変わるものと変わらないもの

製造業は国内回帰するのか?
かつては工業大国でもあったアメリカが、まさにこの問題に直面しています。
果たして狙い通りに変貌を遂げることができるのか?
狙い通りにならないにしても、何かしらの変化は起きるわけで、どういった形に落ち着くのか、それにはどれだけの時間がかかるのか、壮大なチャレンジが行われようとしています。

アメリカも我が国も同様ですが、国内の製造拠点をより人件費の安い国外に移転すれば、企業の収益は増大して、消費者は安くて良いものを買えるようになります。

けど、それまで国内で製造に従事していた人は職を失うという事態になります。
アメリカの場合、年齢が低ければ、職業訓練を受けるなどしてIT系の職に就くなどして、むしろ収入が上がる例もあるようです。

が、そうでない場合も多いでしょう。
なにせ大規模な製造業には多くの人員を擁しますから、それだけの人口を吸収できる仕事が必要になるわけです。
サービス業やインフラ関係など、後は何でしょう。やはりアメリカと言えば農業でしょうか。でも、新規参入は難しそうですね。
もちろん仕事を得られない場合もあるでしょう。

対して我が国はどうなっているのでしょう?
今は過渡期なのか、それとも製造業からシフトした人の受け皿が十分にあるのか?
そもそも労働人口が不足しているから問題無い?
実感がなく、良く分かりません。
工場の海外からの呼び戻しも無くは無いようですが、こちらもあまり実感がありませんね。

そもそも、人件費を節約するために海外進出したわけで、製造を国内に戻したら単純に製品価格が上がってしまいます。
なので、むやみにそうすることもできないのでは?

それにしても、製造を海外に出してコスト低減して、会社は儲かるようになったのかもしれませんが、国民の日々の暮らしが総じて豊かになったようには感じません。
で、「暗黒の~年」とか言われているわけです。

さて、これから我が国も製造を国内に戻す方向に行くのでしょうか?
そうならないにしても、何かしらの変化が求められるでしょう。
恐らく想像よりも早く…と思っておいた方が良いです。
というのも、変化が求められてからアクションをしても、大抵はオロオロドタバタして、うまく対応できないだろうから。

いずれにせよ、かつて理想的だった状態があったとして、そこへ戻ろうとしても無駄です。

一度なくしたものは復活しないから。
技術や文化など総じてそんなものです。

やめてもまたやればいいじゃん
のようなことを考えているなら、それは大間違い。

明文化できるものはそのまま残せます。
でも、文章や音声、動画などの視覚情報で伝えられることには限界があります。
やらないと分からない経験知などは、無くなってしまったら、もう分からない。

航空産業などは分かりやすい例です。

戦後、日本は航空機の開発を禁じられたので、航空技術者がいなくなりました。
その後も防衛産業として、飛行機を作ったりやめたり。
やめる度に施設は失われて、人もいなくなります。
「またやればいいじゃん」で以前と同じように再スタートできるかというと、そんなに簡単ではないのです。

というわけで、今後の我が国に限らず、世界中が未知の未来に突入していくことになる気配があります。
そんな未来に恐怖したところで事態は好転しないわけで。
ではどうしましょう?

時代が変わって、必要な知識やスキルが変化しても、恒久的に求められるものはあります。

困難に立ち向かい
屈しない心
乗り越える心

そういったものの重要性は、いつも時代も変わらないでしょう。
何事も始まりは「心」からです。

できればそういったものを、楽しさとか好奇心を動機として構築していけるとハッピーですよね。
なので、今のうちに好きなこと、楽しそうなことでチャレンジしておくと良いと思います。
その経験は近い将来、きっと役に立ちます。

学びの順番こそが重要

何となく日々思うのは、勉学していればなんとかなるというのはすでに終わっているということ。

この場合の「勉学」とは、定型的な知識を頭に入れることや、問題を解くようなことを指します。
要は、目的無しにそういったテストの問題の解答を導き出すようなスキルを高めたところで、あまり役に立たないよね、ってこと。
いいところ、受験をクリアしたり、学校を卒業するところまででしょう。

