分かる・分からないじゃないんだよ

学校でやることって
分かる・分からない
じゃないですか?

これ
やるべきことはすでに決められていて、答えは隠されている
という環境で使う言葉ですね。

そういった環境で育つなら
やるべきことを考えねばならん
とかいう状況に対応するのはムリかもしれませんね。

だって、正解無いですから。

で、正解があらかじめ決められているなら、調べれば分かるわけですが、そういうのって誰でも分かるわけで、正直なところあまり価値は無いですよね。
それこそネットに繋がったPCがあればOKですから。AI使ったら楽勝でしょう。

なので、そういうのって考えてるわけじゃなくて作業的なのですよね。

そんな風に、すでに決められているもので更生されている環境は安心でもある?

そうかもしれませんが、面白くはないですし、大して価値もありません。
やはり、自分だからこそできた!とか、やり甲斐がないとね。

考えて、悩んで、チャレンジして…
そんな風に試行錯誤して達成するプロセス、ちょっぴり勇気が必要な、成長を含む経験を楽しまないとね。

思ったことができるようになるためには

「夢の実現」なんて言った場合、それは
やりたいことができる
ということでもある。

「やりたいこと」が「できる」ようになること
です。

どうも最近思うのは
できもしないことをやりたいとか言ってはいけない
とという風潮があるんじゃないかな?
ということです。
…最近に限ったことでは無いかもしれないけど。

対して、できそうなことをやりたいと言うのは真面目な印象?
いやいや、そうではありません。

今は実現していないけど、経験がないけど「やりたい」から、そのために「やるべきこと」が決まるわけで、それをできるようにするのがチャレンジであり夢の実現です。

なので、スタート地点での能力は不十分で当然なのです。
できもしないことをやりたいと言うのは不真面目でも何でもありません。正常です。

そして夢の実現が我々の日常から飛躍した非現実的なものなのかというと、決してそんなことはありません。

我々の身の回りにある、人によって作られた物の全ては、この世に現れるまでは存在しなかったものです。
つまり存在する前は「夢」だった物です。
それを実現したから、それらは存在するわけです。

そう考えると、我々はかつて誰かの夢だったものに囲まれて暮らしているわけです。
凄いことですよね。

できもしないことをやりたいと言ってしまうと、やらなければいけなくなるから、それはリスクなのか?
もしできなかったら評価が下がるので、やはりリスクか?

見方によってはそうなのかもしれないけど、そもそもリスクが無いものなんて価値が無いとも言えるわけで。

結局は、どれだけやりたいと思えるか否かがカギで、相対的にリスクが小さくなってしまえばやるわけですよ。

やはり「思い」次第ってことですね。

セルフイメージが自分をつくる

勉強ができる人は良いのでしょうが、できない人は日々学校で、できない自分と向き合うことになるでしょう。

できないのはしょうがない、なんて言ったら身も蓋も無いですし、学校で勉強している以上、何とかしなければいけないでしょう。

ですが、できない自分にフォーカスしたところで良い事は起きません。

自身に対するイメージが、成果に対して大きな影響を与えている
というのは、海外のどこかで行われた実験で明らかにされています。アメリカだったかな?
IQが高かろうと低かろうと、自身が持つイメージが成果を左右するそうです。

自分はダメだ
と思うと、成果は出せません。

ダメだから成果を出せないのではなく、ダメだと思うことによって成果が出せないのです。

ネガティブなイメージがネガティブな結果を
ポジティブなイメージがポジティブな結果をもたらす。
考えてみれば当たり前ですが。

なので、何でも良いからチャレンジして、これならイケる!と思うものを一つでも掴むというのは大事なこと。

言われたことが上手にできなくたって、言われてもいないことができる可能性もあります。
勉学以外のことだって、そこから得られた経験や自信を他のことに活かすことはできます。
しかし、それに気付けるチャンスがあまりに少ないのではないかと思うのでした。