動しているので
自分でも気付かないうちに行動をしているのです。

無為意識君が、リスク回避したければ
自動的にそうする。

面倒くさいことを回避したければ
自動的にそうする。

もちろん、そうしたなりの結果は出るわけで
無意識君が望んでいる思い
大抵は叶っちゃうのですね。

問題なのは、意識では別のことを望んでいる場合です。

残念ながら意識は
しょっちゅう発動しているわけではないので
簡単に無意識君に圧倒されます。
しかも気付かないうちに。

なので、頭で考えている望みを実現したかったら
無意識君を味方に付けるしかないのです。

方法は
熱意を持って頑張って大好きになって継続する
そんな感じでしょう。

とにかく習慣にしてしまうことです。
無意識君は習慣ですから
ヤツを上書きしてしまおうということです。

それができたら強いですよ。
良い意味で「思いは実現する」ということになるでしょうね。

「思い」を伝える重要性

唯物主義の影響か?
学力偏重の影響か?
理由は良く分からりませんが
最近はコミュニケーション能力が云々など良く耳にしますね。

まぁ、言ったり聞いたり(と、その理解など)
という能力ということですが
そういうのは経験しないとレベルは上がりませんよね。

そういう私も大したことはなくて
まだまだ経験が足りないと自覚しているのですが
そんな私でも気付けることがありましたのでネタにします。

コミュニケーションを構成する
「言う」方のアウトプットは
「良く考えた末の結論を伝える」
そんなものだ
というふうになってきている気がします。

というか
一般的にはそれが当然と思われているかもしれませんし
あながち間違いではないのでしょうが
どうやらそこが落とし穴ではないかと思うのです。

皆さん、子供の頃に言われませんでしたか?
「良く考えてから言いなさい!」って。

私は比較的、考え無しに行動するタイプだったので
恐らく結構な頻度で色んな人にそういうことを言われたはずです。
世代が世代なので、それが原因で
しょっちゅう親や先生に殴られていた気もします。
あまり覚えてはいませんが。
それは、嫌なことはすぐ忘れるたちだからとか
単に脳ミソのメモリーリソースが貧困なことが理由なのであって
決してパンチドランカーではないと信じています。

さて
おかしなことを言わないように
(おかしなことを言って失敗しないように)
前もって良く考えなさい
ってことですが

それをやっちゃうと
どういうことになるかというと

アウトプットは
「良く考えた末の正解に限る」
みたいなことになっちゃって
正解じゃないことは言えなくなるので

「正解」に拘ればこだわるほど
アウトプットの質を磨く機会が減少して
うまくいかなくなる
なんてことにもなりかねません。

で、ここからが大事なのですが
深刻だと思うのは
考える以前の
「思い」
なんてそもそも口に出せなくなるわけです。
これは大問題です。

ヘタをすると
「思い」自体が意識の底の方へ押しやられて
表へ出てこられなくなりはしないでしょうか。

そうなってしまうと
「今の思いを言って欲しい」
と言われても、何も出てこない
なんてことにはなりはしないでしょうか。

「思い」を聞きたいのに
「考え」を答えようとしたりして
そうなったらもちろん
正解を考えつかなければ何も言えない

そうなってしまったら
コミュニケーションもへったくれもありません。

最近では「思い」よりも
理論とか考えとか
定型的なものを重視するように
なっているのだと思うのですが

そもそも定型的なものは
「思い」を実現するためにあるのだと思うわけで
「思い」も無いのに定型的なものを構築していくなんてのは
まさに本末転倒なのではないでしょうか。

「思い」には正解も不正解も無いから
失敗したり不都合なことも
時には起きるでしょうけど
そういう経験こそが自身を磨くチャンスなわけで
それに
自分の思いを伝えられないということになったら…

人は一人では生きていけないし
人は理屈だけでは動きませんから
他者と協力して仕事をするなんてのは難しくなるでしょうし
一体何のために何をすればいいのか分からなくなるでしょう。

「思い」をアウトプットする

最初は難しいかもしれなくて
勇気が要るかもしれません。

でも、それをやらなければ何も叶いません。