実際のところ、そういったいわゆる勉学のスキルに要する能力に、実社会で要求されるような頭の使い方が必要とされるかというと、そんなことは無いです。

どうも同じ「考える」といっても…

問題を解くのは、一つの答えを導き出すといったことをします。
これと
想像力を用いてクリエイティブに考えるってのは、どうも違う。全く違う。

両方とも「考える」なのですけどね。

問題を解くスキルが高いからといっても、創造性や想像力が高いわけではないのですよ。
頭の使い方がかなり違う。

なので、クリエイティブなデキる人って、問題を解くようなお勉強の結果、そうなったような気がするかもしれませんが、違います。

うーん、うまく言えません。

恐らく決定的に違うのは学びの姿勢であって、目的が無いままに言われたことをやったり覚えたりするのって、やはり単なる作業的なスキルになっちゃう。
それは当然だと思う。

対して、興味を持ったことに対する追求などでは、得られるものが全く違うのです。

興味を持ったことの裏側には、それこそ無数の理論や学問があるのですが、それを能動的かつ自発的に取りに行こうとする中で得られるものがあるのであって…それは受動的な勉学とは頭の使い方が全く違う。
なので、興味を持ってから学ぶべきだと思うのです。

乱暴なことを言わせてもらうなら、何に使うか分からない知識を沢山詰め込もうとすると、自発的にやるためのリソースを圧迫するだけであって、まさに百害あって一利なしの状態になりやすいのではないでしょうか。
そんなことを思ったのでした。

勇気があるとうまくいくわけ

チャレンジしてゴールに到達するためには、優先度が高いものにフォーカスして、自ら持つリソースを集中する必要があります。
というか、そんなやり方をするなら大抵うまくいくものです。
諦めなければね。

でもそれは同時に、相対的に優先度が低いものを不要なものとして手放すということでもあるわけです。

そこには手放す恐怖があります。
一般的に言われていることや、周囲の声などの雑音もあるかもしれません。
特に「普通は…」という価値観から離れるのは勇気が要ります。
だって普通じゃなくなるわけで、その先に進むと何の保証も無く、全ては自分次第。

もっとも、「普通」だったら何か保証があるのかというと、実はそっちも無いのですけどね。
マジョリティーとなることで安心はしていられるかもしれませんね。
この道を選択すると、多くが得られるものを得て、多くが恐れるものを恐れて…
別に悪いことではありませんが、まぁ普通なのです。

さて、どうしましょうか?
と考えたとき、実はすでに答えはあるのではないですか?
普通を選ぶことによって心がザワザワしそうなら、恐らくその選択は自分に合っていません。
時が経った後に後悔するかもしれません。

自分で選んだことなら結果がどうあれ、やらなかった後悔よりはマシです。
それに、チャレンジしたときに得る経験は、きっといつか役に立ちます。これは絶対。

とはいえ、いきなり大きな勇気を振るって、突然凄いチャレンジをする必要もありません。
しても良いですけどね。
まぁ、それも良い経験になります。

最初は小さなチャレンジでも良いのです。
できれば、大きなゴールを定めておいて、その達成に必要なものを未来から逆算してブレークダウンしていきましょう。
そして、今できそうなところまで小さくなったら、それをやりましょう。すぐやりましょう!

そう、最初は小さな勇気でもいいのです。
それを継続するとどうなるか?

最初に小さな勇気でやったこと
これを継続すると自分にとっての「普通」になります。
習慣化しますから。

そうしたら、次の小さな勇気を振るってみましょうか。
そしてそれも継続すると習慣化して「普通」になります。

そんなことを大学在学中継続すると…
凄いことになります。

シンプルですね。

でもきっと、勇気が無くてもうまくいく方法が…
あると良いのですが、残念ながら思い付きません。