我欲ではうまくいかない

前回の記事の最後の方で、「道徳観」なんていうワードを出しちゃったので考えてみたのですが…

どうもうまくいかない

そんなことはいくらでもあるでしょう。
それはなぜでしょう?

原因は色々あると思うし、それこそケースバイケースだと思うのですが、こと、組織での活動においては、やっていることの目的「何のために?」が自分の中にあることが原因だったりして。

しかもそれが単なる「我欲」だったりするから。
そういうケースが多いと思うのですが、どうでしょう。
恐らく学校に限らず、職場だって多いと思うんですよ。

組織で動いているなら、自分のアウトプットが何のために、どこに向けられているかが重要でで、行動原理が単に保身のためだったり、個人的な利益のためだったりすると、不思議とうまくいかなかったりして。

さらに、そういうのは自覚していなかったりするので深層心理の問題なわけで、当然口には出さない訳ですが、そういう行動って結構分かるというか、直感的に感じるものだと思います。
すると、自分ではよく分からないけど、仕事がうまく行かない、なんてことになるのではないかな。
だって相手は、その「我欲」を感じ取ってしまっている可能性が高いから。

そもそも仕事って他人のためでしょう?
他が価値を感じてくれないと意味が無くて、仕事にならないわけですよね。

最近では、自分のことばかり考えて行動するのが当たり前の世の中です。
それに対して何の疑問も持たないばかりか、それで何が悪い?ってなもんでしょう。

そうなると、自分のことを考えているのに、自分のためにならないなんてことになっているのだろうなぁ、なんて考えたりするのです。

さらに困ったことに、そういった価値観を持った者は、当然相手も同じ行動原理で動いていると思っていたりして、話が通じなかったりすることもあるでしょうね。

道徳って簡単に言っちゃうと、皆でうまくやっていくための考え方の指針みたいなものでしょう。
それがうまく働いていないってことになるのかな。

いや、ちょっと待てよ。
そういうことを考えていないとしたら、それは単なる思考停止状態なのでは?

まぁ、こんな偉そうなことを言ったところで、言ってる本人は我欲にまみれていて、まだまだだよなぁ、なんて思っているのですけどね。

もっと考えて、もっとチャレンジせねばなりませぬ。
人生は修行ですな。

与えられたら掴めなくなる

まぁ、これまた極端なタイトルかもしれませんが。

何が言いたいかというと、安全で平和で恵まれた環境で、色々と用意されたものを与えられていたら、自ら掴みに行こうなんて思わなくなりますよね。
ということなのです。

言ってみれば、恵まれすぎた国のダークサイドってとこでしょうか。
贅沢な悩みですが、何事にも多面性があるということでしょうか。
盛者必衰ということか。

同じ先進国でも、清濁ともに抱え込んじゃってる国なんかは、やりたいことをやるにはハングリーさが求められるわけですが…本当のところは我が国も同様なのですけど、どうも、そうはなっていないように感じます。

我が国の場合は、あまりに環境が整いすぎているというか、「勉強ができれば開発の仕事ができる」とか、何を夢の国みたいな嘘を言ってやがる、と言いたくなるような状況になっています。

だって、その理屈おかしいんですよ。

言われたことをやっていれば、言われてもいないことができるようになる
みたいな変な話しです。

勉強して得られる知識は大事です。何度も言ってますが。
でも、その知識を駆動するマインドとかパッションも無しに仕事になるんですか?という話しです。
まぁ、中にはうまくいく人もいますが。

ウチの研究室を出て、介護の会社の社長をやってる卒業生が言ってました。

「年寄り殺すの簡単ですよ。どうしたらいいと思います?
ぜーんぶやってあげるんですよ。何からなにまで。
そうしたらすぐ死んじゃいます」

うむ。なるほど。
教育も一緒で、何から何まで、お膳立てしておいて、ぜーんぶ与えてあげると…
自力では何も掴めなくなるでしょうね。

ただ、これにもポイントがあって、与えられるものに対して感謝できるマインドを持っていれば話は違ってくるかな、とも思っています。

「ありがとうって言え!」
ということじゃないですよ。

得たものに対して感謝できるなら、その気持ちは行動になってアウトプットされて、それが新たな価値を作っていくでしょう。
結局は、道徳観の問題なのかな。

でも、当たり前に存在しているものに感謝はできませんわな。
いやぁ、難しいな。でも、何とかしたい。

そのためには、やっぱり面白いことにチャレンジしないとね。

安穏の時代における挑戦と変革 困難を求めないことの意味

従順でありたい
ってのは、つまり「無難」を望んでいるのではないかな?
なんて思うのです。

違ってるかもしれないけど、この線で話を進めてみましょうか。

「無難」ってことは、「困難から逃れたい」ってことでしょう。
「困難」って何だ?

この平和なご時世…と言いたくなるのは、相対的に平和じゃない状態と比べているわけで、その対象は何でしょう。

「戦争」?
いやいや、そうではないな。
それはちょっと古すぎて、今や比較対象にはならない。

恐らく、今まで人類が経験してきた死に対する恐怖などではなく、平穏で変化があまり無いなりの負の変化…
経済的に困っちゃうとか、儲からなくて負荷の高い仕事をしたくないとか
そういうことじゃないかな。

そういうのに巻き込まれずに、安心・安全に暮らしたい
…のような感じではないかと思うのです。

「なんだよ、そんなことかよ」
と思ってしまいがちですが、「困難」を感じるのは相対的なものです。

ダイナミックな経験を沢山していれば、辛いことや不条理なことも経験するるわけで、ちょっとしたことで折れることもないし、困難の克服こそが喜びとか成功に繋がるのは理解ができるでしょう。

でも、平穏な世で暮らしていれば、比較対象のレンジは狭くなるわけで、ちょっとしたことでも当人にとっては大問題、もう耐えられない、ということになるのでしょうね。

「失敗しても別に死ぬわけじゃないし」
なんてのは、広いレンジの比較対象を持っている人が言えるセリフで、相対的に狭いレンジの経験をベースにしている人に言ったところで、「そういう問題ではない」ということになるでしょう。

そんなことを考えていると、偉人伝などに登場するストーリーには、困難とか失敗とかが山ほど出てくるのですが、そういうのは当たり前だということがよく分かりますね。

さて、ではどうしたらいいか?

比較対象のレンジを広げるには、自ら経験するのが一番だけど、外部からの情報の取り込みで何とかするという手もありますね。

やはり本かな。
他人の経験を参考として取り込むために。
ネットから膨大な量の情報を手に入れるという方法もあるけど、ネットの場合は快楽方向に流される可能性が高いので、結果としてあまり効率は良くないのではないか…なんて思っています。自分の経験から。

でも結局は、本人が望まない限り、どうにもできません。何も変わりません。
人の心はいじれないから。

やはり環境の変化だろうな、と思うのです。
世の流れが変われば流されるでしょう?
流されちゃったら変わるしかない。
というか、意識せずとも変わるでしょう。

なので大事なのは
やる気があるヤツが頑張り続けて結果を出す
ってことに尽きるのかもしれません。
そんな人が増えてくれば、メインストリームの流れが変わるでしょうから。
で、環境が変わる、と。

今日の記事、試しにChatGPTにタイトルを考えてもらいました。
大仰ですね。

もちろん本文は人力ですよ。