いつやるのか?何をやるのか?

学生は色々やりたいことがあったりするでしょう。
そこでが陥りやすい間違いが今回のネタです。
学生に限らないかもしれないけど。

「なぜやらないの?」
という問いに対して

「できないから」
とか
「やったことがないから」
という答え。

一見もっともそうですね。

多くの場合、本当の答えは
「やりたくないから」
ではないでしょうか。

できないからやらない
できるようになったらやる

一見、凄くまともでもっともな気がします。

でもこれ、凄く変な理屈なのです。
やったことがないことは、やらない限りはできるようにならないから。

夢工房の学生達がやってるレーシングカー関連なんかは、凄く分かりやすい例です。

授業でどんなに一所懸命学んでも、車を作れるようにはならないでしょう。
座学や実習、実験などでは分からない事が多すぎるからです。
実際にやらないとできるようにはなりません。

クルマを構成する小さな要素であれば、それなりに理解することはできるかもしれません。
であれば、そういう感じで色々な小さな要素を学んで、それらを組み合わせればクルマが…

できませんよ。

この辺が大きな勘違いをするポイントなのですが、小さな要素を合体すると最終形態の製品になる?
なりません。

順番が逆だからです。

最終形態、つまりどのようなクルマにしたいかによって、構成する要素がどうあるべきかが決まるわけで、その逆はあり得ません。

「あり得ない」というのは言い過ぎかもしれませんが、仮にそのような要素から組み上げるプロセスでクルマを作るとどうなるか?

当然ながら
「こんなんなっちゃった」
というクルマになります。

想像が付きにくいかもしれませんが、恐らく、というか、ほぼ間違いなく…
見るも無惨な、滑稽な見た目の、何に使うか分からない、奇妙なクルマになるはずです。

個別の要素は優れていても、何のためなのか明確でない要素を組み合わせていったら、訳が分からないものになるのは当然なのです。

素晴らしい部品を組み合わせていったら、素晴らしいクルマができあがると思いましたか?
残念でした。

そもそも最終形態のクルマとしてのゴールが無い状態で、個別の部品に良いも悪いも無いのです。
あえて言うなら、目的の無い部品は良いものではありません。
だって目的が無いのだから、評価指針自体が無いのです。
そんなものを組み合わせたところで、良いものになるわけはありません。

これこそ「やってみないとわからないこと」です。
やるべきだと思ったことをまずやってみる。
すると必要なことが分かる。

やるべきだと思ったけど、まずは色々と細かいところから…
それはあまりに遠回りというか、取り返しがつきません。
それが習慣化すると修正が難しいし、時間は戻せないから。

恐らくその辺は、個別の科目を生真面目に学ぶ経験をしてきた学生達には理解しにくいところだと思います。

これ、学校の勉強だって一緒だと思うのですけどね。
個別の科目の出来が良かったり、さらに言うなら、学歴が立派だったりすると素晴らしい将来が待っているような気がしますものね。

成績が良かったり、学歴が立派だと将来の選択肢が広がる…とか最近でも言ってる人がいますが、それに対しては疑問を感じます。
確かに昔はそんなこともあったと思いますけど、そんなの20~30年前に終わっちゃってるはずなのです。

好きなことを突き詰めた結果、成績が良かったり立派な学歴を手に入れていたりすることはあるでしょうけどね。

どこに重心を置くか

学生は色々やることがあって忙しい、大変だなぁ、と思うこともあるでしょう。
まぁ卒業後のため、というか、その後の人生のために色々身に付けておかなきゃね、ってところなので仕方ないのです。

定型的な知識の習得、いわゆるお勉強はもちろん、実践的なスキルや、人生経験としても身に付けておくべき事は山ほどありますね。

そういったもの、どれも大事なのだけど、もっと重要なのは、というか、考えておくべき事は、どこに重心を置くかとか、習得するものの範囲とか組み合わせをどうするかとか、そういった切り口もあるってことです。

当たり前なことだけど、皆が同じように学んで、同じようなことを経験して、同じような仕上がりになったらどうなるのでしょう?

例えが悪いかもしれないけど、スマホだってパソコンだってクルマだって、皆同じだったら選択時に迷う必要は無いかもしれないけど、全く面白くないでしょう?
どれ選んだって同じだよ、ではね。

それに、会社はもちろん世の中は、人と違ったことができる人達が集めって、変わったこと、面白いこと、役に立つことをデッカくやるから発展したり価値を生み出したりするわけでね。
学生諸君は、就活なんかが気になると思うけど、言われたことばかりやって、平均的というか、皆と同じになっちゃうと、別にキミを選ぶ理由は無いわけですよ。
前職で入社試験の面接担当をやったときなんかは
「あぁ、コイツも似たような事を言うのだなぁ」
と思っちゃったものです。

本人は皆と同じなじゃないと不安なのでしょうけど、募集する側は皆と同じじゃ面白くないのですよ。

学校みたいに、皆が同じようなことを同じようにする単一の尺度でのみ評価をするシステムってのは、ハンドリングしたりフォローするのは楽で良いのです。
毎年同じ事を繰り返して、新しいことを考えたりチャレンジしたりしなくても良いからね。

だけど、それと引き換えになっているものが意外と大きいわけで、それが歪みとなって社会に影響を及ぼします。
何事もトレードオフですね。

企業が毎年同じことしてたら継続できないでしょう。
特に製品開発なんかは分かりやすいかもしれないけど、それじゃ新製品できませんもの。

というわけで、基本的な知識ってのは汎用性があって、色んな事に使えたりするので便利で大事なのだけど、人から言われた通りに、むやみに広げたり狭めたり、均一に習得するのではなく、自らゴールを設定して、それに適した重心を考えてやってみるのが良いのではないかな、と思うのです。

そうしないと、面白さとか強みとかは生まれませんからね。

新しい時代は混乱とともにやってくる

何やら世界的に混乱の予感がしてきましたね。
ただ、そういったことは今に始まったものではなく、周期的に発生するもののようです。
過去にも恐慌やら戦争やらはあったわけで。

ただ、そんな中にも気付きや学びはあります。

フェイクな情報や脅迫は、ディールのための武器になる
それは昔からあったことだし、事の大小の違いはあれど実は日常にも潜んでいることです。
カオスな国のお土産屋さんなんて、そんなのが日常だったりもしますしね。

ただ、それを国家間でやるとかなり困ったことになるのですね。
いやぁ、勉強になります。

正しいものではなく、強いものが正義
実はそれはずっと昔からそうだったのですけどね。
戦争なんて善悪の問題ではなく、勝った者が正義となるわけで。

でもそれが世界標準になってくると、昔からあったことでは済まされません。

今回言いたいのは、そういった混沌としたバトルの価値観に合わせていこうぜ!ということではなく、そんな中で我々はどう振る舞うべきなのかというのを考える機会が来たのではないだろうか?ということなのですよ。

以前、「余裕」について記事にしましたけど、こういった混沌とした状況になる理由は、やはり余裕が無くなってきたからなのでしょうね。

そういった一見厄介な状態が物事の見方を変えて、大きな価値の転換点となるのかもしれません。
かつての混沌とした時代で何が起きたかというと、革命やら改革です。
要は、大きく変わる前段階として混沌の時代があるということです。

民主主義だって、資本主義だって、人類誕生より前にあったものではなく、後に作り出されて、徐々に形が変化してきたわけで、もちろん今後も変わったり消えてなくなったりする可能性はあるわけで。
ひょっとしたら新しい形の文化が生まれる前段階がやってきたのかもしれません。

どうしようも無い行き詰まった状態になれば、変革を嫌う人だって変わらざるを得ません。

この状態の明るい面を見るなら、これから理想的な状態へ移行するサインみたいなものと捉えても良いのかもしれませんね。

で、どうしましょうか?
混沌の中で、我々が目指すべきゴールは何か?

混乱に乗じて一儲け…
ではありません。
そんなことをするから混乱するのです。

こんな時こそ道徳だと思います。
「得」じゃなくて「徳」です。

徳があるところに本当の価値がある。
もちろん金銭の問題ではなく、それを超えた価値です。

時代は巡るわけで、きっとこの状態は我らの先人がかつて通った道。
その時彼らはどうしていたのか?
そんなことを振り返ってみるのも良いかもしれませんね。